「奧多摩の神社風景」
<平成15年7月参拝・8月記>
目次
「奧氷川神社」(村社)
「武蔵御獄神社」(式内論社・府社)
「青渭神社」(式内論社)
「虎柏神社」(式内論社・郷社)
参照:武蔵国の延喜式内社・5
前日はまさしく台風であった。つまり今日は台風一過。つきぬけるような青空をまのあたりにしては出かけざるを得ないだろう。どこにいくかも定めずにとりあえず家を飛び出す。電車に乗る頃には「奥多摩に行こう」と確定させるあたりが、なにやら滑稽でもあったが。
朝11時過ぎに「奥多摩駅」に到着する。本来ならもう少し早めに行動するべきなのだが、まったりとしすぎてスタートが遅くなる。
奥多摩駅から出ると、徒歩1分もないところに神社は鎮座している。
しかし様子がおかしかった。なにも予備知識なしで訪問したのだが、たまたま夏の祭礼とかさなっていたらしい。この時期に神社にはよくあることだが、それだけで私の気分はなんとなく悪くなる。
単純に賑やかな写真が遠慮したいだけなのだが。
『奥氷川神社』
(村社・東京都西多摩郡奥多摩町)
祭神:
須佐之男命
稲田姫命
大己貴命
当社は武蔵国埼玉の大宮氷川神社・所沢中氷川神社の奥社とも伝えられている。創建年代や由緒は定かではないが古社であることは間違いない。
境内の三本杉は東京都天然記念物。幹は根元から約3メートルのところで三本に分岐。都内最大の杉であり、高さ約49.3メートル。樹齡は650年とも700年ともいう。
神社の境内に足を踏み入れてみる。私のような部外者でもすんなりと立ち入れるぐらいに気配はやわらかい。丁度「奉納の舞」が社頭にておこなわれていた。馬鹿騷ぎでないおごそかな、地域に根づいたまつりのようす、そして伝統に私の邪険な気分はふきとんでしまった。貴重な舞を拝見したことで、気分も晴れなにやら良い予感がする。なごやかな空気が嬉しかった。
以下、獅子舞の情報を転載する。掲載元は「奥多摩町ホームページ」<http://www.okutama.gr.jp/>
大氷川の獅子舞は、奥氷川神社(奥氷川大明神)の祭礼の中心行事として古くから行われていますが、いつのころ創始されたかは不明です。しかし、寛政4年(1792年)以前であることは明白です。
当時は4月17日と8月1日の2回にわたり祭礼があり、4月17日は雹害よけ、8月1日は暴風防除のための祭りでした。現在は晴天の確率の高い8月第2日曜日に行っています。
服装は獅子はかすり模様に錠形紋をあしらった広袖の腰切着に花模様のかるさん、くるい手(舞方)3人、花笠(ささらすり)6人のほか、唄方2〜3人、笛方10人内外、はやし方2人で一立を行います。
獅子の名称は、大太夫、小太夫、女獅子と呼び、大太夫、小太夫の獅子頭はともに黒色で、大太夫は金条と黒条によるねじれ角、小太夫は赤条と黒条のねじれ角、女獅子は金色の頭に小さい一本角があります。花笠はぼたんの花をかざします。
神社写真的には満足のいく景観で撮影も出来なかったし、そもそも拜殿前で参拝もできなかった。それでも私はなごやかであった。ひさしぶりに良いものを見させて貰った。ただ、あまり長居をするわけにもいかなかったので、JR青梅線の「御獄駅」まで舞い戻ることにする。
バスは臨時運行。ただ奥多摩から御獄にやってきてバスに乗るのは私一人。バス自体は東京方面から御獄に電車ダイヤにあわせて運行されている。
270円、10分で「滝本ケーブル下」に到着。ここからは往復券1090円で御岳登山鉄道のケーブルで一気に山をよじ登ること6分。お昼過ぎには山頂駅に到着。実際はここから20分ほど歩かないと拝殿までは到達しないのだが。
『武蔵御獄神社』
(むさしみたけ神社・府社・青梅市御嶽山鎮座)
<朱印>
主祭神:櫛真智命
相殿・大己貴命・少彦名命・廣國押武金日命(安閑天皇)
奥宮・日本武尊
御眷族大口真神
祭神の櫛真智命は記紀にはみえないが、高天原の天香久山の神とされ卜占の神とされている。この神は御獄の土地神として古くから祀られており、一説に延喜式内社の大麻止乃豆乃天神社ともされていたが、明治維新後に丸宮明神社に社名が認可されてしまった為「御獄神社」で申請したといういわれを持つ。この両社が延喜式内社を主張しているが、現在でもどちらともいえない状態である。
創建は崇神天皇7年といわれている。日本武尊が東征の際に御獄山上に武具を蔵したために「武蔵」の国号が起こったといわれる。天平8年(736)に行基が蔵王権現を勧進したという。文暦元年(1234)に中臣国兼が東国遍歴の際に霊夢によって御獄山にのぼり、社殿を再興。
鎌倉来以来、神仏習合による蔵王信仰の霊山として栄え、修験道的な山岳宗教をもとに関東一円、甲斐などに信仰を広げていった。徳川家康が関東に移封されあつく崇敬。慶長11年に大久保長安を普請奉行として社殿を改築。この時に南向きの社殿を、江戸守護のために東向きに改めた。
江戸期以来、関東地方を中心に御獄講が盛んとなり、現在に及んでいる。
また、日本武尊が東征の際に、この地で難を狼によって救われたという伝承があり、御獄神社の守しめとして崇敬されている。
明治後「御獄神社」として神仏分離し、昭和27年に「武蔵御獄神社」に改称。現在の幣殿拝殿は元禄十三年に造営されたもの。旧本殿は永正8年(1511)造営。社宝の国宝「赤糸威大鎧」(畠山重忠奉納・日本三大鎧)を中心とした宝物殿がある。
本殿から片道徒歩45分のところに「奧の院(奥社)あり。
参考:神社御由緒書・神社辞典・式内社調査報告11
武蔵御獄神社表参道 |
鳥居の付近から社殿付近遠望。20分ほどは歩く。 |
武蔵御獄神社街道途中の御師(馬場家)宅
慶応二年(1866)造
御師宅は参詣者の為の宿坊のような役割を果たしていた |
御獄の神代欅
日本武尊のころから繁っていた木とされる |
やっと神社らしい気配。
御獄山頂駅から徒歩15分地点 |
随神門
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緑あふれる参道は講の石碑が林立。 |
そして拝殿は修復工事中・・・。 |
右奧・旧本殿(永正8年・1511建立)
左前・現本殿(明治10年再建) |
拝殿脇の獅子から下界を臨む
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とにかく暑かった。山だから涼しいだろうというのは大きな誤解。重力に逆らいつつ坂道をよじ登り、石段を踏みしめ、ようやくに拝殿到着したときには呼吸荒く汗が噴き出る。それでいて拝殿が修復工事中だったために気力がそがれる。なにやら間が悪いが、修復を邪険にできないので参拝は普段どうりに行う。そのあとはいつものごとく御苦労様ですという流れで朱印を戴く。私の朱印帳も段々と様になってきたようで、やり取りも老練。
さすがに奥社にいくだけの自信も体力も時間もなかった。ただこのまま立ち去るのも面白くないので宝物殿を見学することにする。国宝2点に重文多数。そして館内はほぼ無人。こんな環境で畠山重忠由来の大鎧を堪能するのが無性に贅沢であった。畠山重忠という存在が武蔵国には根づいている。私の神社探訪にも縁がある。そんな存在の欠片が鎧となって伝わっていた。躍動するかのように私は対座するだけ。
御獄駅までとにかく戻る。帰り道は早駆けのように坂道をなだれ落ちる。多くの人びとが慎重に足をすすめているなかで、私のスピードは尋常ではなかった。
満員のケーブルカーの一番前を占拠し、展望を楽しむ。普通に土産屋の販売を行っていたおばさんが、時間になると帽子をかぶって運転手になるところが無性に愉快であった。運転といってもハンドルをにぎったり、スピード調整をするわけではなく、御獄の案内をすることと、ドアの開け閉めなのだが。
JR御獄駅前の観光案内所で地図を貰う。御獄から立ち去るのに地図を貰う。それなのに地図が普通にあったのが可笑しかった。私は「御獄から沢井(隣駅)の間にある青渭神社に行く地図はあるか」と尋ねると「山ですか里ですか」との応対。ここらへんが流石だった。私は「山宮ではなく里宮に行こうと思うので」で、地図を戴く。観光案内で山と里の区分が出来ているのも流石だし、我ながら小さな田舎の神社で里と山に区別をつける知識があるのもが不思議だろう。外見では神社研究家にはみえないのだから。
御獄駅から20分ほどのんびり歩くと青渭神社里宮があった。曽の名も「青渭通り」というとても東京都内とは思えないような古風で静寂に包まれた道を歩み、途中の坂道にあいかわらず弱りながらではあったが。
「青渭神社」
(青梅市沢井鎮座)
祭神:大己貴命。かつては青渭神、青沼馬沼押比売神ともいう。
惣岳明神とよばれ標高742Mの惣岳山の山頂に奥宮があり、ふもとに里宮がある。山頂は磐座とともに湧き水があり、聖域となっている。この湧き水は「真名井」もしくは「青渭の井」とよばれ、付近一帯を潤す水源地ともなっているという。この惣岳山は典型的な神奈備型であり古代における山霊と水霊の統合した形とみることができる。ふもとには数基の円墳が散在しており、もっとも式内社鎮座地(青渭神社論社が3つある)としてふさわしいものとされている。
青渭神社の祭神は、いずれも土地の産土神である青渭神とされ、稲作農耕とともにもたらした古来の信仰を色濃く留めている姿といえる。
青渭神社里宮 |
境内 |
里宮拝殿 |
扁額の字が青い・・・ |
青渭神社里宮。後方には惣岳山(742メートル)を従えていた。私の予備知識では山頂には小さな祠があるだけだと言うし、私も式内社巡りとはいえ山の上までつき合うほどの気概もないので、ここは里宮で我慢をしておく。
神社にいたるまでの坂道では暑い暑いとへばりながら歩いていたのが、鳥居の先の石段を登る頃になると不思議と涼しさを感じるのも「らしさ」にあふれていた、石段の上ではさわやかなる空間がひろがり、その奧に拝殿があった。この広場ではきっと静かに祭礼が行われたりするのであろう。そんな空間で腰を落ち着け空を見上げる。青い空は淡い緑と解け合っていた。
帰り道。15分ばかり歩くと「JR沢井駅」に到着する。道中、なんども「ここは東京なのか」と考えさせられる。第一、私が歩いてきた道は小型車がやっと一大通れる位の道。そして坂に面した家々は段々と石垣が積まれ、細道がうねっている。とても東京ではなかった。
ただ駅に戻ってくると、小さな駅なのにハイカーや観光客が多いかった。そして駅で気が付く。「ここが澤乃井だったのか」と。我ながら気が付くのが遅かった。青渭神社の水の豊かさと水神の関係には頭が回っていたのに、そこから澤乃井が来てもおかしくはなかった。
沢井駅から上り電車に乗って東青梅駅に向かう。たいした距離でもないけど25分ほど搖られて東青梅到着。べつにこの駅自体にはなにも期待していない。駅から地図を眺めて、バスに乗るのもバカバカしそうだから歩くこと2キロ弱。15時30分頃に到着する。
『虎柏神社』
(青梅市根ヶ布鎮座)
祭神:大歳御祖神・他四柱
創建時期不明。小曽木郷の総社。
文応元年(1260)に再建記録あり。永正年間(1504−1521)に武蔵多摩の勝沼城主三田氏の信仰篤く社殿改築が行われている。天正18年(1590)に浅野長政が正殿に諏訪神、東相殿に虎柏神、西相殿に疫神を定め、小曽木郷の総社を号したとされている。江戸期には諏訪明神社・諏訪神社と称していたが明治維新後に旧名に復した。
本殿は享保19年建立。 明治6年郷社列格。
参考:青梅市教育委員会及び東京都教育委員会設置案内板など。
式内社調査報告にも詳細な由緒が記載されていないが、神社の気配に圧倒される。これほど立派な気配を漂わせているのに由緒がわからないというのがなにやら殘念であった。
道中、「諏訪神社祭礼」の札が多く見受けられた。諏訪神社はどこだろう、と思いつつ歩いていると「諏訪神社前」というバス停があって、そのバス停の横には「延喜式内・郷社・虎柏神社」と書かれた社号標がある。もしかして諏訪神社=虎柏神社なのか?と疑問符がわき、確かに帰宅後に調べてみたら「諏訪明神」と呼ばれていた時期があったらしい。
境内入口の鳥居から山を登るかのように円を描く坂道を半周すると深い木々に囲まれる。この山自体は「高峯神社」という小祠が祀られている。
緑深き参道に足を踏み入れるとともに驚きを感じる。なにやら参道が荒れている。目の先には大木が横たわっている。それこそ前日の台風の被害であろう。一人の中年女性が先客として参拝していた。私と「台風で倒れちゃったねえ。」と会話するも、かの人は私をどう思っているのだろうか。そんな事を感じつつ参拝をする。だが心はざわついている。どうしてもこの倒木が気になる。太古から受け継がれた神宿る木の霊気が私を取り囲むかのように心がざわつく。別に私は霊感が強いわけではなくむしろ鈍い方だ。それでも生命体たる木の無念に心をうたれ、倒木に対しても頭を垂れておきたくなってしまった。
虎柏神社と向かい合うように境内社・高峯神社の参道がある。けものみちが多少は整えられたかのような山道を登る。途中蜘蛛の巣に襲われ、気分を害すばかりなので、木の枝をふりかだしながら前に進む。なぜそこまでするのかはわからないが、しばし細道を登るとちいさなちいさな祠があった。なるほど名前の通りの高峯だ、と納得。せめて眺望が期待できれば良いのだが視界は木々に囲まれなにも見えない。まあ、登るという行為が重要なのさ、と悟ったかのように来た道を降りる。
虎柏神社前で、もう一度境内を見渡す。単純明快に壮絶な光景だった。奥多摩の山を登り、神社の山を拝み、そして最後に「自然」というものを純粋に都内で考えざるを得なかった。
<参考文献>
各神社境内の解説看板・御由緒書き
式内社調査報告・第11巻東海道6・皇學館大学出版
武蔵の古社・菱沼勇著・有峰書店
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