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武蔵国の延喜式内社
(荏原・都築・多磨)

紫字神社が延喜式神明帳記載神社。
神社名
が複数書いてある場合は延喜式内社の候補として数論ある場合。いわゆる「式内論社」。
神社名リンク先は掲載神社。他の地区は「武蔵国の延喜式内社」。

武蔵国延喜式内社44座(大社2座・小社42座)
武蔵国(埼玉県外・東京及び神奈川−11座)
荏原郡−2座都筑郡−1座多磨郡−8座

以下、列記してみたい。
なお一部の表記できない漢字を現代漢字に改める。
不明と記してあるのは本当に不明の場合もあるが、おおむね執筆者の調査不足による不明である。ご存じの方が居られたらお教え願いたいと思う。


荏原郡【エハラ郡】
2座(小社2)

『稗田神社』(ひえだ神社・本来「ひえ」はひえという漢字)
稗田神社(ひえだ神社・大田区蒲田鎮座・郷社・本来は「稗」にクサカンムリ)
祭神:誉田別命・天照大神・他
社伝によると和銅二年(709)に僧行基が天照大神・八幡・春日の三神体を祀ったことに始まり、のちに僧日蓮が村民の請いをいれて開眼したともいわれているが定かではない。もともとは八幡社。
斎場としての歴史はさらにさかのぼり、第11代垂仁天皇の御宇神地神戸をお定めになって天神地祇を崇敬し給いし霊地とも伝えられる。


御田八幡神社(港区三田鎮座・郷社)
祭神:誉田別命(応神天皇)・天児屋命・武内宿禰
和銅2年(709)創祀とされ延喜式内「稗田神社」とされる古社。
一条天皇(位986−1011)の寛弘年間(1004−12)には武蔵国御田郷の総社とされ嵯峨源氏渡辺党の氏神として崇敬され、渡辺綱(源頼光の四天王のひとり。頼光に従い洛北や羅生門の鬼や大江の酒呑童子を退治したという説話がある。)の産土神として俗に「綱八幡」とよばれた。
江戸期には徳川家康が元和二年(1616)に参拝し源氏の白旗を奉納。社宝として「渡辺綱の羅生門禁札」と「源氏の白旗」が伝わっている。
古くは稗田神社・御田神社・三田八幡宮・綱八幡などと称されていたが、明治維新後に三田八幡宮別当僧が神主職となり「稗田神社」と社号を変更し郷社に列格。のちに「御田八幡神社」と改称した。


六郷神社(大田区東六郷鎮座・郷社)
祭神:誉田別尊
社名の起こりは近在六村の産土神であることによる。六郷八幡宮とも称した。
天喜5年(1057)に、源頼義・義家父子が当地の大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢をつのり石清水八幡宮に武運長久を祈り、前九年役に勝利を収めたので、凱旋後に分霊を勧進したことが創建と伝えられている。
文治五年(1189)に源頼朝も奥州征伐に際して同様に戦勝祈願をし建久二年(1191)に梶原景時に命じて社殿を造営したという。現在、境内には頼朝寄進の浄水石と景時寄進の太鼓橋と伝えられてものが残されている。
天正十九年(1591)に徳川家康によって神領寄進の朱印状が発給され、慶長五年(1600)には六郷大橋の竣工を祈る願文が奉じられている。このことから当社は神紋として八幡巴紋と併せて葵紋を使用している。
明治五年(1872)に郷社列格。明治九年に六郷神社と改称。<六郷神社由緒・参考>
源頼義父子が勧進する以前、つまり式内社選考当時まで創建年月がさかのぼるかどうかに関しては不明。

ほかに大田区南久が原鎮座の鵜ノ木八幡神社説港区麻布十番鎮座の十番稲荷神社説(合祀の竹長稲荷神社)がある。


『磐井神社』
磐井神社(いわい神社・大田区大森北鎮座)
祭神:大己貴命、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后・他
当社は敏達天皇2年8月の創祀と伝え、三大実録によれば貞観元年(859)に「武蔵国従五位下磐井神社」官社に列すと記録されている。
また当社を武蔵国の八幡総社に定めたともされ、社殿には「武蔵國八幡總社・磐井神社」と記された立派な扁額が掲げられている。(余談だが、一国一社の国府八幡としては府中市八幡町の八幡神社がある)
万葉集記載の「草陰の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山路超ゆらむ」の歌にある笠島とは当社末社の笠島弁天という説がある。
永正年中兵火にかかり社殿が焼失。享保10年には、徳川八代将軍吉宗公造営の記録があり、昭和9年郷社列格。昭和20年5月戦災により焼失。昭和29年9月再建。
当社社頭の「磐井の井戸」は、もともとは境内地。当社の由来となった井戸であり、霊水として古来有名。第一京浜道路の拡張によって歩道上となってしまった。
当社にある鈴石は延暦年間(782−806)に石川豊人が武蔵国国司として帰任した際に、神功皇后とゆかりのあったこの石を奉納したと伝えられている。この石を打つと鈴の響きがするために、鈴ヶ森の地名が生まれたともされる。また書家松下烏石が寄進したカラスの模様が浮き出るとされる自然石もある。



都築郡【ツツキ郡】
1座(小社1)

『杉山神社』
本源の所在不明。現在、横浜市内に「杉山神社」と称する神社は41社。また新編武蔵風土記稿に72社、うち都築郡24社の記載がある。杉山神社の分布はいずれも鶴見川の本流、並びに支流ちかくに鎮座している。
なお杉山神社のうち五十猛命を祭神とするのは「杉山」と植林の神としての五十猛命の神格が結びついたものであり、日本武尊を祭神とするところは、東征伝説から付会されたものであるとされ、多くの杉山神社が五十猛命もしくは日本武尊を祭神として祀っている。現在の最有力候補として以下の4社があり、いずれも小高い丘の上にある。

杉山神社・神奈川県横浜市緑区西八朔町(旧郷社)
(武蔵国惣社「大國魂神社御由緒書」記載の六ノ宮は、緑区西八朔町鎮座「杉山神社」)
杉山神社・神奈川県横浜市都筑区中川町(旧郷社)
杉山神社・神奈川県横浜市港北区新吉田町(旧郷社)
杉山神社・神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎町(旧村社)



多磨郡【タマ郡】
8座(小社8)

『阿伎留神社』(あきる神社)
阿伎留神社(郷社・あきる野市五日市町鎮座)
祭神:大物主神・味耜(鋤)高彦根神・建夷鳥命・天児屋根命
多摩川最大支流あきる川を見おろす段丘の上に鎮座している。創建年代は不詳。阿伎留神社は延喜式では多摩八座の筆頭に位置し、また「三代実録」光孝天皇天慶八(884)年に従四位下の神階を賜ったことが記載されている。武蔵国内では同二(878)年に氷川神社が正四位上、秩父神社が正四位下を賜っていることからも当社の重要性がわかる。
武将の信仰も篤く平将門討伐に際して藤原秀郷が戦勝祈願を行い、また鎌倉以降は源頼朝、足利尊氏、後北条氏、徳川家等の信仰が篤かった。


『小野神社』
小野神社(武蔵国一の宮・郷社・多摩市一之宮鎮座)
祭神:天乃下春命・瀬織津比売命・他
小野神社の創始は安寧天皇十八年二月(約2000年前)、または八世紀中頃と言われているが、いずれにせよ定かではない。光孝天皇元慶八年(884)には正五位上に神階が進められた記録がある。中世には武蔵国衙に近在する神社の筆頭として、府中の大国魂神社(=武蔵総社六所宮)所祭神座の第一席に「一の宮 小野大神」と記載されることから「武蔵一の宮」とされている。


小野神社 (郷社・府中市住吉町鎮座)
祭神:天下春命・瀬織津比売命)
もともとは小野宮と呼ばれた当地が鎮座地であったものを、多摩川の水災によって多摩市一之宮に移転させた、ともいうが詳細は不明。
多摩川の氾濫によって鎮座地がしばしばかわり、いつしか多摩川を挟んで二つになったが、もとは同一社ともいう。


『布多天神社』(ふだてん神社)
布多天神社(郷社・調布市調布ヶ丘)
祭神:少彦名命・菅原道真公
創建は不明。桓武天皇の延暦18年(799)、広福長者という人物が、当社に七昼夜参籠し神告によって木綿布の製造を会得し里人たちに教えたといわれている。これが我が国の木綿の始まりとも言う。その布が調(みつぎ)として朝廷に送られた事から、以来此の付近を調布とよぶようになったとされる。
もともとは多摩川畔の古天神に鎮座していたが文明年間(1469−87)に洪水を避けて現在地に移転。そのときに菅原道真公を合祀したという。
本殿は宝永3年(1706)造営。覆殿は昭和40年、幣拝殿は昭和60年の造営。


『大麻止乃豆乃天神社』(おおまとのつのてん神社)
大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸鎮座)
祭神:櫛真智命
祭神の櫛真智命は記紀にはみえないが、高天原の天香久山の神とされ卜占の神とされている。
江戸期には「丸宮明神社」と称していた。明治維新後に神仏分離令が出されたときに従来から延喜式内社候補とされていたため大麻止乃豆乃天神社の名前を申請。大和国十市郡に「天香山坐櫛真命神社」(大社)があって「大麻等乃知神」と元の名が注されていることを根拠にしているという。


武蔵御嶽神社(むさしみたけ神社・府社・青梅市御嶽山鎮座)
主祭神:櫛真智命
相殿・大己貴命・少彦名命・廣國押武金日命(安閑天皇)
奥宮・日本武尊
祭神の櫛真智命は記紀にはみえないが、高天原の天香久山の神とされ卜占の神とされている。この神は御獄の土地神として古くから祀られており、一説に延喜式内社の大麻止乃豆乃天神社ともされていたが、明治維新後に丸宮明神社に社名が認可されてしまった為「御獄神社」で申請したといういわれを持つ。この両社が延喜式内社を主張しているが、現在でもどちらともいえない状態である。
創建は崇神天皇7年といわれている。日本武尊が東征の際に御獄山上に武具を蔵したために「武蔵」の国号が起こったといわれる。天平8年(736)に行基が蔵王権現を勧進したという。文暦元年(1234)に中臣国兼が東国遍歴の際に霊夢によって御獄山にのぼり、社殿を再興。
 鎌倉来以来、神仏習合による蔵王信仰の霊山として栄え、修験道的な山岳宗教をもとに関東一円、甲斐などに信仰を広げていった。徳川家康が関東に移封されあつく崇敬。慶長11年に大久保長安を普請奉行として社殿を改築。この時に南向きの社殿を、江戸守護のために東向きに改めた。
江戸期以来、関東地方を中心に御獄講が盛んとなり、現在に及んでいる。
また、日本武尊が東征の際に、この地で難を狼によって救われたという伝承があり、御獄神社の守しめとして崇敬されている。
明治後「御獄神社」として神仏分離し、昭和27年に「武蔵御獄神社」に改称。現在の幣殿拝殿は元禄十三年に造営されたもの。旧本殿は永正8年(1511)造営。社宝の国宝「赤糸威大鎧」(畠山重忠奉納・日本三大鎧)を中心とした宝物殿がある。本殿から片道徒歩45分のところに「奧の院(奥社)あり。

大麻止乃豆乃天神社論社としては、このほかに天満社(八王子北野町)、大国魂神社(府中市)、天神社(府中市天神山)があるがいずれも根拠は希薄。


『阿豆佐味天神社』(あづさみてん神社)
阿豆佐味天神社(西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷宮前鎮座)
祭神:少彦名命・素戔嗚命・大己貴命
寛平4年(892年)従五位下上総介高望王の創建という。高望王が桓武平氏高望王流の祖であり、村上党の上祖にあたることから潤色されたものか。
瑞穂町殿ヶ谷は中世期に村上郷と称せられ武蔵7党の村上党の本拠地であり、村上党の祖である村上貫主は当地に根拠をかまえていたという。
現社殿は明治27年に改修。 明治6年郷社に列格。
社頭前参道には「文久3年(1863)」の社号標がある。
それ以外の由来は不明。


『穴澤神社』(あなざわ神社)
穴澤天神社(あなざわてん神社・稲城市矢野口鎮座)
祭神:小彦名大神・菅原道真公
創立は孝安天皇4年というが信憑性は無し。一説に創建は正治元年(1199)ともいう。元禄17年(1697)に社殿を改修し菅原道真を合祀。明治13年10月に郷社列格。現在の社殿は昭和61年修復。


谷保天満宮(やほ天満宮・国立市鎮座)
祭神:菅原道真公・菅原道武公
菅原道真の子である道武の創建という。道真には道武という名の子供は存在していないが、父が太宰府に流され、子も配流された際に実名を秘して道武と称したとされている。
太宰府にて道真が薨去された際に、天津島(府中市本宿)の地に社を創建したことに始まるという。
養和元年(1181)に現在地に遷座。
明治18年府社列格。関東第一の天満宮とされる。
菅原氏勧進以前は不詳。式内論社たる所以も不詳。

穴澤神社の論社としては、このほかに穴沢(棚沢)天神社あきる野市深沢)、羽黒三田神社奥多摩町氷川もあげられるが、いずれも根拠は希薄。


『虎柏神社』(とらかしわ神社)
虎狛神社(こはく神社・郷社・別名虎柏神社・調布市佐須町鎮座)
祭神:大歳御祖神・倉稲魂命
崇峻天皇2年(589)の創建とされるが創建時期に信憑無し。一説に天平勝宝年間ともいう。
明治6年郷社。狛江郷(狛江・調布)のなかでも最も早くからひらかれたところといわれ、当社はここに住居を定めた渡来系高麗人の集落神として祀られたものと推定。


虎柏神社(とらかしわ神社・青梅市根ヶ布鎮座)
祭神:大歳御祖神・他四柱
創建時期不明。小曽木郷の総社。
文応元年(1260)に再建記録あり。永正年間(1504−1521)に武蔵多摩の勝沼城主三田氏の信仰篤く社殿改築が行われている。天正18年(1590)に浅野長政が正殿に諏訪神、東相殿に虎柏神、西相殿に疫神を定め、小曽木郷の総社を号したとされている。江戸期には諏訪明神社・諏訪神社と称していたが明治維新後に旧名に復した。
本殿は享保19年建立。明治6年郷社列格。


『青渭神社』(あおい神社)
現在、調布市深大寺・稲城市東青沼・青梅市沢井の3社の青渭神社が論争となっている。

青渭神社(郷社・調布市深大寺鎮座)
祭神:青渭大神(水神)
創立は不詳。現在は深大寺の寺域にあり、眼下を川が流れるところに鎮座している。弥生的稲作に適した地域であり、付近に弥生遺跡がある。また豊富な湧き水があり、水神を祀ったものとされる。清水が青波をたたえていることから「青沼天神社」とも称された。
祭神は水波能賣大神・青沼押比賣命、一説に大池に棲む大蛇を祀ったものともいう。
明治6年に郷社列格。社殿は平成4年竣工。境内には樹齡数百年をほこるケヤキの大木がある。


青渭神社(郷社・稲城市東青沼鎮座)
祭神:青渭神・猿田彦命・天鈿女命
弘仁年中(810−824)の創立ともいうが、詳細は不詳。昔は「大沼明神」「青沼大明神」と称していた。この神社も多摩川の豊富な水と関係のある神社で、かつては霊泉もあり、かつ弥生の住居跡もある。
明治6年に郷社列格。現社殿は昭和49年造営。社殿の付近は東京におけるナシ栽培の起源地(元禄年間に植樹)でもあるという。


青渭神社(青梅市沢井鎮座)
祭神:大己貴命。かつては青渭神
惣岳明神とよばれ標高742Mの惣岳山の山頂に奥宮があり、ふもとに里宮がある。山頂は磐座とともに湧き水があり、聖域となっている。この湧き水は「真名井」もしくは「青渭の井」とよばれ、付近一帯を潤す水源地ともなっているという。この惣岳山は典型的な神奈備型であり古代における山霊と水霊の統合した形とみることができる。ふもとには数基の円墳が散在しており、もっとも式内社鎮座地としてふさわしいものとされている。
青渭神社の祭神は、いずれも土地の産土神である青渭神とされ、稲作農耕とともにもたらした古来の信仰を色濃く留めている姿といえる。


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