「県北の神社風景・1」
<平成15年7月参拝・8月記>
目次
「楡山神社」(県社式内社)
「瀧宮神社」
「高城神社」(県社・式内社)
その2<白髪神社・大我井神社・妻沼聖天・奈良神社>へ
朝、目が覚めたらよい天気だった。なかなかあけない梅雨にムシャクシャしていた気分を吹き飛ばすかの勢いで、唐突に「出かける」ことを決意する。行き先はいつも通りにきめてはいないが、駅に着く頃には「熊谷」方面にいこうかな、と考える。気がついたら「深谷駅」。東京駅を模したこの駅舎は、どことなく空虚なイメージを感じてしまうのも、以前に訪れたときと同じ感覚。
深谷駅にてバスを探す。しかし目的地に向かうバスなんかはありはしない。手元の地図では路線図が記載されていたのだが、どうやらバス路線が廃止されているようだ。面白くないけど、このままでは楡山神社に向かうことができない。神社にいかなければ深谷にきた意味がない。ゆえに、歩くしかなかった。さすがに2.5キロ程度ならまだまだ歩くだけの体力はある。駅前のハンバーガー屋でお持ち帰りのバーガーとポテトを片手に、地図をもう片手にしてあるく。なにやら滑稽でばかばかしいが、本人はこれでも大まじめである。
明けない梅雨空のなかで、照りつける太陽。あついあつい、まぶしいまぶしいと騒ぎながらもまじめな私。手元の地図ではそろそろ楡山神社があってもおかしくない気配。先に見える森こそが、と思いつつ歩みを続けると期待に反して何もない。かなり気になる遊歩道が一直線に伸びていた。私はこの気配も知っている。この遊歩道の気配はまさしく鉄道的な気配。ただ、そうは感じたものの、今は神社が最重要課題である。その遊歩道の先に見える森が、まさしく神社の杜であった。あながちわたしの感覚も間違ってはいない。
『楡山神社』
(にれやま神社・県社・幡羅郡総鎮守・深谷市原郷鎮座)
祭神:伊邪那美命
孝昭天皇の頃に鎮座したというが創建不明。延喜式内社。
楡山の社名は境内にニレの古木が多いためにつけられたという。鳥井脇に神木としてニレの大木(樹齡約600年・県天然記念物)がある。
本殿裏手に塚(古墳)があり、古くからの信仰をうかがうことができる。後方の塚は不入の地としてこれをおかしたものは災害有るといわれている。
境内付近には古墳が散在しており15基ほどを木の本古墳群と総称。
中世期に修験派の寺院が別当となり、熊野信仰の流行に伴って江戸期には「熊野三社大権現」と号し幡羅郡総鎮守「楡山熊野神社」と称してきたが、明治5年に郷社列格した機会にもとの「楡山神社」に戻した。大正12年県社列格。
楡山神社正面・ニレの大木 |
楡山神社裏参道 |
楡山神社正面参道 |
拝殿前 |
拝殿 |
鳥居扁額 |
本殿 |
境内社・荒神社 |
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本殿裏の杜。
塚がどこかはわからないが、無造作で鬱蒼とした
空間に感じるものがあった・・・。 |
鳥居をくぐると、深い木々に囲まれる。どうやら裏参道のようだ。豊かな森の中で私はひたすらに蜘蛛の歓迎を受ける。なにやら腕に蜘蛛の巣がまとわりつき、不思議な感覚にとらわれる。社地は狭い。狭いようだけど、表参道にでると広く感じる。
拝殿にて到着を報告し、あたりを窺う。神社にはひとの気配がまったくなかった。これには残念。さすがに日曜日ゆえにお休みかと、解釈して社殿を一周する。。延喜式内の古社でもあり、県社でもある神社は蜘蛛と蝉と、楡と杉と名も知れない幾多の雑草に囲まれていた。そんななかでも眺望する本殿は色彩豊かで物語を帯びていた。いつまでも見惚れていたいような気配とともに。
社地脇では、闖入者たる私を誰も気にとめることなく、長閑なゲートボールが行われている。
私は私で、誰をも気にかけることなく、神社探索をすすめる。社殿の裏は不入の地であるという。社殿裏の摂末社のさらに奥がそうらしいが、なにぶんにも蜘蛛の巣に参ってしまった。さらには、不入の地があるとわかっている私としても、たとえ遮る柵などがなくても、その奥に立ち入ろうという神社を冒涜するかの恐ろしいまでの勇気は沸いてこなかった。ちなみに塚がどこにあるのかは遠望するかぎりではまったく不明であった。
やはり神社には人の気配がなかった。なにびとかがいれば、挨拶でもしようかと思っていたのだが。かくいう訳も、私のこの拙いサイトを実は「楡山神社」の公式サイトがリンクしてくださっている。若輩者として恐縮の極みであり、お礼なり挨拶なりしておいても損ではなかった。
しかし人の気配がないものはいたしかたがない。私としても次がある。ゆっくりゆるりと立ち去ろう。
帰路。さきほどの遊歩道が気になる。手元の地図をみると、深谷の駅からゆるやかなカーブをえがいて、煉瓦工場まで続いていた。私の鉄道趣味が独特の感覚をキャッチする。このゆるやかなカーブはまさしく線路であった。道路のえがくカーブではないのはみればわかる。そして煉瓦工場という組み合わせ。
東京駅の煉瓦造りはあまりにも有名である。その煉瓦は実は深谷で造られたものであることはあまり知られてはいない。さらには深谷駅駅舎までもが東京駅を模倣(平成8年建築)していることもあまり知られてはいない。とにかく廃線跡を中間地点の楡山神社から2.5キロきちんと歩いて戻る。廃線跡はきちんと整備されていて、快適なウオーキングを満喫する。もっともそんなものは満喫したくはないが、車の臭いがないのがありがたい。
ちなみにこの廃線は「日本煉瓦専用線」であり、1895年(明治28年)に深谷駅から深谷市上敷免の日本煉瓦の工場を結ぶ貨物線として建設。昭和50年廃止。ほとんどの跡は遊歩道として整備されている。
深谷では「まつり」が催されていた。その名も「ふかやまつり」別名、八坂まつりというからには市内にある八坂神社が関わっているのだろう。わかることは各町内会の「こどもみこし」が威勢を誇るように各地域を巡回していること。歩いている最中も、何組もの「こどもみこし」が私とすれ違い、交差していった。
深谷駅にもどってくるも、味気ないことには変わりない。この東京駅チックな駅舎はまるではりぼてのように空虚でものの役にたっていない。ただのお飾りにしておくにはもったいないが、それでも実態は空虚な気配にあふれる。
「瀧宮神社」
(深谷市西島鎮座)
祭神:天照大神・豊受姫命・彦火々出見命
創立年代は不詳。北武蔵を支配していた庁鼻和上杉氏が古河公方の度々の攻撃に本拠を移転させ康正2年(1456)に4代目の上杉房憲が深谷城を築城して以来、深谷上杉氏が代々信仰。
境内には瀧宮神社のほかに深谷城内に鎮座していた御獄神社・八坂神社などが祀られている。
駅に反対側。徒歩1分のところに神社がある。無雑作に林立する木々の中で静かに鎮座している。ここには比較的規模が大きい神社が三社鎮座しているはずだが、社殿が確認できたのは二社。残りの一社は社殿自体が存在していなかった。実は、ここには昨年も訪れている。そのときは確かに存在していた。今はなにやらもの悲しげに鳥居と礎石があるのみ。社殿崩壊でもあったのか、単純な立て替えなのか、一言の説明もない境内は、徐々に深谷駅近隣を巡回するこどもみこしの掛け声につつまれ、静寂が破られつつあった。
そろそろ深谷から熊谷に向かおうかと思う。
熊谷駅。神社散策としてこの駅を利用するのも二回目。まず訪れたいのが駅から徒歩10分弱の「高城神社」。実はこの式内論社を参拝するのも二回目。前回は式内社の知識もないままでの参拝だったので、やり残しが多数。いわばリベンジでもある。
『高城神社』
たかぎ神社・県社・熊谷市宮町鎮座)
祭神:高皇産霊尊(タカミムスヒ尊)
鎮座地は荒川の蛇行によって形成された地域であり、荒川扇状地。古くから地下水の自噴する湧水池が多く、古代祭祀が行われていたものと推定。
当社を奉祭した氏族は、武蔵七党の一派である私市党に属していた久下(くげ)氏であるとされる。
中世期は熊谷次郎直実の崇敬したという記録を最後に衰退。戦国期に石田三成による忍城攻撃によって社殿を焼失してしまったという。江戸期に境内から霊泉が湧き万病に効能があると信仰され、忍城主阿部豊後守忠秋公が厚く崇敬し社殿再建(寛文11年・1671)
明治以前には本地仏として愛染明王を祀っていたため、紺屋業者の信仰が多かったという。
明治七年村社、大正五年に県社列格。
高城神社は国道17号線に面している |
正面入口 |
緑豊かな境内 |
高城神社拝殿 |
私はこの神社に特別な思いがある。言霊信仰ではあるが、私にとってこの神社の言霊が重要な意味合いを持たせてくれる。何も縁もゆかりもない神社ではあったが、朱印のみだけではなくお守りも二つばかり頂戴する。言霊的信仰のかけらとして、身内へのおみやげ、ともいう。そう。私の名字は比較的珍しい名字であるのだが、この神社は私の名字と同じなのだ。ただそれだけでもあるが、そんなことでも親近感にあふれる。
神社は地域にとけ込んでいる。少女たちが宿題だろうか、社頭前でデッサンを行っている。若干の虫の声が静寂を破るのみで、ほほえましい気配。
朱印を頂戴する。待合室でできあがりを待つ。これもまた珍しい。普段ならそこらで待つのだが「お掛けになってお待ちください」と座席に通されるのだから。もっとも、珍しいのだろう。式内社・県社クラスであっても全国的にはマイナー神社なのだから。
続いては熊谷から妻沼に向けて北上しようかと思う。
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