「埼玉<さきたま>をめぐる」
<平成15年1月参拝・平成15年1月記>
「前編・行田古社史跡」/「後編・玉敷神社と鷲宮神社」
目次
「JR行田駅」/「忍城趾」/「忍諏訪神社・東照宮」
「久伊豆神社」/「八幡山古墳」/「さきたま古墳群」/「前玉神社」
<武蔵国の延喜式内社(前玉神社)に関してはこちら>
「JR行田駅」
なんとなく寝ぼけ眼で8時前に地元の駅に立つ。私がJRを利用するときの最寄り駅は武蔵野線北朝霞駅。武蔵野線独特の高架ホームにいると何やら雰囲気の違う電車が入線してきた。どこからどうみても「スカ色」の塗裝をされた113系にみえるんですけど。おまけに「快速むさしの号」とある。なにやらよくわからないけどとにかくこの電車に飛び乗ることにする。
電車は快速。北朝霞の次はなんと「大宮」だという。これはすごい電車だ。乗り換えなしで大宮に行けるというのがなんとも素晴らしい。このすばらしさは武蔵野線利用者でなくてはわからないだろうが。もともと武蔵野線という線は「貨物路線」。この線は西浦和の先で分岐しており東北本線に直結している。時々運転されているホリディー系快速には北朝霞−大宮直通があるのは知っていたが、実際に乗るのははじめて。
ただおかげで大宮までの所要を乗り換え含む30分と計算していたのが15分で着いてしまった。こまった誤算でちょっと早く「行田」に着いてしまう。しょうがないから高崎線を一本分パスしてから乗車。
電車の中で気が付く。行田の次の駅が熊谷だということに。埼玉南方の住民としては熊谷=隨分遠いところ。そんな熊谷の近くであるということすら失念していた。
行田駅にはほどよく9時すぎに到着。行田市観光案内所が東口駅前にある。そしてこの観光案内所ではレンタサイクルが無料で行われている。レンタサイクル好きとしては早速利用しようかと思う。・・・いや、べつに格別に好きなわけではない。バスが無くて、歩くような距離ではないのし、たまたまレンタしているから利用するだけ。
行田駅は街の中心から極度に外れている。ローカルな秩父鉄道行田市駅の方が中心に近いというのもなにか皮肉ぽい。3.5キロほど脇目もふらず直進すると「水城公園」に到着。名前から察するとおりに忍の水城にちなんだ水豊かな公園がある。
「忍城趾」(関東七名城の一つ)
中世末期の成田親泰が山内・扇谷上杉の争いに乗じてこの地の武士団であった忍氏を攻略し、忍周辺を支配。忍城は文明年間初期(15世紀後半・1469〜)に成田顕泰(親泰の父)によって館が築かれ、延徳年間(1489〜92)頃の築城という。忍城は戦国期の典型的な水城。関東七名城のひとつにも数えられている。
忍川や自然の沼地を利用し低湿地帯に築かれていたことから亀城・浮城ともいう。築城にあたって水路を整備し新田開発もあわせて行い湿地帯を水田としたことから行田という地名が生まれたともする。
忍城主の成田氏は山内上杉家の有力な御家人であったが、小田原北条氏の北関東進出に際して降伏。だが関東管領職を次いだ上杉謙信が関東に進出するとこれに降伏し、再び北条氏にくみするという二転三転の保身によって成田氏親泰・長泰・氏長と忍三代百年を安定して支配。
忍城は天正18年(1590)に豊臣秀吉の関東攻略を迎え、城主成田氏長らが不在(小田原城で籠城)の中で石田三成率いる攻略軍が策した水攻めを支えきり、小田原本城落城後も健在。降伏した城主成田氏の説得のもとで開城したという難攻不落ぶりをほこった。(実際は石田三成側の築堤工事のずさんさで水が逆流という攻勢の惨事もあった)
徳川家康の関東入封以降は松平家忠が忍一万石で封じられ、その後に家康四男の松平忠吉が10万石を町有。寛永10年(1633)には知惠伊豆とたたえられた松平信綱が城主となり、島原乱平定の功績で川越に移封される。同16年は老中阿部忠秋以降9代が5万−10万石で領有。文政6年(1823)に桑名より移封されてきた松平忠堯が明治まで領有した。
明治6年に忍城は破壊され、当時の面影は城壁や土塁、忍の鐘などを残すのみ。本丸跡は小中学校、市役所、行田市郷土博物館となっており、阿部氏が築いた三階櫓が復元されている。
忍城趾・三階櫓 |
忍城趾・忍の鐘 |
あたらしい復元の櫓ではあるが、悪い気はしない。立派な近世城郭がない埼玉県としてはこういうのがあるだけでもうれしいといったところだろうか。やはり川越のような御殿ではなく、白塗りの城がみたいのが心情だから。
忍城趾の三階櫓をながめながら自転車を周回させているととなりに神社があった。立地的に見ても忍城の鎮守だろう。せっかくだから足を運んでみる。
「忍諏訪神社・東照宮」
(村社)
諏訪神社祭神:
建御名方命・八坂刀売命
当社の鎮座は後鳥羽天皇の建久年間(1190)に忍三郎ら忍一族が創建したという。成田親泰が忍城を構築した際に当社を城鎮守とした。
文政6年(1823)に松平忠堯が伊勢桑名から移封するにあたり東照宮と桑名鎮守の多度・一目連社を勧進。これらは明治6年に当社境内に移されるとともに、その他の社を配祀した。
社殿は昭和36年の造営。村社。
東照宮祭神:
徳川家康命・松平忠明命・八幡大神
忍東照宮は家康の娘、亀姫が父の肖像を頂き、それを子の松平忠明に伝え、忠明が大和国郡山城で社殿を造営したことに始まっており、のちに当社に合祀された。
忍諏訪神社・東照宮 |
忍諏訪神社拝殿 |
意外と歴史を感じさせてくれる神社。せまい境内に摂社が点在している。鳥居には「諏訪神社・東照宮」とあり、不思議な連名におもわずひかれてしまう。そうでなかったら、ここに特別には記さないだろう。
私の性質は慌て者。とにかく今は先を争う。今日はいろいろ回らなくてはいけないので、とにかくじっとしているのが嫌だった。忍城趾には行田郷土博物館がある。入館料は大人200円。べつに200円を惜しむのではなく時間を惜しむ私は、そうそうに次の目的地に自転車を進める。・・・別に今の私は「行田の郷土」を学ぶ必要性がないので。
自転車で2キロほど秩父鉄道に沿うように駆けて東行田駅裏にある「久伊豆神社」に到着。
この久伊豆神社は岩槻の県社「久伊豆社」と越谷の郷社「久伊豆社」についで信奉されている久伊豆社らしい。もっとも交通の便が良いという立地条件もある。ただ社格は村社であるが、ここでも例外的に神社にふれてしまうことになる。
「久伊豆神社」
(村社・行田市桜町鎮座)
祭神:大己貴命
創立は文明年中(1469−1487)とされているが、一説に応永年中(1394−1428)に成田家時が武運長久を祈ったのに始まるともいう。成田顕泰が忍城鬼門の守護神として当社を祀った。隣接する長久寺が別当。村社。境内には赤飯稲荷社が摂社として合祀されている。
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左上:久伊豆神社二の鳥居
上:久伊豆神社拝殿
左:摂社・赤飯稲荷社 |
私が社頭の脇に自転車を止めていると車がやってきて参道脇に停車。降りてきた人は足早に社殿に駆けていった。なにやら私よりも慌てている人がいるようだ。ただ「ガラガラガラ」と音がするのに正面の社殿には人影がない。「はて、どこに行ったんだ」と思いつつ参拝をすますと、社殿の脇に大層立派な鳥居があって、参道が延びている。久伊豆社の脇にどしりと鎮座しているのが摂社の赤飯稲荷社というわけ。これでなっとく。先ほどの人は摂社で参拝していたようだ。どうやらここの稲荷様はよほどの崇敬を集めているようなのは気配で分かる。神社の歴史でも摂社が偉くなる現象も間々みられるし。
久伊豆社のあとはさらに2キロほど西に進む。そうすると富士見工業団地という地帯に不思議と埋もれた古墳群がある。そのなかにひとつに考古学世界では「関東の石舞台」とされている石室があるという話を聞いていたので訪問してみる。大学の古代史の講義でこの古墳石室の噂は耳にしたことはある。「雑談好きの古代史の小○田教授」から。わたしはこの教授が案内する「さきたま古墳見学会」(でも教授は考古ではなく古代史専門/笑)に参加したことがあるので、そのときにでも耳にしたのだろう。もっとも内輪的などうでも良い話だが。私の出身大学は考古学業界ではかなりの研究成果をあげていた大学なので、専攻が違っていても考古関係は多少なら私も許容範囲ではある。この教授はいろいろ「アレ」だが・・・。
「八幡山古墳石室」(埼玉県指定史跡)
八幡山古墳に到着。工業地帯のまんなか当たりでいささかわかりにくかった。
この古墳は古墳時代後期の円墳で江戸時代の頃にはすでに開口していたという。もともと古墳頂に八幡社が鎮座していたことからこの名が付けられた。昭和10年に盛り土が除去され石室のみが残された。前・中・奧の三室で構成、円墳直径約77メートル、高さ約11メートル。
関東一の横穴石室で「関東の石舞台」と呼称。さきたま古墳群と同一族の古墳ではないかとされている。
八幡山古墳石室横影 |
八幡山古墳石室内部(檻の隙間から撮影) |
工業地帯だけあってまわりが騒がしい。それでもなにやら石室の回りだけはそんな喧騒を忘れさせてくれる。本物の石舞台は見聞したことがないので比べようがない。だがこの石室をながめているだけでもけっこうな迫力は伝わってきた。石室のなかにはさすがに入れないように檻がしてありましたが。
考古学的趣味に勢いがついてきたところで、「さきたま古墳群」に向かおうかと思う。現在地から南方に2キロのところまで一気に南下。途中の工業地帯からは何ともいえない臭いが充満していて、とてもサイクリングな状態ではなかったが。
「さきたま古墳群」(国史跡)
関東地方有数の大型古墳群。かつては付近に100基ほど古墳があったが、天正18年に石田三成の忍城水攻めによって大半が消滅してしまったという。(・・・三成はまったく・・・)
昭和9年には若王子古墳(前方後円墳・推定全長95M)と愛宕塚古墳(円墳)などの大型古墳が開拓によって盛り土を削られている。昭和13年に9基が国史跡に指定された。(以下の数値は約数です。また調査時期が最新データではないので物の本によっても違いますが)
丸墓山古墳・・・日本最大の円墳。直径102M、高さ19M。稲荷山古墳と並んで築造年が古く6世紀前半か。
稲荷山古墳・・・前方部欠。後円部高さ9M。推定全長120M。昭和43年に金錯銘鉄剣などの貴重な遺物が発見され鉄剣等は国宝。
将軍山古墳・・・前方部高さ7M後円高さ3M、全長91M。将軍山古墳展示館が併設され、古墳石室内部を伺い知ることが出来る。
二子山古墳・・・前方高さ15M後円高さ13M、全長135M。現存する県内最大古墳。未発掘。
愛宕山古墳・・・前方後円共に高さ3M、全長53M。9基のなかでは最小。
瓦塚古墳・・・・・前方後円共に高さ3M、全長68M。円筒埴輪等が出土。
鉄砲山古墳・・・前方後円ともに高さ8M、全長108M。忍藩の鉄砲練習場だったという。
奧の山古墳・・・前方部高さ6M後円部高さ5M、全長67M。
中の山古墳・・・前方部高さ4M後円部高さ5M、全長79M。
最古のものは稲荷山古墳は5世紀後半の造営という。終末は7世紀はじめにかけての将軍塚古墳や中の山古墳。被葬者は武蔵国造笠原直使主一族か。
埼玉県は約30万uを「さきたま風土記の丘」として整備しており、さきたま資料館や将軍山古墳展示館などが整備されている。入館は大人50円で両館に入れるという格安のお値段。
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埼玉県最大古墳の二子山古墳
古墳の写真は難しいです。
対象が大きいので。 |
日本最大の円墳:丸墓山古墳
春には桜の名所ともなる
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丸墓山古墳頂から。
ちなみに一直線にのびる堤が忍水攻めに造営した
「石田堤」の名残という。 |
丸墓山頂から臨む稲荷山古墳。
このときは立入禁止で工事。普段は前方部に登れますが。 |
丸墓山頂から臨む将軍塚古墳
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さきほどもちらっと触れたが、大学時代にここには来ている。ゆえに記憶が新しく今ひとつ新鮮さがたりない。私の概念では古墳というのは下から眺めても面白くない、という考え。しかしここは古墳群として整備されているので下から眺めてもおもしろい。なぜなら全貌が見渡せるから。一般の整備されていない古墳は、古墳の形ではなく樹海の形で自然と同化しているために正直なところ「森」にみえてしまう。その点、このように姿をはっきりとしてあれば私としても見るだけの価値を見いだせる。それでもやはり古墳は上からが楽しい。丸墓山古墳の上は何ともいえずに気分が良かった。
中の山古墳や鉄砲山古墳というというあまり普通の人が見物しない、古墳群のはずれにある古墳を眺めている時だった。ご老体が私に声をかけてきた。「古墳の勉強をしているのか?」と。あまり人が注目しない古墳を眺めている私(実は古墳群のなかで迷った、ともいう)がここで「式内社の勉強ですよ」と答えるわけにもいかず「まあ、そうです」などと答えてしまったからあとが大変な騷ぎになってしまった。そのご老体としばらく「古墳談義」をするはめになる。ところが私は「古墳知識」が希薄なので、土俵を巧みにずらしていく。
「ここの古墳群は当然武蔵国造の有力な豪族が被葬者であると思いますが、県内では他に児玉郡や秩父郡に有力な勢力があったと思われます。とくに児玉郡にも古墳群が散在しています。」と、そんなこんなでいつのまにか「古墳豪族」を「祭祀豪族」にすり替えて話をすすめ「秩父には秩父国造が武蔵よりも先じて朝廷とのつながりをもち、のちに和銅を献じたりしています。また児玉には金鑽神社を信奉した有力な祭祀集団がいて・・・」などと私はのたまう。さすがにご老体は金鑽神社を存じていて、ヤマトタケルの話とかが古墳の前で会話として私と成立してしまう。なんか不思議だ(笑)。
そして「このさきたま古墳の武蔵国造は上野国よりも勢力は弱く、そういうのも昔は武蔵は中仙道に属し・・・まあ両毛地域はこの武蔵よりも大規模な古墳が多いですね」とうっかり群馬に話がずれるとご老体は群馬の○○古墳はなんやかんやと話の主導権を持って行かれてしまう。さすがに群馬の古墳の名称までは知りませんが。ただ、不思議と古墳が戦時中に開拓されてどうのこうのになると、私も負けじと戦時中の話を切り返す・・・ってご老体相手に話が弾んでいるんですけど。それも古墳脇のベンチで。(まだ20代ですけど何か?)
ただ私も暇ではない。時間も勿体ないし、当初は行田2時間の予定が、どうやら午前中一杯の3時間になりそうな雰囲気で困っていた。申し訳ないけど「前玉神社」に行きたいので失礼させてもらう。
「前玉神社」
(さきたま神社・郷社・埼玉郡総社・別称埼玉浅間神社・行田市埼玉鎮座)
祭神:前玉彦命・前玉姫命
前玉は埼玉の語源であり、埼玉県の名の起こりはこの地からであるという。付近には「埼玉古墳群」があり、当社も「浅間塚古墳」(高さ8.7メートル、周囲92メートル、直径22メートル)の上にある。祭祀集団は当然、埼玉古墳群を築いた武蔵国内の有力な豪族(武蔵国造)と思われる。
社地に養老山延命寺という真言宗の別当寺があったが、明治3年に廃寺となった。この寺が焼失した際に、当社の記録などもすべて失ってしまったという。
中世に忍城中にまつられていた「浅間神社」を社内に勧進したが、浅間神社の方が盛んになってしまったという。古墳上を「上ノ宮」、中腹を「下ノ宮」としていたが、近世には本社までもが「浅間」の神号におかされ、総じて浅間神社とよばれるようになったという。明治維新の際に「上ノ宮」を「前玉神社」、「下ノ宮」を摂社の「浅間神社」としたが、今でも近隣では浅間神社と呼ばれているという。
明治6年に郷社列格。古墳群にはさきたま資料館等がある。
埼玉県現存最大の槙(まき)の神木 |
延宝4年(1676)建立の鳥居
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前玉神社正面。後方高台が社殿 |
古墳中腹の摂社・浅間神社 |
前玉神社社殿 |
社頭前がとっても狭くてこれが限界。
塚頂上は社殿がぎりぎりでレンズに入り切らない。 |
おもいだした。大学でのさきたま古墳見学会の時に教授に連れられ歩いたときにこの神社の脇を通っている。そのときは「なんか裏寂れて、貧相な神社だなあ」という印象を抱いていたような気がする。つまり好印象はなかった。ところがどうだろう。今は「この神社」のためにさきたま古墳群に来た、といってもいいぐらいの目的意識でここに私は立っている。趣味と認識が変わると私の感覚も変わる。これからは興味対象外も多少は見聞しておいたほうがよさそうだ。
この神社は古墳の上にあり、また万葉東歌の「埼玉の津」「小埼沼」などの遺跡がこの付近であるとされている。境内は狭いようで広い。単純に狭いのは古墳の上だけともいう。境内にはいろいろな碑が散在していた。そういうところにも古墳群近くの神社という気配を感じさせてくれる。ただ社殿がある古墳はコンクリで塗り固められており痛ましい姿ともいうが。とにかく古墳と神社の関係、すなわち祭祀豪族の姿をここに垣間見ることが出来た。
さてそろそろ行田から立ち去らなくては行けない。なんせこれから騎西・鷲宮までも予定に入れている私はとにかく時間が惜しかった。時間も午前11時40分。ちょっと使いすぎの感があり、いつもの通りにつまみ食い的に私の行動は慌ただしかった。
JR行田駅から鴻巣駅まで南下したのが12時30分頃。さっそく客引きに呼びかけられる鴻巣駅はいつも嫌な雰囲気であったが以下は後編にて。
<参考文献>
角川日本地名大辞典・11埼玉県 昭和55年発行
行田市郷土博物館・埼玉県立さきたま資料館作成のパンフレット
各神社掲載の掲示看板
後編:玉敷・鷲宮神社
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