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「埼玉<さきたま>をめぐる」
<平成15年1月参拝・平成15年1月記>

前編・行田古社史跡」/「後編・玉敷と鷲宮神社」

目次
鴻巣」/「騎西」/玉敷神社・宮目神社/「鷲宮」/鷲宮神社

武蔵国の延喜式内社(玉敷神社・宮目神社)に関してはこちら



「鴻巣」
 埼玉県は広い。それなのに運転免許センターがこの鴻巣にしかない。だから毎日、免許センターに行く人間がこの駅に集中する。そして更新代行業者などが、横行して駅前が無意味にやかましい。
 彼ら彼女らは私にまで声をかけてくる。「免許センター行きますか」と。いきませんよと交わしつつバス停で時間を確認してみると騎西町に行くバスは30分ぐらいまたないと来ない。しょうがないからちょっとだけ休憩。

 騎西経由加須駅行きのバスが入線。このバスは意外なほどに混み始めたが一人が「免許センター行きますか」と運転手に尋ね「行かないよ」といわれるとあれれというまに10人ぐらいがバスを降りる。発車間際に運転手がさらに「免許センターには行きません」というとさらに人が降りる。なんというか不思議な鴻巣駅前であった。
 ちなみに騎西方面行のバスは20〜30分間隔の運転。



「騎西」
 バスは20分ほど走って「騎西一丁目バス停」に到着。料金は370円。私はここで降りる。このバス停から500メートルほど歩くと「玉敷公園・玉敷神社神苑」という公園がみえてくる。名前に通りに神社と関係のあった場所であろう。良く整備されている静かな公園のなかには樹齡400年以上をほこる「大藤」があり4月下旬から5月上旬にかけてはみごとな花房をみせてくれるという。

 騎西町は武蔵七党で名高い武士団である私市党の本拠地。また武蔵七党の野与党も当地に勢力を持っていた。騎西の玉敷神社は古来より久伊豆神社と称しており、騎西党や野与党の拡張と共に久伊豆社もその勢力範囲に分布している。中世期には古河公方をめぐる攻防に巻込まれ、また上杉輝虎(謙信)にも攻略されている。
 近世期ははじめ松平康重の二万石に統治され、慶長5年(1600)に大久保忠隣(小田原城から転封)・忠常・忠職が領有。同9年に大久保家が常陸笠間に移封となると幕府直轄領となった。なお当時の騎西領は鷲宮・久喜を含む。寛永16年(1639)に川越領、明和4年(1767)から天保13年(1842)までは出羽山形藩領であった。これは川越藩主秋元家が山形に移封となったことによる。のちに再び川越藩領となり慶応2年には川越藩主松平家の上野前橋藩移封と共に前橋藩領となり、騎西は川越藩の飛び地的扱いであった。



「玉敷神社」     
(県社・別名久伊豆大明神・埼玉郡総鎮守騎西領総氏神・北埼玉郡騎西町騎西鎮座)
朱印

祭神:大己貴命(おおなむぢ命)

 創立は成務天皇6年(136年頃?)、兄多毛比命(エタモヒ命)が武蔵国造になった時に出雲大社の分霊を遷座したともいうが、文武天皇の大宝3年(703)に多治比真人三宅麿が東山道宣撫のため東国に下った際といわれている。延喜式(927)に記載されている式内社。
 武蔵七党のひとつ私市(きさい)党の崇敬を受けていたが、天正2年(1574)に上杉謙信が私市城を攻略した際に、現在地よりも北方の正能村(現騎西町正能)に鎮座していた玉敷神社はその兵火にかかり消失、古記録社宝などのすべても焼失した。
 徳川時代に、根古屋村(現騎西町根古屋)の騎西城大手門前に再建されたが、慶長5年(1600)に大久保忠隣が騎西城主となり、その孫大久保忠職が寛永期(1620ごろか)に延喜式内社宮目神社社域に社殿を造営し遷座した。
 江戸時代までは「久伊豆大明神」と称しており、埼玉県各地に点在する久伊豆神社の本社ともされている。
 現在の社殿は本殿幣殿が文化13年(1816)の建築。拝殿は明治31年(1898)の修築。
 当神社には一社相伝で伝わる「玉敷神社神楽」(県指定無形民俗文化財・400年を超え江戸神楽の原形を伝えるという)が有名である。現在は2月1日、5月5日、7月15日、12月1日に玉敷神社神楽が奉奏されている。
 また「獅獅子様」と称する神宝が祭神の分霊として春に農村各地に迎えられ、祓祭をする風習が残っており、その風習は埼玉県内・群馬・茨城の一部に及び170ヶ所にわたるとされている。
 明治5年に郷社、大正13年に県社列格。


宮目神社(玉敷神社境内社・地主神・北埼玉郡騎西町騎西鎮座)
祭神:大宮能売命(おおみやのめのかみ)
 玉敷神社が遷座してくる前のこの地の鎮座神は宮目神社であった。現在は玉敷神社の境内社となっている。
 平成13年4月に林立していた白樫が倒壞し社殿に直撃。社殿が大破したために同年6月に社殿竣工。

玉敷神社
玉敷神社参道

玉敷神社
玉敷神社に隣接する文学博士河野省三の邸宅跡
今は公園として整備されている
河野家は代々、玉敷神社に奉職してきた家柄
玉敷神社
茅葺きの玉敷神社神楽殿
玉敷神社
玉敷神社拝殿
玉敷神社
玉敷神社本殿/手前の白石は「御神水の取水口」
玉敷神社
玉敷神社境内社・宮目神社(延喜式内社)

 玉敷公園から神社参道に抜ける。困ったことに一之鳥居脇の社号標の前に車をとめている不届きものがいて写真が撮れないことにまず困ってしまった。
 参道は比較的長め。薄暗さは感じず、開放的な空間。参道を歩いていて驚いたことに国学者の河野省三が生誕したのが玉敷神社であるということ。この河野家が玉敷神社に奉職している家柄とも知らず、かなり意表をつかれて驚いた。

 国学者・神道学者であり、國學院大学総長を務めた文学博士の河野省三は、明治15年に騎西町で生まれ、國學院師範部を卒業後に玉敷神社の宮司となった。その後は国学や神道を研究し権威として活躍。昭和27年に71歳で埼玉県神社庁長となり、昭和36年には国学・神道学者として紫綬襃章を受章。昭和38年に死去。

 とにかく河野省三が玉敷神社と結びつくことに驚いた。根本的に埼玉の人間だということも知らなかった。私の無学さ加減にあきれつつも、改まって参拝をする。
 誰もいない境内は参集殿の工事のためにいささかさわがしい。しかし社務所はだれもいない。だれもいないけどわざわざインターフォンをならして神職をお呼び出しして、御朱印を頂戴する。神社とはいえ、人の家のチャイムを鳴らすのはやっぱり緊張する。わざわざ朱印を頂きたいほどに良い神社だったから。

 帰り道。今度は「騎西町役場」前バス停でバスをまち14時20分に乗車。東武加須駅に向かう。料金は240円。

 東武加須駅から東武線にのって二駅の鷲宮駅をめざす。ちょうどホームに浅草行きの電車が止まっており、その上「発車ベル」をならしている。慌てて飛び乗るとこの電車の次の停車駅は「久喜駅」だという。どうも私の降りたい「鷲宮駅」は通過らしい。電車から鷲宮神社の立地位置に見当をつけ、そして鷲宮を通過した電車は久喜駅に到着。すぐにでも折り返そうと思うも、驚いたことに電車は20分待たないとこないらしい。まさか埼玉県内の東武鉄道がここまでローカルだとは思わず、頭を抱えて天を仰ぎたい気分になってくる。
 結局「鷲宮駅」に到着したのは15時15分すぎごろだった。



「鷲宮」(わしみや)
 現在の町名及び駅名は「わしみや」としているが当地に鎮座している神社は「わしのみや神社」という。
 もともとの地名は鷲明神社(鷲宮神社)に由来しているが、土師部の居住地であったことから土師宮(はじのみや)の転訛とも考えられている。当地は中世以来「鷲宮神社領」として発展。江戸期においても鷲宮神社が領有。つまり町の歴史には鷲宮神社がかかせない、ということになる。
 鷲宮町はしばしば利根川の水害に悩まされてきたが、鷲宮神社境内の台地は水没したことがなく、避難地としても大きな役割を担っていたという。
 鷲宮駅から歩くこと10分程度で利根川の分流的用水路の先にかなり立派な社叢がみえてくる。



「鷲宮神社」     
(わしのみや・式外社・県社・鷲宮町鷲宮鎮座)
朱印

鷲宮神社祭神:
天穂日命(あめのほひ命・武蔵国国造の祖)
武夷鳥命(たけひなとり命・天穂日命の御子神)
別宮・神崎神社祭神:
大己貴命(おおなむぢ命・出雲族の神・大国主神)

 出雲族の創祀に関わる関東地方最古に分類される古社。鷲宮は古くから土師部(土器作成に携わる人びと)の居住地であったことから当社も土師宮(はじのみや)と称されていたという。
 神社由緒では神世にアマテラス大神の御子神としてお生まれになった天穂日命(出雲の大己貴命に心服し出雲大社の祭祀を司った神でもある)と、その御子神である武夷鳥命が当地に神崎神社を創始し大己貴命を祀ったことにはじまり、のちに天穂日命の御霊徳を鷲宮神社に奉祀したことにはじまるという。
 崇神天皇期に太田々根子命(おほたたねこ命・三輪神社の祭祀者)が司祭し、豊城入彦命(とよきいりひこ命・上毛野下毛野の君の祖)らが幣帛を奉納したという。景行天皇期には日本武尊が当社の御神威を崇敬し社殿を造営し、この時に相殿に武夷鳥命を奉祀した。桓武天皇期には征夷大将軍坂上田村麻呂が武運長久を祈り、奥州には当社の御分社を奉祀。
 中世期以降は関東鎮護の神として各地の武将に信奉され、藤原秀郷・源義家・源頼朝・源義経・北条時頼・北条時貞・新田義貞や、足利将軍・古河公方・関東管領上杉家、そして武田信玄に徳川家康など枚挙にいとまがない。
 明治期には准勅祭社に定められ、明治天皇行幸の際には当社にて御休息をなされている。明治社格では県社。

 鷲宮神社には「土師一流催馬楽神楽」(はじいちりゅうさいばらかぐら国指定重要無形民俗文化財)が伝えられている。この神楽の始行は明かではないが「東鑑」にも掲載されているほどの古さを誇っている。一社相伝の神楽として代々世襲され、関東地方に分布する多くの神楽がこの土師流から出ていることから鷲宮神社の催馬楽神楽を「関東神楽の源流」と位置づけている。奉演日は1月1日・2月14日・4月10日・7月31日・10月10日・10月初酉日の年6回。当社の神楽殿は社殿と相対しており、様式的にも古流を伝えている。

鷲宮神社
鷲宮神社正面鳥居
鷲宮神社
鷲宮神社参道
鷲宮神社
鷲宮神社拝殿
鷲宮神社
文政4年(1821)再建の神楽殿
拝殿と向かい合っている
鷲宮神社
鷲宮神社本殿(左:祭神は天穂日命・武夷鳥命)
別宮神崎神社本殿(右:祭神は大己貴命)
鷲宮神社
鷲宮神社本殿(手前)及び
別宮神崎神社本殿(奧)

 夕方の淡いひかりにつつまれる参道はけだるいやさしさに包まれていた、などと書きたくなるような雰囲気を味わう。参道を真っ直ぐに歩くと横を向いた社殿に突き当たる。東から西に歩く参道に南を向いた社殿と、北をむいた神楽殿、といったところ。神楽殿のすぐ裏は東武伊勢崎線の線路となっており時々電車の駆け抜ける音が境内にこだまする。気持ち仏教風な拝殿で参拝を終えたあとに、社務所で朱印を貰う。夕方ということも関係あるのかも知れないがこの神社は人の往来が予想以上に賑やかであった。すくなくとも駅前よりも人間がたくさんいた。御守りを授かったり札を授かったりとご近所の方が多いようで、地に足をつけた古社という赴き。なにやら神門を新しく建築する計画もあるらしく武蔵北東部の名社として、立派な風格を漂わせていた。
 本殿を見物しようと裏手に足を運んでいきなり驚く。「本殿がふたつあるんですけど・・・」。あわてて参拝のしおりや看板に目を通すと「鷲宮神社本殿」と「別宮・神崎神社」が並立しているらしいということを知る。建築様式の違う二つの本殿が並んでいる姿はなかなかに圧巻であり、ひとめぼれしてしまった。

 そろそろ16時。冬の日没はその気配をはやめている。延喜式内社に列してはいないが、埼玉県の名社を感じた気持ち。なんとなくすがすがしく、そしてひとつの重責を担った気分でもある。やはり埼玉の神社を参拝している神社としては古社や大社は無視できない。やっと念願の鷲宮に来られたの感が強かった。


<参考文献>
「角川日本地名大辞典・11埼玉県」昭和55年発行
「玉敷神社参拝のしおり」「社報たましき第10号」及び境内看板・玉敷神社社務所
「鷲宮神社参拝のしおり」「鷲宮の神楽」および境内看板・鷲宮神社社務所


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