| 
「郷土の鎮守様」
 〜埼玉県志木市の神社・その2「宗岡編」〜
 
 <平成15年2月記>
 
 
 目次その1
 「舘ノ氷川神社」/「敷島神社」
 目次その2
 「上ノ氷川神社」/「中ノ氷川神社」/「下ノ氷川神社」
 「宿ノ天神社」「羽根倉ノ浅間神社」
 
 
 
 「上ノ氷川神社」
  (宿氷川神社・村社・志木市上宗岡2丁目鎮座鎮座)
 
 祭神:素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命
 
 当社の創建は隣接する千光寺(創建は天慶四年・941)を中興した権大僧都善海が、承暦2年(1078)に武蔵一の宮の氷川神社を分祀した事に始まるという。別当は隣接している千光寺。
 当社の神体は石臼という。これは観応2年(1351)に下宗岡に分祀を行った際に、両社が同一の神社であることの証として、一対茶臼石に年号を刻み、上石を下宗岡の本殿下に、下石を当社の本殿下の土中に鎮めとして埋納させた。
 明治の神仏分離後に古社・産土社として村社に列格。昭和8年に社殿を造営。
 上宗岡の氷川神社は南面し、下宗岡の氷川神社は北面している。これは向かい合うように建てることで、氏子の村人を守るためであるという。
 
 
  
    
      |  正面(平成十四年八月撮影)
 |  社殿横影
 |  
 
 
 「中ノ氷川神社」      (村社・志木市中宗岡2丁目鎮座鎮座)
 
 祭神:素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命
 
 当社は荒川堤防に背を向けるように鎮座している。宗岡地域は上から下に向かって村が開けていったとされている。
 上宗岡では承暦2年(1078)に「上ノ氷川神社」が建立され、観応2年(1351)に「下ノ氷川神社」が分視されている。中宗岡でも村の開発が進むにつれて、すでに上・下宗岡に鎮座している氷川神社に倣つて、永享年間(1459−41)に大宮氷川神社から勧進したものとされている。
 別当は実蔵院(創立は元和3年・1617)。明治5年に村社列格。
 境内には一山講の御嶽山が明治25年に築造されている。
 
 
  
    
      |  |  |  
      |  | 左上:神社正面 
 上:拝殿
 
 左:本殿覆殿
 
 (平成十四年八月撮影)
 |  
 
 
 「下ノ氷川神社」      (村社・志木市下宗岡4丁目鎮座鎮座)
 
 祭神:素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命
 
 当社は宗岡地区が上から下に発展していくととともに、観応2年(1351)に上ノ氷川神社から分祀された神社。上ノ氷川神社にあった茶臼を二つにわけ、神殿下の土中に上石を埋め、社殿に幣帛を祀ったことにはじまる。
 当社は北向きに鎮座しており、上ノ氷川神社と向き合うことで、宗岡地区の氏子を守護している。
 社殿は昭和61年造営。別当は観音寺(創立は1570頃)であったが、神仏分離後に廃寺している。
 
 
  
    
      |  下ノ氷川神社・正面(平成十四年八月撮影)
 |  社殿
 |  
 
 
 「宿ノ天神社」
  (村社・志木市中宗岡1丁目鎮座)
 
 祭神:菅原道真公・天照大神・八幡大神
 
 宗岡を潤した「いろは樋」(完成1662年)が野火止用水からもたらした水によって耕作されてきた水田地域に鎮座している。ゆえに当社は天神様であっても五穀豊穣の神様としても崇敬。
 創建は寛永3年(1626)に江戸の湯島天神から分霊勧進したとされるが、当地の名主役であった木下氏の先祖に当たる武蔵七党村山党の一族が所沢の北野天神社から分祀したともいわれている。
 また境内摂社である八坂神社(祭神は素戔嗚命)は「宿ノ天王様」として崇敬を集めている。
 
 
  
    
      |  |  |  
      |  | 左上:宿ノ天神社正面 
 上:左側が宿ノ天神社。右側が八坂神社
 
 左:宿ノ天神社社殿
 
 (平成十四年八月撮影)
 |  
 
 
 「羽根倉ノ浅間神社」
  (村社・志木市上宗岡四丁目鎮座)
 
 祭神:木花開耶姫命
 
 建久4年(1193)に源頼朝が富士の裾野で巻狩り(曾我兄弟の仇討ちがあった狩り)をした際に、宗岡の里人多数が勢子として招集された。この夫役の代償として田の年貢が免除されたので、これを記念して大野の地に祠を建てて富士浅間社を祀った事に始まるという。
 宗岡の里人が遠く富士まで駆り出された理由ははっきりとはしていないが、頼朝の武士団の中では重きをなしていた武蔵武士の難波田高範(武蔵七党村山党系)率いる難波田氏(本拠は富士見市下南畑)の支配地域であった関係から宗岡住民が使役されたのでは、とされている。
 一方で、頼朝は同じ年に武蔵国入間で追い鳥狩りを行っており、これが曾我兄弟の仇討ちで有名になった「富士の巻狩り」と混同されてしまったのではないか、ともされている。
 
 その後、長禄年間(1457−60)の荒川大洪水の際に、祠が逆流にまきこまれ上流の羽根倉の地に流れ着いた。里人はこれも神様の思し召しかも知れないとして、改めて羽根倉(ただし現在の羽根倉橋上流付近)の地に祀るようになったという。
 明治初年に村社列格。別当は観音寺(廃寺)。
 明治5年から13年にかけて境内に富士山から運んだ熔岩を配して高さ10メートルほどの富士塚が築かれる。のち荒川改修により、大正15年から昭和2年にかけて字蓮田の地に遷座。同時に近隣の無格社4社を合祀。
 昭和48年に浦和所沢バイパスの開通によって、再び移転し現在地に落ち着いた。なお、移転のたびに富士塚も消滅することなく移築されているのは講中の信仰の強さをも表しているといえる。
 
 
  
    
      |  正面(平成十四年八月撮影)
 |  拝殿
 |  
      |  富士塚を臨む
 手前は摂社群(八幡社・稲荷社)、後方が社殿
 |  左が浅間神社社殿、右が富士塚
 荒川堤防築堤部分から撮影
 |  
 <参考文献>
 『埼玉の神社』北足立・児玉・南埼玉郡編 平成10年3月 埼玉県神社庁
 『しき ふるさと史話』 埼玉県志木市教育委員会
 
 
 
 |