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「郷土の鎮守様」
〜埼玉県志木市の神社・その1「志木編」〜

<平成15年2月記>


目次その1
舘ノ氷川神社」/「敷島神社
目次その2
「上ノ氷川神社」/「中ノ氷川神社」/「下ノ氷川神社」
「宿ノ天神社」「羽根倉ノ浅間神社」


 今回は特別番外編です。あまりにも「地元の鎮守様」なので「参拝記」ではなく、単純に「神社紹介」となります。ちなみに私の産土神社は「舘ノ氷川神社」。



「舘ノ氷川神社」     
(村社・志木市柏町3丁目鎮座)

祭神:素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命

 当社は現在では志木市内の五分の一程度の氏子面積しかないが、江戸時代には舘(志木市)・中野(志木市)・引又(志木市)・針ヶ谷(富士見市)・北野(新座市)地域の総鎮守として重きをなしていた。
 ちなみに昭和19年の志紀町は、現在の朝霞市内間木・宮戸・浜崎・田島、富士見市水谷東・水子・針ヶ谷、そして志木市を含む範囲であった。
 当社の創建年代は明かではないが古社であることは間違いない。
 
 延暦年間(782−808)に坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷に向かう途中に、武蔵野の賊を討伐しようとするが苦戦し兵糧も欠乏。武蔵国一の宮氷川神社の神威を借りるしかない状況に追いこまれ、軍勢を部下に任せたまま坂上田村麻呂が大宮氷川神社で戦勝祈願をすると、軍勢が立てこもっていた森の中にたわわに実をつけた椋の木を発見でき将兵は椋の実で飢えを満たし、戦意が昂揚。賊軍をうち破ることができたという。
 坂上田村麻呂はこの勝利こそ氷川の加護によるものと感謝し、新たに祠を建てたのが柏町の氷川神社の紀元であるという。

 「舘」というのは平安時代にこの地域を開拓した田面長者(たのものちょうじゃ)とよばれた郡司の藤原長勝の居館があったことにちなむ。鎌倉時代には荏柄氏や二階堂氏らが居住し、室町期には大石氏が館を改築し「柏の城」と呼ばれた。城は現在の志木第三小学校が本丸、その東が二の丸で、南側が三の丸、長勝院跡が西の丸とされている。この柏城の南東にあるのが「舘の氷川神社」であり、貞観年間(859−877)に藤原長勝が勧進したともされている。

 また久安五年(1149)に新座郡郡司の高野大膳亮師之(たかのだいぜんのすけもろゆき)が郷村の鎮守として勧進したともされている。

 創建年代だけでも以上のような説があるが、いづれにせよ平安期から鎌倉期にかけての土地の有力豪族によって開拓され崇敬されてきたことは間違いないだろう。
 当社の別当寺は柏町内の宝幢寺。明治43年に近隣の小社が合祀されている。社格は村社。現在の社殿は昭和53年の竣工。


舘ノ氷川神社正面(撮影は平成14年1月)

舘ノ氷川神社拝殿


附記:「寶幢寺」(宝幢寺)
正式には地王山地蔵院寶幢寺と称し、江戸時代は醍醐三宝院を本山とするも、明治二七年から京都智積院を本山とする新義真言宗智山派となった。
 創建は建武元年(1334)に祐円上人が開山したという説や、天正年間(1573−92)に付近の地蔵堂を新寺として開山したともされている。
 しかし柏城落城後に現在地に建立、または創建されたのではないかとされている。
 上記の「舘ノ氷川神社」の別当寺であった。

宝幢寺
宝幢寺(撮影は平成15年1月)
宝幢寺
宝幢寺


附記:「大塚ノ神明神社」
 ちなみに志木市柏町5丁目に鎮座している「大塚ノ神明社」は元和2年(1616)に山本九郎左衛門が宅地に創建したのがはじまりというが、明治41年に「舘ノ氷川神社」に合併されている。しかし合併後も氏子が神明社の祭りを存続させてきたという。
 現在は東武東上線沿線に面して鎮座している。


大塚ノ神明社は小祠(撮影は平成15年1月)




「敷島神社」     
(村社・志木市本町2丁目鎮座)

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祭神:
木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと・地主社であった浅間神社祭神)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと合祀した村上稲荷社及び星野稲荷社)
罔象女命(みずはのめのみこと・合祀した水神社)

 当社は明治41年に無格社「浅間神社」に、村社「村上稲荷神社」、村社「星野稲荷神社」と無格社「水神社」を合祀して、浅間神社境内に社名を「敷島神社」と改めて成立した神社。
 明治22年の町村制施行によって「志木宿」は志木町となったものの、鎮守社は一貫して「舘ノ氷川神社」であった。農耕生活に依存する舘地区と、商人主体の「引又地区」とは生活様式が異り、祭りの執行などについても双方が協調することが難しかった。
 明治新政府による神仏分離による神社急増に音をあげた政府は神社合併勧奨を通達。これを機に引又地区は「舘ノ氷川神社」から分離し、浅間神社を主神として、近隣の星野・村上両稲荷社と水神社を合祀して明治41年に新鎮守を創建。しかし新鎮守の命名で意見がまとまらず、従来の「浅間神社」、地形に基づく「旭日神社」、大和民族精神に基ずく「大和神社」、日本国別称に基づく「敷島神社」などの社名が主張され、決闘も辞さない険悪な状態となった。
 そこである智者が本居宣長の「敷しまの倭こころを人とはは朝日ににほふ山さくら花(敷島の大和心を人問わば 朝日匂う山桜花)」の和歌には「敷島」「大和」「朝日」「桜花」が含まれている。この神社の主神は木花開耶姫神であり、桜花にふさわしいし、各説が織り込まれていて何れの説に傾くこともない、と説明し、一同は納得。本居宣長の和歌の枕詞である「敷島」から神社名が命名された。

 境内の一角に「田子の富士」と呼ばれる富士塚が築かれている。この塚が元々の「浅間神社」であり、塚の東側には富士塚を築く基となった「板碑」が祠に納められていた。板碑には暦応三年(1340)陰刻されている。南北朝期に大和笠置の僧承海十瀧房が国家安寧と天下泰平を祈るために富士山に籠もって修行を行い、さらに諸国霊山を巡っている際に、当地に訪れ板碑を建立したことに始まる。
 以来、この付近を田子山と呼称され古い塚があった。引又町の高須庄吉の夢に高僧が現れ、この塚に登るように誘った。そこで庄吉は塚に登ってみると富士山に縁のある碑がみつかり、日頃から富士山を崇敬していた庄吉は大いに感激し富士塚を築造することを決心。賛同者を募り高さ10メートルの「田子山富士」を明治五年に完成させ、頂上に浅間神社を祀り富士講が結成された。

 引又町とされる氏子範囲は現在の志木市本町1−6丁目(市場・上・仲・双葉・東・寿・大原)。

敷島神社 敷島神社
敷島神社 左上:敷島神社入口

上:敷島神社拝殿

左:敷島神社境内の田子山富士

(撮影は平成14年1月)




<参考文献>
『埼玉の神社』北足立・児玉・南埼玉郡編 平成10年3月 埼玉県神社庁
『しき ふるさと史話』 埼玉県志木市教育委員会



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