「郷土の鎮守様〜渋谷区中北部の神社散歩」
<平成22年9月参拝 23年1月記載>
1「北谷稲荷神社」 (渋谷区神南)
2「穏田神社」 (渋谷区神宮前)
3「代々木八幡神社」(渋谷区代々木)
4「平田神社」 (渋谷区代々木)
5「鳩森八幡神社」 (渋谷区千駄ヶ谷)
6「青山熊野神社」 (渋谷区神宮前)
7「幡ヶ谷氷川神社」(渋谷区本町)
「渋谷区中南部の神社散歩」編
渋谷区の神社 googleマップ一覧
渋谷区の神社散歩。なんとなく休みだった9月の日曜日。お昼過ぎから散歩を開始。
「北谷稲荷神社」<渋谷区神南>
御祭神:宇迦之霊大神 大己貴大神 大宮比売大神 神功皇后 大田大神
創建年代は不詳。
田中讃岐守直高が文明年間(1469-87)に駿河より移ったときに屋敷の艮(うしとら)の方向に祀ったとされている。
万治3年(1660)に社殿大破し再建をした際に棟札からは文明以前の鎮守とも推測されている。
旧小名の北谷の地に鎮座していることから北谷稲荷と称されていた。
昭和20年5月25日の東京大空襲により被災。同年9月に占領軍の進駐により境内地全部を接収されたが翌21年解除され、ただちに仮社殿を建立。昭和33年に社殿復興。平成14年再整備。
午後1時。
渋谷駅の北1キロの地に鎮座。周辺はNHK放送センターやSHIBUYA-AX。そういえば昔、このあたりはコンサートがあったりしたときに来た記憶もある。もっとも往時はここに神社があることはしらなかったが。
社頭はよく見かける鎮守様の光景。境内に脚を踏み入れ石段をあがれば・・・ん?な感じ。なにやら想定していたものとはだいぶ違う社殿が目に飛び込んでくる。これは都会的な究極さを感じた神社。さすがに違和感を感じる。しかし不思議なもので、だんだんとこれもアリなのかなと思い始める。都会的な環境であればこういう形態での信仰もあるという新しい認識を得ることができた。
「隠田神社」<渋谷区神宮前>
(おんでん神社)
御祭神:淤母陀琉神(おもだるのかみ) 阿夜詞志古泥神(あやかしこねのかみ) 櫛御食野神(くしみけぬのかみ)
渋谷区穏田の産土神。
天正年間(1573-85)までは荒涼たる土地であったが徳川家康が江戸に入府し天正19年に穏田の地を伊賀衆に下賜。次第に開拓が進んでいき産土神として創建したものであろうと推測。
徳川時代には日蓮宗妙円寺が別当。明治維新後に穏田神社と改称。
昭和20年5月25日の戦災により焼失。本殿・石灯籠・鳥居等を旧小松宮家邸内社を払い下げいただき、昭和31年には幣殿・拝殿完成。
13時30分。穏田神社到着。明治通りの東側。静かな住宅街の中に鎮座。社殿は南面している。
その前に、あまりに都会的な神社に参拝していたゆえに、こちらの神社にきてほっと落ち着けた。やっぱり私はこちらのほうが慣れ親しんだ気配で落ち着ける。
参道脇の狛犬がとても愛くるしかった。無骨な削り出しがなんとも言えない味わいを出していた。
「八幡神社」(代々木八幡宮)<渋谷区代々木・旧村社>
御祭神:応神天皇
源頼家が伊豆修善寺にて非業の最後を遂げられた後、源頼家の側近であった近藤三郎是茂の家人荒井外記智明は代々木野に退隠し法名を宗祐と号し朝夕に主君を弔い修法怠りなかったという。
建暦2年(1212)8月15日夜、霊示に宝珠の如き鏡を感得し、この地に小祠を営み、本国の氏神である鶴岡八幡宮を勧請したことに始まる。別当を宝珠山智明院と称した。
公式サイト
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代々木八幡遺跡 約4500年前の住居跡が発掘された |
境内では結婚式が執り行なわれていました |
明治26年造の狛犬 |
明治26年造の狛犬 |
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いったん明治神宮前駅から代々木公園駅までメトロ千代田線で移動して、そこから小田急の線路を超えた先へ。
14時。
代々木八幡宮。社殿は南面している。
境内は鬱蒼とした森に包まれており、傍らには復元された竪穴式住居がある。古くから集落の中心であることをうかがい知ることができる。
ちょうど神前にて結婚式が執り行なわれていた最中のようで、拝殿前が記念撮影で賑々しい。神職さんもお忙しいかと推測されたので御朱印は叉の機会で。記念撮影の合間を見て参拝し、撮影をする。
ここであれば来ようと思えばいつでも来れるわけなので、そんなあわててはいない。
境内は涼やかでとても心地よい森林浴ができる。のんびりと缶ジュースをベンチで飲み干したら次に向けて歩みをすすめようかと思う。
「平田神社」<渋谷区代々木>
御祭神:平田篤胤大人命(ひらたあつたねうしのみこと)
明治16年、本所区柳島横川町の平田家邸内に、平田神社を建設。のちに文京区第六天町に遷座したが、大東亜戦争により社殿焼失。
戦後、現在地の平田家邸内に移転新築。
宗教法人法制定とともにいったん清算し、平田篤胤大人命五世孫の平田宗胤により平田家の全財産を寄付し昭和48年8月に宗教法人として再発足。
小田急線南新宿駅。駅から200メートルほど西に歩めば住宅地の一角に平田神社が鎮座している。神社自体が住宅と一体化。
15時。
平田氏は5代にて断絶しているが最後の当主であった平田宗胤氏が死去前年に私財を投じて平田神社を創立しており、その神主家米田氏が平田家の名跡を継いでいると言っても良い。
そんなわけで、系統としては特殊信仰。信仰として神道の大家である平田篤胤大人命を祀り、平田学派の宗家神社ともいえる神社。
そう聞かされると背筋がピーンと伸びる環境。緊張しつつの参拝をゆっくりとおこなう。
御朱印をいただいたが、ご担当されたお人がとてもお年を召しており御手が震えている状況で記入が困難のため書置きを頂戴する。日付も遠慮。
なにやら申し訳なくて恐縮してしまう。
「八幡神社」(鳩森八幡神社)<渋谷区千駄ヶ谷>
御祭神:応神天皇 神功皇后
往昔、深林に瑞雲現れたとも、またある時には蒼空より白気降りて雲上に散ず。村民怪しみ林の下にたどり着くと忽然として白鳩多数が西をさして飛び去った。この霊瑞を称し小祠を営み鳩森と呼称されたという。
貞観2年(860)慈覚大師が関東巡錫の途中、村民の懇請によって応神天皇・神功皇后・春日明神等の御尊像を作り添えて、正八幡として崇敬し奉ったと伝承。
のちに久寿年間(1154-56)に渋谷金王丸常光、生前随身の本尊、恵心僧都作の弥陀如来の像を本地仏として社を造営してこの地の産土神としたと称されている。
昭和20年5月26日の空襲により境内建造物すべてが焼失、鳩森と称されていた深林も三本の銀杏を残して全焼した。
昭和21年5月末に宮司南方より復員し、健康回復後に神社復興に着手。昭和24年1月に本殿再建。昭和27年拝殿新築。昭和34年1月に幣殿新築。4月に手水舎、35年3月に社務所、9月に神楽殿を新築。昭和54年に社殿屋根を銅板に葺替。
公式サイト
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千駄ヶ谷の富士塚 寛政元年(1789)築造。都内現存では最古の富士塚 |
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将棋堂 |
パンダの意図は不明 |
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そのまま千駄ヶ谷方面に歩く。
15時45分。
駅で言うと北参道駅から東に300メートル、千駄ヶ谷駅から南西に400メートルの地に鎮座。社殿は東面している。
ちょうどご祭礼を翌日に控えたタイミングでの参拝。境内は賑やか。それでも参拝に支障が生じるほどではなく、人々も思い思いの時間を境内で過ごしていた。境内にはひときわ大きな富士塚がある。気楽に登れるのもありがたい。富士塚も詣でて一心地といったあんばい。
「熊野神社」(青山熊野神社)<渋谷区神宮前>
御祭神:五十猛命 大屋津姫命 抓津姫命 伊弉冉命
元和5年(1620)徳川頼宣公が紀伊国に封じられ、邸内(現在の青山御所)に領国紀伊国より勧請したが、町民の要請に応えて邸内から青山路次町(現在の明治神宮外苑青山中学付近)に仮殿を建設して鎮祭したのを創建とする。
正保元年(1644)に現在地に遷座。翌2年4月に本殿・拝殿等が完成し青山総鎮守として崇敬される。
熊野大権現と称し別当三光山浄性寺が管理していたが、明治維新によって神仏分離。社号を「熊野神社」と改称。
鳩森より約800メートル南東に鎮座。駅で言うと500メートル北西の地。
16時20分。
時間はすでに夕方ではあるが参拝される方々がちらほら。こうした都会の中の緑のスペースは本当に貴重だなとつくづく思う瞬間でもある。
ちょっとひと休みして、さてどうしよう。
次の神社は場所がだいぶ違うので、迷いどころだった。
「氷川神社」(幡ヶ谷氷川神社)<渋谷区本町>
御祭神:素盞嗚尊 奇稲田姫尊
創建年代は不詳。永禄年間(1558-70)には社名の記録が残っている。
明治維新に到るまでは荘厳寺(幡ヶ谷不動)が別当にあたった。
昭和20年5月の戦災により、社殿焼失。昭和28年4月、復興に着手し、昭和31年9月に本殿再建。本殿の再建には伊勢神宮の御用材を拝領している。
昭和27年より専任神職就任神社となる。
鳥居は明治3年、社号標は昭和13年9月。揮毫は有馬良橘海軍大将。 |
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西新宿五丁目駅から歩く。
到着時間は17時。うっかりしていると暗くなりそうなので慌ただしく参拝。
社号標の揮毫が海軍大将有馬良橘。こんなところで有馬大将の名前をおみかけするとは思っていなかったのでちょっと驚き。
住宅地の中の鎮守様は静かに鎮座。ご神木の枝ぶりの広がりが見事な緑の空間を作り出していた。
今回はここまで。ひとまず渋谷区編は終了ということで。
参考文献等
各神社境内の案内板等
東京都神社名鑑
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