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「下総北部の古社巡り・その1」

<平成21年10月参拝記載>



その1
みづち神社・角ノ宮」「みづち神社・奥ノ宮
麻賀多神社・佐倉市鏑木町
麻賀多神社・大宮(台方区稷山)」「麻賀多神社・奥宮(船形区手黒)


その2
「駒形神社」「埴生神社」「小御門神社」「神崎神社」





10月11日。この日は銚子にいく用事があった。折角の連休という事もあったので、今回は初めての試みを実施してみる。

それはレンタカー。(借りた車はスズキのワゴンR)
ところが私はどうにもこうにも運転がめっきり駄目(ちょっとだけハンドルを握ってみたがかなり危なっかしい私は10年来のペーパードライバー)なので、嫁がハンドルを握ってくれる事になった。嫁もペーパードライバーであったが、それでも私よりかは全然しっかりとした運転だった。これはかなり嫁に感謝なのだ。そんなわけで運転が駄目な私は自分のために神社参拝コースのナビゲート。
コースは前日23時過ぎに調布スタート。甲州街道・環八経由で外環道−常磐道といったあんばい。守谷SAで一休みして明け方に谷和原IC−国道294号−国道6号−県道243号−県道4号経由で最初の目的地「みづち神社」到着は朝の6時過ぎであった。





「みづち神社・角ノ宮」(延喜式内社・旧郷社・茨城県北相馬郡利根町立木鎮座)


<みづち神社・こうもう神社・蚊虻神社・角の宮・門の宮・門間明神>

祭神:弥都波能売命(みつはのめのかみ)・波邇夜須毘売命(はにやすひめのかみ)

当社周辺が流れ海であったことの台地の姿が水蛇(みずち)に似ていたために「みづち」と呼称されたという。
当神社は孝霊天皇(前288)に水神の弥都波能売命(水波之売命)、文武天皇二年(698)に土神の波邇夜須毘売命(埴山姫命)を祀った事に始まるという。

奥ノ宮を水波之売命、角ノ宮を埴山姫命をまつるというが、「ミヅチ」を「ミズ・水」「ツチ・土」と解して祭神を付会したものであり、「ミヅチノカミ」とすべしという説もある。

延喜五年(905)に編纂開始された「延喜式」の神明帳で「下総国相馬郡一座 みづち神社」と記載される古社。

西に鎮座している当社を「角の宮」と呼称。300メートル東には「奥の宮」が鎮座している。

「角の宮」は別称として「門の宮」ともいう。これは「こうもう」を「蚊虻」として「ブンモウ」と読みさらに「モンマ」と読んだ事から「文間」の字が当てられたという。当地域は古くは文間村と呼称されていた。

明治4年郷社列格。

「角ノ宮」がもともとの当社鎮座地であったというが里に近すぎたためと水害を避けるためにいつの頃かに東方の台地を切り開いて遷座し、旧社地をそのままにして本社(奥ノ宮)と「角ノ宮」を対でまつったものとされる。

「角ノ宮(門ノ宮)」の社殿は慶長三年(1598)に布川藩主松平信一公が再建し元禄十一年(1698)に再造営と棟札に記録されている。
「奥ノ宮」は元禄十六年(1703)に再建。

「門ノ宮」境内には縄文時代後晩期の「立木貝塚」が残されおり、古くからの開拓地である事がうかがえる。特に土偶は全国でも最多出土遺跡の一つとされる。



みづち神社・角ノ宮 鳥居

みづち神社・角ノ宮 拝殿

みづち神社・角ノ宮 本殿

みづち神社・角ノ宮 本殿

みづち神社・角ノ宮 拝殿

みづち神社・角ノ宮 正面

みづち神社・角ノ宮 大銀杏

みづち神社・角ノ宮 社頭
右に大銀杏 左に貝塚

午前6時過ぎに社頭に到着。
鎮座地は利根川北部の北相馬郡。関東鉄道竜ヶ崎線の竜ヶ崎駅から直線で南方に3キロ、JR成田線布佐駅から利根川を渡って直線で南東に3キロの地に鎮座している。立木台地内に鎮座しており社殿は南面している。
境内の入口左側には特に案内はなかったが「大イチョウ」がそびえ立ち、右側は「立木貝塚遺跡」があり、古代から綿々と連なる生活エリアとして機能していたことを窺い知る事が出来る。もっとも貝塚といってもさすがに貝を探す気分ではないので、古代の気分に浸るだけではあるが。
社殿は古さがあふれ出ていた。地方の集落の神社としては規模が大きく立派であるが、なかなか整備の手が回っていない様子を感じさせる。難しい問題ではあるが。境内の雰囲気は良く式内社という風格も感じられ本日のスタートとしては上々の気分。

当社の300メートル東に「奥ノ宮」があるので続けて行ってみる。





「みづち神社・奥ノ宮」(本社) (延喜式内社・旧郷社・茨城県北相馬郡利根町立木鎮座)

<みづち神社・こうもう神社・蚊虻神社・奥の宮・門間明神>


みづち神社・奥ノ宮 参道石段

みづち神社・奥ノ宮石鳥居

みづち神社・奥ノ宮 拝殿

みづち神社・奥ノ宮 拝殿

みづち神社・奥ノ宮 本殿

北用水樋門付近からみた神社鎮座地=「文間台地(立木台地)」

付近の明治33年建設のレンガ水門(北用水樋門)

実は地図で神社の所在を調べていたときには、二社並立式であることを知らずなぜ二社あるのかの疑問符を浮かべていた。こうしてレポートを書いているときに知ったのではあるが、最初の「角ノ宮」が最初の鎮座地で、この「奥ノ宮」はそののちの鎮座地であるようだ。一般的な事例でいうと奥ノ宮が最初の鎮座である例が多いのに、当社では「奥ノ宮」が本社であるというのはなかなかに興味深いことであった。
そういわれみると、「角ノ宮」よりも良く整備されている。境内も掃き清められていて落ち葉のたぐいも少ない。境内スペースを鑑みると、基本的な祭礼はこの「奥ノ宮」で執り行われている気配だった。
社殿は南面しており、石段をのぼった先の高台に鎮座している。樹木が多かったので垣間見る程度であったが、南方に広がる水田地帯を見下ろせる鎮座地。その2キロ先には利根川が流れており、古代より水の神様として利根川とともにあったことをうかがい知れる式内社であった。

6時40分
ここから利根川の対岸を渡り、印旛沼周辺の式内社を詣でる事にする。





「麻賀多神社」 (旧郷社・千葉県佐倉市鏑木町鎮座)
(まかた神社)

祭神:椎産霊命(わかむすびのみこと・わくむすびのみこと・迦具土命と埴山姫命の御子神とも伊弉諾尊と伊弉冉尊の御子神ともいう)

佐倉藩の総鎮守。「まかたさま」として崇敬されてきた社。
麻賀多神社は延喜式神明帳にも名前が見える社名。佐倉市11社、酒々井町2社、成田市2社、富里市2社、八千代市1社を数えるという地域有力社である。

佐倉の麻賀多神社は創建年代不詳。

千葉県は古来は「麻」の産地であり「総の国(ふさのくに)」の総は麻を表している。下総の中心である印旛地方は下総国政立以前は印旛国として朝廷より国造が派遣されていた。その印旛国造には多一族の伊都許利命が就任したとされ麻賀多神社を代々祀ってきた一族でもあった。「麻縣」ともいえ「麻の国で多氏が賀す神の社」をすなわち「麻賀多神社」ということもできる。なおかつ鎮座地の佐倉は「麻の倉」が転じたともいわれており「麻」と縁が深い地域である。

江戸時代にはいると神社西方に土井利勝公が佐倉城を築城し当社は佐倉藩総鎮守となった。
現在の社殿は佐倉藩主堀田正睦公(のちの幕府老中首座)が天保14年(1843)に建立し、平成15年に大修営を施したもの。

明治旧社格は郷社。
境内の御神木「大銀杏」は樹齢800年以上とされる。

公式サイト「佐倉藩鎮守 麻賀多神社


佐倉市鏑木町ノ麻賀多神社 正面

佐倉市鏑木町ノ麻賀多神社 参道

佐倉市鏑木町ノ麻賀多神社 拝殿

佐倉市鏑木町ノ麻賀多神社 御朱印

佐倉市鏑木町ノ麻賀多神社 拝殿と後方の御神木

佐倉市鏑木町ノ麻賀多神社 社殿
瑞垣内に御神木の大銀杏あり

6時40分に利根川北岸の「みづち神社」を発して南下。印旛沼の脇を南下し佐倉を目指す。南北印旛沼の中間あたりで宅地造成の真っ最中エリアで道に迷ってしまい、地図にも記載のない道が多数。どうやら北総線の成田延伸工事に伴う大規模開発エリアらしい。
そうして佐倉ノ麻賀多神社に到達したのは8時15分。途中で利根川南岸の高台に鎮座している「駒形神社(千葉県印旛郡栄町安食鎮座)」にも立ち寄っているがそれは別途記載予定。

ちょうど「佐倉の秋祭り」が土日(10/10-10/11)で開催されており市内はお祭りの様相。その一方で神社境内はお祭りの気配を感じさせない静寂を保っていた。麻賀多神社大御神輿も夕方まではどこかの御旅所で納まっているらしい。江戸時代中期の享保6年(1721)に建造された千葉県内では最大級の大神輿が自慢と言うが、そんなわけで残念ながら拝見していない。その御旅所までは見に行こうとすれば行けた距離かもしれないけど、どうやら面倒だったらしい。

麻賀多神社の鎮座地はJR佐倉駅より直線で北に約1000メートル、京成佐倉駅より南に約600メートルの地に鎮座。社殿は南面。境内地の西800メートル先には佐倉城址と国立歴史民俗博物館がある。ちょうど城下町の中心とも言うべき場所に鎮座しており周辺は神社仏閣が多く鎮座している。
当社は式内社かどうかといわれるとおそらく式内社は後述の麻賀多神社であろうと思われるが、式内社麻賀多神社に準じる規模で佐倉総鎮守という格式を誇っているので参拝をしてみた次第であった。

拝殿と本殿を結ぶ幣殿の向かって右脇(瑞垣の内側)に御神木の大銀杏がある。樹齢約800年とされる御神木がひときわ立派にそびえ立っていた。ちょうど神職さんの出勤時間だったようで社務所が開き始める。社務所をよくみると「午前9時より午後5時まで」と記載があり、現在時間は8時30分。まだ30分時間があったが、このあとのスケジュールの時間がよめないので、フライングを承知で「御朱印」をお願いしてみる。若い神職さんは快く応じてくれ、そうして御朱印を頂戴できた。達筆な御朱印はそれだけで気分が良いものだ。





「麻賀多神社」大宮(台方社・台方区稷山) (延喜式内社・旧郷社・千葉県成田市台方字稷山(あわやま)鎮座)
  (まかた神社)

祭神:椎産霊命(わかむすびのみこと・わくむすびのみこと・迦具土命と埴山姫命の御子神とも伊弉諾尊と伊弉冉尊の御子神ともいう)


祭神の椎産霊命は伊勢内宮の天照大神の姉神で、伊勢外宮の豊受大神は御子神としている。香取神(経津主命)・鹿嶋神(武甕槌命)は弟神にあたる。

下総の中心である印旛地方は下総国政立以前は印旛国として朝廷より国造が派遣されていた。その印旛国造には多一族の伊都許利命が就任したとされ麻賀多神社を代々祀ってきた一族でもあった。「麻縣」ともいえ「麻の国で多氏が賀す神の社」をすなわち「麻賀多神社」ということもできる。

また印旛国は印旛沼を取り囲んだ地域でもあり無数の潟があったことから「まかた」とはすなわち「真潟」と言う事も出来る。当社北方の奥社の鎮座地は「船形」と呼称されており、昔は船の発着した「船潟」であったという。
大宮の鎮座している「台方」も「台潟」であり潟に臨んだ台地といえる。

創建は約1700余年前にさかのぼる。応神天皇のころに印旛国国造であった伊都許利命(いつこりのみこと)がこの地方の開発につくされていた際に夢の中で「洞木の下の地中に玉(勾玉)あり掘り出して和久産巣日の神を祭れ」とのお告があり勾玉を掘り出して御鏡と共に霊代としてあわせてまつり「麻賀多神」を奉祭したことにはじまる。伊都許利命は神武天皇の皇子である神八井耳命の八世の孫とされる。一説に夢告をうけたのは日本武尊ともいわれている。
推古天皇16年(608)に国府津(公津・神津)の稷山に奉遷。これが現在の台方大宮の当社である。

明治5年に郷社列格。
本殿は江戸中期の寛文13年(1673)に建築され元禄9年(1696)再建という。

境内の御神木「大杉」は稷山に遷座してきた際に植えられたものとされ、樹齢は約1300年。太さ8メートル、高さ40メートルは東日本最大の大杉という。昭和10年に関東一大杉「公津の大杉」として第一回千葉県指定天然記念物に選定。



台方ノ麻賀多神社

台方ノ麻賀多神社 参道

台方ノ麻賀多神社 拝殿

台方ノ麻賀多神社 社殿

台方ノ麻賀多神社 本殿

台方ノ麻賀多神社 御神木と境内社(魚眼レンズ使用)
左の境内社は「印旛国造神社」伊都許利命を祀る

台方ノ麻賀多神社 御神木「公津の大杉」樹齢1300年

御神木(魚眼レンズ使用)

御神木「公津の大杉」

御神木「公津の大杉」

8時40分に佐倉の麻賀多神社を後にして北上を開始する。30分後の9時10分に成田市台方の麻賀多神社に到着。社頭には「東日本一大杉」の看板が出ており期待が高まる。付近は「義民ロード」として整備をされているがバスは少ない。バスの時間は麻賀多神社から公津の杜駅行きが6:30/7:20/9:20/12/30/15:30/16:25/17:15のみのようだ。京成電鉄の宗吾参道駅より宗吾霊廟までは1キロ、宗吾霊廟から台方の麻賀多神社までは1.9キロ、そこから佐倉宗吾旧宅までは1キロといったあんばい。有名な宗吾霊廟の「佐倉惣五郎(佐倉宗吾)」はこのあたりの名主で義民として名が知れている(ウィキペディア「佐倉惣五郎」の項参考

神社は県道454号線に面して西面しており、その先には「印旛沼」がある。境内は鬱蒼とした杜となっており「麻賀多神社の森」として千葉県指定天然記念物となっている。印旛沼の東約1キロの台地に発達した社叢は見応えがある。拝殿まで到達するとにわかに太陽光が社殿を包み込み一気に明るくなる。この日差しが気持ちよい。とてもヒーリング効果も高い神社。居心地の良い境内であった。
御神木の「公津の大杉」。この迫力はなんていったらよいだろうか。幹廻りを周回し、そうして正面から見上げる姿は神々しさにあふれていた。
社務所は無人であれど宮司さん宅の連絡先と宮司さんへの連絡ノートというのが設けられていた。神社由緒書がおいてあったので一部頂戴する。一部一部に記念スタンプが押してある由緒書は手作り感があるとともに、連絡ノートに欠かさずに返信にしている宮司さんのメッセージもあわせて心がこもっており微笑ましかった。

30分ほど神社境内を堪能し、麻賀多神社奥社へと移動する。時間は9時40分。





「麻賀多神社」奥社(船形社・船形区手黒) (延喜式内社・旧郷社・千葉県成田市船形鎮座)

祭神:椎日女命(わかひるめのみこと・天照大神の妹神)

伊都許利命が麻賀多神を祀った創建地とされる。推古天皇16年(608)に国府津(公津・神津)の稷山に奉遷し、当社は奥宮となった。

当社の西方には「古墳」がある。公津原古墳群39号墳方墳「伝伊都許利命墳墓」(千葉県指定文化財)
高さ約5メートル・東西辺約35メートル・南北辺約36メートルの「方形墳」。横穴式石室と箱式石棺の二施設が確認されている。
文久2年(1862)2月23日に発掘され中から直刀・金環等が発見され伊都許利命を埋葬した墓と伝承。古墳脇にはその際に発掘された「石櫃」が祀られている。

御神木の大杉は樹齢約600年。


船形ノ麻賀多神社 正面

船形ノ麻賀多神社 参道 左に山桜(樹齢約300年)

船形ノ麻賀多神社 拝殿
参道は陰っていたが、社殿は明るく日向(ひなた)であった

船形ノ麻賀多神社 本殿と御神木

船形ノ麻賀多神社 本殿

船形ノ麻賀多神社  御神木の大杉(樹齢約600年)

後方の杜より本殿をのぞむ。やはり社殿の所のみが明るく日向

杜の中に静まる境内社

公津原古墳群39号墳方墳「伝伊都許利命墳墓」

台風の後だったのでちょっと木々が荒れていました

それでも石室と石祠は台風でも木々から護られていたようです

古墳としての正面はこちら
古墳暮上に「伊都許利命碑誌・元文2年(1736)」あり

古墳東側の金比羅神社入口(伊都許利神社ともされるようだ)

古墳東側の金比羅神社

台方の麻賀多神社から奥社である船形の麻賀多神社を目指す。直線距離では北に800メートルほどであれど、道は繋がっておらず二倍の迂回距離が必要となってしまう。

9時50分。神社到着。
付近の道路は成田市中心部への抜け道ともなっている様子で、小道であれど意外と交通量が盛んであった。ちょっとした高台に鎮座。社地の後方には印旛沼へと繋がる用水が流れており、印旛沼の水を近くに感じることができる。
社頭のむかって右側にはこんもりと古墳があった。これが印旛国造の伊都許利命が葬られたという古墳。台方の大杉と、船形の古墳、この両社が時代を超えてこうして現在に歴史を伝承する象徴となっていることによって麻賀多神社の奥行きがぐっと深まった感じがする。いろいろな式内社に赴いたが、下総国でこれだけの伝承の奥行きを持った式内社に出会えた事がとにかく嬉しかった。
古墳の石室の脇ではちょうど台風被害で木々が倒壊していたが、それも不思議な事に石室及び石祠を避けるようにして倒れていた。ダメージがなかったのも御神力であろうか。
本殿の後方には御神木の大杉がある。こちらは樹齢約600年。台方の「公津の大杉」に比べると倍以上に若いがそれでも室町時代以来の600年の月日を重ねた重みが伝わっている御神木。境内後方脇には木々の袂に石祠が祀られており、そんな木々からは重厚な杜の気配を存分に感じ取る事が出来る。

古墳に関しての管理は伊都許利神社社務所が管理をしているらしい。古墳関係の案内板にはそう記載があった、よく拝見している玄松子氏のサイト「麻賀多神社」頁<http://www.genbu.net/engi/index.htm>にも同じような疑問符が記載されており、まったく同じ疑問符を私も現地で感じてしまったのだが、問題の幼稚園の隣側の神社は「金比羅神社」として石祠が鎮座していた。玄松子氏サイトの掲載記事では社殿があるようだが社殿はいつのころからか撤去されたようだ。幼稚園は学校法人太田学園が運営をしており、麻賀多神社の宮司職も太田氏である。このあたりの土地はそういうわけでも麻賀多神社=太田氏の持ち物なのだろう。伊都許利神社社務所=麻賀多神社で良いのかどうかは不明であれど。

さて、せっかくなので大鳥居を探しに行く。
麻賀多神社の大鳥居が印旛沼の湖畔にあったが平成の世の中になって移転したという話題を聞いていたので。





「麻賀多神社 大鳥居」
平成7年7月建立の麻賀多神社大鳥居。鳥居河岸跡にたつ。
延暦2年(783)に勅使として大伴家持公が参向したときに印旛沼湖畔に建立したのをはじまるという。爾来61年ごとに建て替えるのを定例とし1200余年を絶えることなく印旛沼湖面に映えてきた。
平成7年に成田市の道路計画の為に旧建立地で重要神事の場であった浄地「御はしり」の中心部が道路となり分断され大鳥居を移動する事を余儀なくされた。それにともない新たに石鳥居として現在地に建立したという。


麻賀多神社大鳥居 鳥居延長線上後方の森に台方ノ麻賀多神社あり
(止まっている車は今回活躍のレンタカーですが)

麻賀多神社大鳥居

麻賀多神社大鳥居

10時30分。
20分ほど探してみて、結果としては意外とわかりやすいところにあった。台方の麻賀多神社より県道464号を北上して最初の信号で左の新道にはいると700メートルほどで道路に面して印旛沼方面に石鳥居がみえる。地図上で言えば台方の麻賀多神社よりちょうど1キロ西側にある。
碑銘文を読むと平成7年に従来の地より鳥居が移転して、その際に石鳥居を建立したという。道路計画のためにやむなくの移転であれど、それでも大伴家持公が勅使として783年に参向して以来の由緒ある鳥居がこうして伝承され続けるられるのがせめてもの救いなのかもしれない。



次に麻賀多神社から成田市内中心部に鎮座している「埴生神社」を目指す。この埴生神社は成田総鎮守の格式を誇る神社にして周辺の埴生神社の総社でもある。
参拝記としては長くなってきたので「その2」で掲載。





参考文献等
「式内社調査報告 第11巻 東海道6」 皇學館大学
「房総の古社」 菱沼勇・梅田義彦著 
各神社境内の案内板等

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