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「下総北部の古社巡り・その2」

<平成21年10月参拝記載>



その1
「みづち神社・角ノ宮」「みづち神社・奥ノ宮」
「麻賀多神社・佐倉市鏑木町」
「麻賀多神社・大宮(台方区稷山)」「麻賀多神社・奥宮(船形区手黒)」



その2
駒形神社」「埴生神社」「小御門神社」「神崎神社




「下総北部の古社巡り・その2」です。その1ではおもに式内社を掲載した。こちらはそれ以外の神社を掲載。




「安食ノ駒形神社」(千葉県印旛郡栄町安食鎮座)
  (あじきのこまがた神社)

主祭神:保食神(うけもちのかみ)

合祀:浅間神社(木花咲耶姫命)・八坂神社(素戔嗚尊)

天永2年(1111)〜仁平元年(1151)にかけてこの辺り一帯が大水害や干ばつに見舞われ飢饉が続いたという。
仁平元年9月9日郡司であった大浦朝臣廣足が駒形山の台地の地に五穀豊穣の神を祭ったところ翌年秋に豊作となった。
このことから神の贈り物と考え、以後も末永く民が食に安んずる様に従来呼称されていた川崎村から安食村に改められたのは天正年間(1573−1593)のこととされる。

駒形神社本殿は文化4年(1807)。明治社格では村社列格。

駒形神社・公式サイト 公式ブログ


安食ノ駒形神社参道

安食ノ駒形神社拝殿

安食ノ駒形神社本殿

安食ノ駒形神社社叢

安食ノ駒形神社 手作りのお神籤と奉仕会記録ノート

こうもう神社(蚊虻神社)から移動。最近出来たと思われる「若草大橋有料道路」を経由すれば利根川の南岸に簡単に渡れる。渡った先は「千葉県印旛郡栄町」。
成田線の「安食駅」の近くに小高い丘がある。駅から約800メートル北側。町立栄中学校の隣に鎮座している。
この神社は私の移動ルート(こうもう神社〜麻賀多神社)の途中にあったので、ちょっと寄ってみようかなと思った神社。

着いた時間は朝7時過ぎ。ちょうど部活動か何かだろうか。中学生が神社の脇を歩いて通学している。学校教育の方針がキチンとしているのだろう。中学生たちは「おはようございます」と挨拶をしていく。気持ちの良い朝の光景だ。
神社の杜は居心地がよい。小高い丘の山頂部分に鎮座。良く整備されている。
拝殿には「駒形神社 杜の奉仕会記録帳」という連絡ノートが置いてあった。奉仕会としての活動が盛んな雰囲気。これは一参拝者としても非常に嬉しい気配。そして拝殿には毎年手作りでつくっているであろう「元気の出るおみくじ」というのもあった。クジの入った小筒をゆすって番号を出せば、大吉とか中吉とか書いてあって一言のメッセージもある。シンプルであれどなかなか良いアイデア。郷土密着の小さな神社であれど郷土と氏子に愛されている雰囲気が伝わってくる良い神社。





「埴生神社」(成田総鎮守・三ノ宮・千葉県成田市郷部鎮座・朱印
 (はぶ神社)

御祭神:埴山姫命(はにやまひめのみこと)


創建年代は不詳。一説に平安時代前期ともいう。
この地方は「埴生郡」と呼称されており、約1500年前に土師器(はじき)の制作集団である土師部(はじべ)が一族の祖神として埴山姫命を祭った事に始まるとされる。

鎮座地は成田市街地では自然地では一番高い場所にあたり、古墳跡に社殿が建っている。

当社は通称を「三ノ宮」と呼称されている。その昔、物資が利根川より運び込まれ、栄町矢口の「一ノ宮埴生神社」、成田市松崎の「二ノ宮埴生神社」を経由し終点の「三ノ宮埴生神社」が当社となる。
社殿は西面。一ノ宮、二ノ宮をたどる向きに面しているとされる。

歴史上文献では仁安3年(1168)に成田五郎頼重が埴生郡を領した記録が成田の文字資料の始まりとされている。
寛元2年(1244)6月に当地を領有していた埴生次郎平時常が神輿を寄進している。(神輿渡御のはじまり)

成田総鎮守。明治社格では郷社。

wikipedia「埴生神社」の項・参考

埴生神社・公式サイト 公式ブログ



埴生神社正面

埴生神社拝殿

埴生神社本殿

埴生神社本殿

埴生神社御神木。良く掃き清められている。

御神木

着いた時間は11時。
鎮座地は成田駅の北側約800メートル。成田線の我孫子方面・銚子方面の分かれるY字の真ん中の高台に鎮座。
一連の麻賀多神社を経由してから参拝。成田総鎮守。
今回の神社紀行ではじめて多くの人で賑わっている神社に出会えた。ちょうど七五三の季節という事もあり、親子孫三代・親子二代の参拝がひっきりなし。こうなってくると撮影もやりにくくなってくるが、こればかりはいたしかたがない。御朱印を頂戴し境内を散歩。社殿脇の御神木周辺がきちんと整えられている。境内はさほどには広くない。よく言えば「街の中の神社」といった感じである。そうして七五三参拝者の波が途切れ拝殿前で写真が撮れるようになるのを待つ。





「小御門神社」<別格官弊社>(千葉県成田市名古屋鎮座/旧・千葉県香取郡下総町名古屋鎮座・朱印
 (こみかど神社)

御祭神:贈太政大臣 藤原師賢(もろかた)公 (花山院・内大臣藤原師信の子)

後醍醐天皇の側近。元弘元年(1331)に弾正尹を兼ね大納言に任ぜられる。後醍醐天皇が鎌倉幕府北条高時を討ち滅ぼそうとはかったさいに、花山院藤原師賢は後醍醐天皇の御衣を賜り天皇を擬して比叡山の衆徒と挙兵。後醍醐天皇の身代わりとして比叡山山上に仮皇居を打ち立て鎌倉軍を坂本で撃破するも、比叡山衆徒に後醍醐天皇ではない身代わりである事がばれ内部分裂、軍勢は離散してしまい、師賢公は後醍醐天皇と合流。後醍醐天皇は笠置山で挙兵するもあえなく敗退。師賢公は再起をはかって京都潜伏中に捕らえられ、元弘2年(1332)に下総国に配流。流さてほどなく32歳で薨去。
翌年、元弘3年(1333)に隠岐島に流されていた後醍醐天皇が凱旋し、鎌倉幕府は崩壊。流配地でなくなった師賢公を痛く悲しみ、太政大臣を贈り文貞公の諡号を与えられた。

明治10年(1877)地元民が師賢公の墓所のあった当地に社殿建築をはかり、明治15年に「小御門神社」として竣功。別格官弊社となる。

建武中興十五社<wikipedia>のひとつ。

小御門神社・公式サイト


小御門神社正面

小御門神社拝殿

小御門神社 参道

小御門神社 社殿脇の苔絨毯

小御門神社 拝殿

小御門神社 本殿

小御門神社 拝殿

小御門神社

小御門神社 藤原師賢公御墓塚

小御門神社 藤原師賢公御墓塚

埴生神社から北上。利根川南岸の「小御門神社」を目指す。成田線滑河駅の南方約2.5キロの地に鎮座。この神社だけは二回目の参拝。前回参拝したときは真夏八月の直射日光の下で、朦朧となりながら歩いたため神社に到着したときは力尽き、社殿後方の御祭神墓塚すら見ずに引き上げてしまった状態。心残りが多すぎ、再訪必至の神社であったのだ。
到着は11時45分。境内は広め。氏子の方がよく掃き清めているようで、あっちこっちに枯れ枝が集積されていた。ちょうど台風が過ぎ去ったあとゆえに枯れ枝も多めなのだ。境内を一巡し、墓塚もようやくに拝見する。予想よりも大きな塚で樹木が鬱蒼と映えている。立派なものであった。

社務所には人がいらしゃらないようで、境内にはご婦人がお掃除をなされていた。神社の人かどうかはわからなかったけど「御朱印が頂戴出来るかどうか」声を掛けてみる。話をお伺いしてみると氏子の方で宮司さんとも親しいらしい。「宮司さんは12時頃に戻ってきますよ」とのことで、しばらく私と嫁とでご婦人に神社の事などの話を伺う。なかでも境内敷地で以前は除草剤等を用いて管理していたら「コケがみぐるしく生えてしまったが、ほっとくようにしたらコケもフカフカと綺麗に生えるようになった」というお話は興味深かった。いわれてみてからあらためて境内のコケを拝見すると綺麗にコケが生えている空間もあれば、コケがはえていない空間もある。徐々にコケの空間が広がっているとの事で、これは自然の力の強さを感じさせてくれるお話であった。
そうこうしていても宮司さんは戻ってこない様子なので、おばさんが「紙に書いた朱印があるかどうか探してみる」ということで、社務所へ。さすがに神社の事をよく知っている氏子さんのようでしばらくして「書いてあった御朱印」を持ってきてくれる。これは大助かり。ありがとうございます。

別格官弊社というイメージが先行するとなかなか郷土には根付かなそうな雰囲気があるが、そんなことはなかった。この地で没した藤原師賢公が後世でも讃えられ、そうして地元主導で神社が創建され愛されている。
とても雰囲気の良い神社であった。





「神崎神社」<旧県社・式外社>(千葉県香取郡神崎町神崎本宿鎮座・朱印
 (こうざき神社)

御祭神:大貴己命(おおなむちのみこと)
    少彦名命(すくなひこなのみこと)
    天鳥船命(あめのとりふねのみこと)
    面足命(おもたるのみこと)
    惶根命(かしこねのみこと)

創建年代は不詳。
天武天皇2年(白鳳元年・673)に常陸国と下総国の国境である大浦沼二ツ塚よりこの地に遷座。旧号を小松神社と称し、平安期の「三代実録」に記載のある式外社の古社。

別称を「六所鎮守」「神崎大明神「神崎大社」。鎮座地の山は「瓢箪山」「ひさごが丘」「双生山」「双子山」とも称される。
徳川期には朱印領20石。
明治6年に郷社、大正10年に県社列格。
昭和10年に「神崎神社の森」「神崎森」が県指定天然記念物となる。

神崎神社の御神木である大クス「なんじゃもんじゃ」が有名。
大正15年に国指定天然記念物となる。
延宝二年(1674)に水戸光圀公が当社に参詣されたおりに「この木は何というもんじゃろか」と自問して感嘆。それ以来、この御神木を「なんじゃもんじゃ」の木と呼称するようになったという。
明治四〇年に火災のために主幹は高さ10メートルほどで切断。現在は五本のひこばえが親木を取り巻いて生い茂っている。樹齢は約2000年とされる。



神崎神社 正面

神崎神社 参道

神崎神社 拝殿

神崎神社 拝殿

神崎神社 本殿

神崎神社 社殿と御神木

神崎神社 御神木「なんじゃもんじゃ」

神崎神社 御神木「なんじゃもんじゃ」

成田線下総神崎駅より北側に約2キロの地に鎮座。島のようにこんもりと盛り上がった丘があり、社殿のすぐ後方北側は利根川。古代より変わってないであろう光景のもとに鎮座している。
正面の参道からはいらずに、脇の駐車場から参拝。これを正面参道から歩むと石段をのぼって、いったん降ってから又登るというすり鉢の参道になっている。丘の上の峯を越えるという感じなのかもしれない。社殿よりもなによりもひときわ大きな御神木に目を奪われる。中央の主幹を取り巻くように五本の木が生え伸びており、この迫力は圧巻。今日は御神木を幾本も見てきている。一本杉で堂々とした「麻賀多神社の大杉」も立派であったが、この六本の木々が寄り集まった迫力も吸い込まれるものがあった。

今回の神社紀行はここまで。この時点で時計は1時。実は銚子に用事があり、このまま利根川沿いを東行。レンタカーで嫁がかなり頑張って運転して銚子についたのは14時30分頃。この日は「佐原の大祭」もあり利根川南岸は混んでると踏んで、利根川北岸へと迂回コースをとったのだった。




参考文献等
「式内社調査報告 第11巻 東海道6」 皇學館大学
「房総の古社」 菱沼勇・梅田義彦著 
各神社境内の案内板等

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