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「駿府訪拝記・その2」
<平成16年3月参拝>

その1.静岡浅間神社(大歳御祖神社/神部神社/浅間神社)

その2.久能山東照宮

その3.静岡護国と御穂


静岡駅前のバスに乗り込み、「久能山下」を目指す。
知らない土地の呑気なバスに揺られ、日差しにもてあそばれうつらうつらとしているとバスは私一人だけを乗せ終着に到着であった。

12時55分。
誰もいない終着で途方に暮れながら、強風にあおられる。そぐそこに太平洋が迫っていた。しばらく道をすすむと目標の入口を目にする。石段の脇には「東照宮」とあるゆえに間違いはないだろう。ただ石段は延々と上に延びており、その到達点は下からでは確認できなかった。意を決して、足をすすめる。
つづら折りの道すがらは容易ではなかったが、ふと振り返ると眼下に太平洋がひろがり、遥か沖合にタンカーを眺める。
気がつけば風は心地よく、そして山頂も近かった。あらためて「よくもまあ登ったな」とわれながらに呆れつつ、下を眺め上を望む。
久能山は城跡であった。そう鑑みると極めて堅固な山城であった。途中、山本勘介ゆかりの井戸などがあり、博物館の先に社殿への入口があった。
時間が13時10分であったから、下から15分かけて石段を昇ったことになる。


「久能山東照宮」(別格官幣社・久能山東照宮)
<静岡県静岡市根古屋鎮座・朱印

主祭神:東照大権現(徳川家康公)

相殿:豊臣秀吉公・織田信長公

由緒
久能山、そして日本平は太古の土地変動によって海底から隆起によって出来たものであり、長い年月の浸食により、現在では久能山は岩盤の部分のみ残った独立峰となっている。久能山は標高270メートル。表参道は駿河湾に面し東照宮まで17折1159段の石段を登る。

久能山は推古天の頃(600年頃)に久能忠仁が山を開いて補陀落山久能寺をおこしたことにはじまるという。その後、行基をはじめ多くの名僧が訪れ隆盛を誇っていたが、嘉禄年間(1225年頃)に山麓失火により類焼。
永禄11年(1568)に、駿河を領した武田信玄が久能の要害に着目し、久能寺を移し(現在の清水・鉄舟寺)参上に久能城を設けた。
天正10年(1582)に武田氏が滅び、徳川氏が久能城を領有。
元和2年(1616)4月17日に大御所徳川家康が隠居城と定めた駿府城で薨ずると、江戸防衛の前衞拠点である駿府の「本丸」的位置として久能を重視していた家康は遺言し、二代将軍秀忠は家康公の遺体を久能山山上に埋葬し久能城を廃した。

二代将軍秀忠の命により紀伊宰相徳川頼宣が総奉行となって社殿造営に着手。元和3年12月に竣工し、正一位東照大権現として「東照社」が創建。正保2年(1645)に宮号の宣下があり東照宮と称した。
現在の社殿は創建当時のもの。社殿群は重要文化財に指定されている。
後年、日光山東照宮に改葬されてはいるが、依然として徳川家の二代総廟として威厳を誇り、代々の崇敬があつかった。

明治社格では別格官幣社列格。

久能山東照宮
久能山下の参道入口
久能山東照宮
参道
久能山東照宮
参道途中から駿河湾をのぞむ
久能山東照宮
境内地入口
久能山東照宮
勘介井戸(山本勘介が掘ったという久能城遺構)
久能山東照宮
楼門(国重文・元和3年・1617)
久能山東照宮
鳥居
久能山東照宮
手水鉢(国重文・元和3年)
久能山東照宮
鼓楼(国重文・元和3年)
久能山東照宮
神楽殿(国重文・元和3年)
久能山東照宮
神庫(国重文・元和3年)
久能山東照宮
日枝神社(旧御本地堂)(国重文・元和3年)
久能山東照宮
本殿(国重文・元和3年)
久能山東照宮
本殿(国重文・元和3年)
久能山東照宮
拝殿は修復中(国重文・元和3年)
久能山東照宮
神廟(国重文・元和3年)
久能山東照宮 左:日本平ロープウェイから久能山をのぞむ。

参拝料を払う。久しぶりに料金を必要とする神社に出会ったわけであるが、足を踏み出せば価値を見いだす。参道をすすみ石段をあがると拝殿がある。残念ながら拝殿は修復工事中。なんか、私がいく神社と修復工事中の割合が高いような気もするが、それだけ多くの神社に接しているがゆえなのだろうか。残念ではあるが修復工事はかかせないものでもある。またの機会を、見いだせるかどうかは定かではないが、それでも拝殿へとすすみ、社頭で敬す。

さらにすすむと、本殿脇にでる。本殿は一部修復工事が完了しているようであり、その鮮やかなる姿を垣間見せてくれる。輝く漆黒が鏡のようであり、細工の華やかなることに目を奪われる。まさしく東照宮はこうあるべきだった。「東を照らす宮」は、誇らしげに佇んでいた。この姿を期待しつつ、蘇らせるための修復工事なのだから否はいえない。
本殿脇をさらにすすむと廟所に到着する。家康公が最初に眠った地。東海道の要たる駿府に控える要害の地「久能山東照宮」を鎮護する家康公は、そののち関東鎮護として「日光山東照宮」にまつられる。
日光と久能。東照宮のなかでも正確を同じくする両社は、その気配もどことなく同じであった。規模は違えども私は久能山東照宮の気配を大いに気に入る。日光山東照宮ほどに知名度的な絢爛豪華たる存在感はないが、バランスの良い豪壮さと質朴さを、そこに感じ取る。

朱印を頂戴し、宝物殿に足を伸ばす。いつも以上にのんびりと宝物を見聞し、しばしの休息とする。休息ついでに、今後の計算をする。もっとも、静岡駅に戻るしか選択肢はないようであり、問題は静岡駅からどうのように行動すべきなのだが、それも結局は残された時間次第。

さしあたり、下に降りるのは面白くない。どうせなら上に登ろう。そういうわけで、久能山のロープウェイ乗り場に向かう。そこで「日本平」からのバス時間を確認すると、ほどよく30分ぐらいは待たされるらしい。まあ、その位なら許容範囲だ。
ロープウェイ乗り場で、係の人と無意味な雑談などをして出発までの時間を待つ。いつもながらにお馴染みな会話。「どこから来たの?」「サイタマです。」「それはそれはごくろうさまです」というあんばい。

14時ちょうど。日本平に向けてロープウェイが動き出す。
ロープウェイなどはそんなに乗るべきものではないが、普段乗り慣れない乗り物ゆえに、確かに愉快ではある。愉快であるが、不気味でもあり、複雑な心境。実のところ、私の本心は高所恐怖症なのである。高いところからの遠望風景なら心落ち着くものであり、そのような景観美ならいくらでも問題ないのだが、自分の足下直下の高所はどうにも苦手の部類ではある。精々、下を見ないように、遠くの風景を楽しむことにする。
空中箱から望む景観は絶景であった。久能山は異形であった。まさしく要害の地たるふさわしさを表していた。

日本平は、子供心に興味のある地名だった。小学生のころから日本地図を眺めていることがすきな少年であった私は、静岡の平原に飛び出た久能山、そして日本平という地名が気になっていた。おそらくは「イチゴ畑」を連想の深層におきながら。
そんな日本平は、風が止まらなかった。強烈な春風を巻き起こしている山頂は「日本平」という言葉イメージとはうらはらに何とも言い難い寂しさを生み出していた。
確かに、こんな強風に訪れるほうが悪いのかもしれないが、少なくともバスに乗るためだけに訪れた独り身の私はさしあたってすることはここにはない。

観光バスのような立派なバスに乗り込んで静岡駅まで舞い戻ろうかとおもう。ほんとは清水方面に向かえればうれしいのだが、どうもうまくいかないようだ。
せっかくだから、静岡鉄道に乗ろうかと思う。過去に一度だけ乗車したことがある電車。昔の私は、私鉄好きであり全国各地の私鉄に乗ることを趣味としていた。今思えばバカバカしい限りだが、始点から終点にむかって乗り込み、すぐさま折り返すという、まさしく「乗るための旅行」を行っていた。それゆえに最近の神社紀行旅では、過去に訪れたことのある地域に、再び赴くという無駄が多い。そういう意味では静岡は知った土地である。

そんな静岡鉄道で沿線途中駅に鎮座している「静岡縣護國神社」に足をむけようかとおもう。べつに何か格別な目的があるわけではないが、なんとなくの寄り道である。護国神社にひかれるものがあるのかもしれない。やはり私は近代史畑を歩んだ歴史趣味者なのだな、と思いつつ。


参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名大辞典・22静岡県



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