「筑前の古社巡り その1・宗像宮地嶽編」
<平成15年9月参拝・平成15年9月記>
その1・宗像宮地嶽編:「筑前へ」「宗像大社」「宮地嶽神社」
その2・香椎筥崎編:
その3・住吉櫛田編:
「筑前へ」
少なくとも一年前の私には飛行機で神社巡りをするなどという発想は絶対に生まれなかっただろう。青春18きっぷを中心とした鉄道参拝紀行が私のスタイルであった。ところが、最近の私は時間がない。18きっぷという鈍行限定の鉄道旅を悠長におこなうほどの時間的ゆとりも精神的余裕もない。でも神社熱はさがっていなかった。
飛行機でも安くとろうと思えばとれるらしい、ということを学習してしまった。この理屈でいくと、JALのバーゲンフェア切符でなんと片道9000円。おもわず二ヶ月前から日帰りの往復切符を確保してしまう。
朝の4時30分。徹夜の私はあきらめ顔で駅までの道を歩く。駅は始発電車を待つ人々が意外と多かった。京浜東北線の車中ではそれこそ旅行鞄をさげた人々が多い。どうやらみんな羽田空港らしい。さすがに朝一番の飛行機でいこうという発想はみんな同じらしい。浜松町でそんな人々が一斉にモノレールに乗り換え。とても早朝の光景ではなかった。
羽田空港には6時30分ごろに到着。私の搭乗する博多行き飛行機は7時ちょうどのフライト予定。今年初めに一人で飛行機をのるという体験をした私は、その日から数えて3回目の搭乗手続き。さすがにもう手慣れたものでなんの緊張感もなく手続きを終える。それにしても飛行場は面白い。まったりと航空会社のスタッフが働く姿を眺めるもよし。荷物検査をおこなっている光景を眺めるもよし。飛行機が次々と飛び立っていく姿を眺めるもよし、であった。
それにしても。今飛び立っていった飛行機の急上昇に驚く。外から眺めると恐ろしいほどの上昇角度。かつての私は自衛隊の航空祭にいく趣味があったからよくわかるが、戦闘機ならいざ知らず、ジャンボ機があの角度で上昇されてはたまったものではない。ジャンボ機の60度上昇は、戦闘機の80度上昇並みに、ある意味で迫力があった。
機中の人となる。窓際。今回は座席位置も考えて後ろの方を確保。おかげで翼にじゃまされることなく展望を楽しめそうな位置取り。7時予定ではあれども実際に動き始めたのが7時5分。飛行機の時間は比較的ルーズで、鉄道ほどの厳格さはない。ただ7時発、8時30分着というタイムスケジュールはあまり当てにはならない。だから私は九州での活動開始時間は9時から19時までの10時間を予定している。
さきほど何度もみせつけられた急上昇を改めて体験する。自然摂理上、このようなものが飛び立つというのが今ひとつ信じられない私は、現実には矛盾の体験をしつつ九州まで1時間20分のフライトを楽しむ。現代文明の象徴たる飛行機という物体に乗って、古代文明の産物である神社という象徴に接するために。
東京は曇っていた。飛行機は雲の中を一気に駆け抜け、雲の上にでる。眼下に雲が広がり、ばかばかしいほどの青空が広がる。私は青空がすきらしい。
今まさに、目の前に広がる青空。たいした空をみてきたわけではないが、私が経験した空の中では抜群の自己主張をしていた。こんなに強い青空をかつてみたことはなかった。
おもわず、カメラをかまえる。
そんな俗なことはしたくはなかったが、飛行機のなかから、外を写す。不思議な感覚。そんな空をながめつつ、確実に九州にむかっていった。
青い空 |
空の旅 |
瀬戸内海を飛ぶ。確実に瀬戸内海とわかる光景。飛行機はこの時点で確実に着陸の準備をしはじめる。この距離感覚の短さはどうであろう。ついさっきまで、関東にいた私の感覚は、この速さについてこれなかった。
だいたいの地図は頭の中にいれてある。飛行機は玄界灘方向から福岡空港にむけて着陸態勢をとりはじめる。下に見えるのは志賀島だろうか。狭い細い回廊に結ばれた陸地と、確実に島とわかる能古島がみえる。いけるかわからない(結局は行くことが不可能であった)志賀海神社に上空から敬意を表しつつ。飛行機は恐ろしいほどの着陸飛行で。みごとに滑走路を駆け抜ける。さきほども書いたが、やはり着陸は「三点着陸」でなくては美しくない。なんだかんだといっても着陸時の恐怖心があるだけなのだが。
なれないようで、比較的スムーズに空港から地下鉄へと乗り換え。博多の街は交通が便利であった。さすがに都市の中の空港。地下鉄は「一日乗り放題切符」を購入。ただ、この切符を使いこなすかどうかはわからないが。
惰性的に乗り換えをして、博多の駅から鹿児島本線にて「東郷駅」をめざす。たまたまホームにいた電車が3分遅れの出発だとかで、たまたま私が乗り込む。今回はダイヤ的な時間的拘束は特になかった。それこそ、気の赴くままに。
ただただ眠かった。さすがに徹夜にて始発電車に乗り込み、飛行機に飛び乗り、そして九州の地で鉄道に揺られていると、感覚的な奇妙さとともに眠気が増幅する。気がついたらそろそろ降りる駅らしい。この間、記憶なし。あらかじめ到着時間付近に設定しておいた目覚ましにてあわてて飛び起きる。
「東郷駅」という駅も普通にありふれた駅。ただ「宗像大社」最寄り駅として、精一杯のアピールはしていた。駅前からバスに乗ろうかな、と思案するも、間が悪くちょうどよいバスがない。ここでしばらくバスを待てばくるのだろうけど、九州最初の目的地から待たされるのも気が重い。精神的にも余裕があったので、タクシーなんぞに乗り込んでみる。「宗像大社までお願いします」と。私にしては飛行機に乗るよりもタクシーに乗る方が、遙かなる冒険のようであった。
あっという間に「宗像大社」到着。9時45分だった。ただ、いまいち実感がわかないのは行動が迅速すぎたからだろうか。私の神社巡りスタイルは鈍行+バス+徒歩だから。それが飛行機+鈍行+タクシーではいまいち。なにやら未だ武蔵にいるような感覚で筑前にたつ。
実感がわかないもう一つの理由。宗像大社に圧倒されすぎた。まだ神社はみていない。入り口の鳥居もそんなにおおきいわけではなく、参道も境内もまだみていない。わかることは駐車場とその駐車場の目の前にドンッと構えた拝殿風の建物。パッとみで車祓(=祈願殿)のようであることはわかるが、規模が大きすぎた。その建物まで歩くことすら億劫であった。
「宗像大社(辺津宮)」(官幣大社・延喜式内名神大社)
<朱印・福岡県宗像市田島鎮座>
祭神
田心姫神(たごりひめのかみ・沖津宮)
湍津姫神(たぎつひめのかみ・中津宮)
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ・辺津宮)
天照大神と須佐之男神の誓約によりうまれた御子神。宗像三神。
由緒
祭神は天照大神と須佐之男神の誓約によりうまれた三姫神。神社由緒では天照大神の御子神という位置づけ。
沖津宮(田心姫神)・中津宮(湍津姫神)・辺津宮(市杵島姫神)にそれぞれがお祀りされており、この三宮を総称して宗像大社と呼称。
宗像三神は天照大神の神勅により道中(宗像−朝鮮半島海路)の「道主貴(みちぬしのむち・「最高の道の神」の意)」として天孫を助け、天孫によって祭祀をうけるべき神々として伝えられている。
当社の創建はあきらかではないが、古事記にすでに記載され、さらには沖ノ島に四世紀から十世紀までの祭祀神宝が出土しており、創祀祭祀のふるさを感じさせるとともに、遣唐使廃止(894)と沖津宮の祭祀神宝の最終期がほぼ一致することから、宗像宮が鎮護国家・大陸交流の拠点として国家祭祀をうけていたことを物語っている。
昭和二十九年から三次にわたっておこなわれた学術調査にて沖ノ島沖津宮の発掘調査によって四世紀から十世紀までの500年間にわたる祭祀神宝十二万点が出土。皇室・国家の崇敬を感じられる。十二万点にもおよぶ神宝は国宝・重文に指定され、沖ノ島は「海の正倉院」とも呼称され古代祭祀を物語る上で極めて貴重な存在となっている。
宗像大社は大陸との玄関口として、国家規模で重要視されてきた。神功皇后の征韓に対しては神威を発揚し、雄略天皇も新羅外交に際して勅使を派遣している。天武天皇の頃には宗像氏の宗像徳善の娘である尼子娘(あまこのいらつめ)が後宮にはいり、高市皇子を生んでいる。また宗像氏にも皇族が降嫁されるなど、皇室と深い縁故があった。
平安期には延喜式の名神大社に列格。鎌倉期には元寇の戦でも奮戦し、宗像氏は武家的な色を濃く鎌倉御家人でありつつ神職でもあるという家柄となる。
室町期には中国側から勢力を拡げる大内氏や毛利氏と九州側の大友氏などとの接触点として争乱となるが、宗像氏貞大宮司の活躍により領地を全うする。
天正六年(1576)に宗像氏貞が辺津宮本殿を再建造営。拝殿は天正十八年(1590)に筑前を領有した毛利支族の小早川隆景が再建。
明治四年に国幣中社、明治十八年に官幣中社、そして明治三十四年に官幣大社に列格。日露戦争時の明治三十八年には連合艦隊司令長官東郷平八郎が宗像の神助を得て、沖ノ島付近の海域にて露国バルチック艦隊を撃滅している。
昭和50年に伊勢神宮別宮である伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮の古材でもって辺津宮第二宮・第三宮を造営。昭和55年に沖津宮神宝をはじめとする文化財を収蔵する神宝館を建設。昭和58年に靖国神社社務所を移築させ儀式殿を造営。
<参考>神社由緒書・神社辞典・神まうで・他
宗像大社祈願殿 |
祈願殿脇の入口 |
境内 |
神門 |
神木「楢」樹齡550年 |
宗像大社辺津宮拝殿(切妻妻入造)
天正18年(1590)小早川隆景による再建 |
宗像大社辺津宮本殿(五間社流造)
天正6年(1590)大宮司宗像氏貞による再建 |
本殿
全国の宗像社6400余社の総本社 |
境内末社
宗像神領の75末社、108神を祀る |
高宮祭場
宗像大神ご降臨の地。古代祭祀の姿を今に伝える |
|
|
第二宮 |
三枚。宗像辺津宮第二宮・第三宮
「ていにぐう」「ていさんぐう」と読む
それぞれ中津宮・奥津宮の御分霊をまつる。
伊勢神宮別宮の伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮の古材を使用。
雰囲気も伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮
|
祈願殿に圧倒されてしまったが、気を取り直して鳥居から参道へ歩む。参道から心地よい庭園に誘われ、さらに宗像らしさを存分に漂わせる手水舎がある。この剛毅さは手水石の規模の大きさ。さらにはこの石をスケッチしている人までいる。そんな様相をみせつけられてしまっては、所見の私であってもおもわず圧倒されてしまう。
神門のさきに窮屈そうな拝殿がみえる。もっとも窮屈な訳ではなく、足を踏み出せば奥行きも感じられ、両脇の新鮮な広がりと空の青さに囲まれる。ところが、神門の脇、すなわち札所が賑やかであった。なにやら巫女さんが4〜5名常駐。賑々しく明るい空間を醸し出す。そこにて「朱印帳はありますか」と尋ねるも、ここには置いていないとの返答。例の駐車場前の社殿にて取り扱っているとのこと。軽く拝殿と本殿と摂社群を見聞する。摂社群は本殿脇に整然と並んでいる。驚嘆をあげたいぐらいに整然と並んでいる姿を拝見すると摂社といえども邪険には扱えない。
摂社群の脇に小さな道が分岐しており、第二宮・第三宮・高宮祭場に連なっているらしい。ところが徒歩5分などとかかれていると、ずいぶんと奥地にいくはめとなりそうで、心残りが募る。
どうやら先に駐車場まで戻って朱印帳をいただかなくてはいけないようであった。
朱印帳をいただこうと思うも、残念ながらオリジナル朱印帳ではなく、汎用型。これならわざわざ買う必要もなさそうなので、持参の朱印帳にていただく。ここの巫女さんが微妙にアニメ声で私の耳をくすぐりまくってくれた。余事ながら。
再び、拝殿本殿までもどり、さらに奥を目指す。帰りのバスの時間は確認してあるので多少の余裕ならあった。私としては一応「神宝殿」も見学する腹づもり。誰もいないのは予想済みだが、しばらくは人の歩いた気配もないような参道。なぜなら普通に歩いているだけなのに、顔に蜘蛛の糸がひっかかる。そろりそろりと蜘蛛の糸を警戒しつつ歩みを進める。高宮は宗像の神がご降臨された聖域。柏手を打ち拝するも、あっというまにすることがなくなる。ぼんやりと聖域を眺めつつ、来た道を引き返す。
第二宮・第三宮は、まるで伊勢神宮別宮であった。すくなくとも私の心は直感的に懐かしさにつつまれた。まったくおなじ造りで、まったく同じ気配を漂わせ、そしてまったく同じように二宮がならんでいるのだから。そして私は過去の経験上、よくわかっている。この並列している二宮は、微妙に写真が撮りにくいことを。
第二宮・第三宮をあとにして、神宝館まで戻ってくる。ちょうど宗像の神宝館では特別展示「沖ノ島大国宝展」をおこなっており、普段は目にできない「宗像沖ノ島沖津宮」に関する発掘品や祭祀神宝などを展示している。ここは「海の正倉院」ともよばれる宝物の宝庫。国宝・重文が大量にある。沖ノ島の出土品12万といい、それらが総じて国宝・重文なのだから、それこそ一日みていても飽きないほどの重厚な歴史に接することが出来る。ただ、私は帰りのバスの時間を気にする身。さらには今日中に出来る限りの神社を訪問して東京に帰る身。かなり駆け足だけれども、神宝の数々を堪能する。さらには「目録」も購入。宗像にかんして当分縁がなさそうなので大奮発であった。
一日中居たいのだが、11時ごろに宗像をあとにして帰りのバスに乗り込む。東郷駅から福間駅に向かう。私の当初の予定では計画にはなかった「宮地嶽神社」にいきたくなった。計画からは外していたが下調べはしてあった。さらには神宝館で宗像の神宝に接し、宗像の摂社でもあった宮地嶽の気配も感じると、もう行きたくてウズウズしてくる。ゆえに予定にいれていた「志賀海」をすてて「宮地嶽」にむかう。
福間駅からのバスはドンピシャリでやってくる。11時45分に宮地嶽神社前に到着。みるからに神が宿りそうな山がみえる。もうこれだけで来て良かったなと感じる私の単純さ。この景色と気配ですでに楽しくて仕方がない。参道を歩む私の足どりも軽かった。
「宮地嶽神社」(県社)
<朱印・福岡県宗像郡津屋崎町宮司鎮座>
祭神
息長足比売命(神功皇后)
勝村大神・勝頼大神(神功皇后の随従)
三柱をあわせて「宮地嶽三柱大神」と呼称
神社由緒では上記三神であるが、宗像三神という説もある。
由緒
創建は約1600年前(西暦400年頃?)という。宮地嶽神社の総本社。神功皇后が渡韓の祭にこの地に滞在し、宮地嶽山頂より大海原を臨み、祭壇を設けて天神地祇を祀り、航海安全と戦勝祈願をされてから船出したと伝えられている。以来、この地を「宮地」と呼び、この山を「宮地嶽」と称するようになった。
開運・厄除けの神として参詣者が多く、関西以西では最大とも称せられている。
宮地嶽神社奥院(不動神社)にある宮地嶽古墳は34メートルの円墳。享保元年(1741)に宮地嶽に山崩れがありはじめて口をひらいた。内部に日本最大級の長大な横穴式石室をもつ。創立年代は7世紀といわれ、一説には宗像の胸形君徳善(天武帝妃であった尼子娘の父)の墓ともされている。出土した副葬品は国宝に指定されている。一名を「地下の正倉院」とも呼称。
発掘後に不動神社をまつって奥院としている。
宮地嶽神社には三つの日本一がある。すなわち直径2.5メートル、長さ13.5メートル、重さ5トンの大注連縄。重さ1トンの牛皮一枚でっつくられた大太鼓。直径1.8メートル、重さ450キロの大鈴。
<参考>神社由緒書
海を臨む一の鳥居 |
宮地嶽神社入り口 |
正面 |
美しい山並み・宮地嶽 |
楼門 |
楼門 |
拝殿と注連縄 |
本殿 |
|
左:不動神社
古墳前に鎮座。この奥が石室となっている。 |
??合掌造りですか(笑) |
祓池 |
宮地嶽の山姿に惚れつつ、参道を歩む。気が付いたこと。やけに鳥居がおおかった。さすがに稲荷ほどではないが、それでも普通の神社に比べれば鳥居をくぐる回数が多い様な気がする。
境内はかなり広めでアップダウンがある。それこそ「山」自体が神域ではあるが、さすがに私もこの山を登る元気も時間的ゆとりもない。
楼門をぬけると、日本一の大注連縄とともに社殿が私をむかえてくれる。社殿に拝して、そして意外にも巫女さんが常駐していた札所にて朱印を授かる。県社で在れど、なかなか盛況な神社である気配。ただ、私が詣でたときはそんなに参詣者が多くなく、神社らしいまったり感が全体を包んでいた。
社殿からさらに奥に進む。さらに増え続ける鳥居を抜け、古墳のある不動神社に到着。もっとも古墳内部を神社でふさいであるので、中がみえるわけではない。円墳の気配を感じ、さらに後方に控える宮地嶽の優雅さをながめる。宮地嶽には「山頂古宮跡」があるも、さすがに山頂までは無理。
この神社の隣にはなぜか合掌造りがある。おなじみに飛騨の雪国風景を連想させるあの合掌造り。
「民家村自然広苑」として貴重な民家が移築されていた。「合掌造り民家」「くど造り民家」「二棟造り民家」「鉤屋造り民家」「高床式平柱小屋」が保存されている。ことのついでだからながめてあるく。違和感がありまくりで苦笑しながらだが、それがなにか愉快でしかたがなかった。
12時45分過ぎ。わざわざ海際まで宮地嶽神社の鳥居を見物しにいって、疲れた身体を無人駅に横たえる。神社から700メートルほど歩くと西鉄宮地岳駅。そしてそこから700メートルほど歩くと海だった。海は夏の盛りをすぎており、涼しげに風が吹き抜けるだけ。
私はローカルを堪能しつつ、香椎宮へと電車に身をまかせる。
参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
神まうで・昭和14年・鐵道省
郷土資料事典 40 福岡県 人文社
前に戻る
「その2 香椎筥崎へ」
|