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「筑前の古社巡り その2・香椎筥崎編」
<平成15年9月参拝・平成15年9月記>

その1・宗像宮地嶽編:「筑前へ」「宗像大社」「宮地嶽神社」
その2・香椎筥崎編:「香椎へ」「香椎宮」「筥崎宮
その3・住吉櫛田編:「住吉神社」「櫛田神社」


「香椎へ」
西鉄宮地岳線。
昼下がりのポカポカ陽気の中でまどろむ気配。眠くなる車内。
入線してきた車両のひなびた姿に感激し、ひさしぶりのローカル線に心おどるも、さすがに眠気には勝てなかった。
のこされた理性で、降りる時間をタイマーにセットして、右に左に揺られつつ、うつらうつらする。

西鉄
西鉄宮地岳線

気がついたら西鉄香椎宮前駅。
電車から降りる心地でもないが、目的駅なので嫌々降りる。西鉄香椎宮前駅からJR鹿児島本線の線路をまたぎ、すぐさま「官幣大社 香椎宮」の社号標を拝見し、さわやかにまぶしい光につつまれた大参道(=勅使道)を歩む。ここから駅までは、およそ1キロの距離。香椎の頓宮が目につくが、帰りに寄ろうかと思う。この勅使道は「神の道」。神幸式にのみ使用した道であったが、大正11年に整備されて現在に至る。
神域が近づく。静かでおごそかな香椎宮は、その前身が「廟」であったからだろうか。自然と気を引き締めていた。


「香椎宮」(官幣大社)
朱印・福岡県福岡市東区香椎鎮座>

祭神
仲哀天皇・神功皇后
配祀
応神天皇・住吉大神

由緒
仲哀天皇8年。筑紫の橿日宮に坐し、天下を治め国内統治のお志なかばにして御崩御。神功皇后は御遺志を継がれ、国内を平定。さらには三韓に遠征なされ、倭国に明確な王権を確立させた。
香椎宮は仲哀天皇9年(200)に神功皇后が祠(現在の古宮)を建て仲哀天皇の神霊を祀ったことに始まる。
元正天皇の養老7年(723)に神功皇后の神託によって神功皇后の社殿が造営され、聖武天皇神亀元年(724)に竣工し、両宮を併せて香椎廟と称した。日本四宗廟の一つで、西日本随一。

現在の社殿は日本唯一の香椎造り、国重要文化財。享和元年(1801)に筑前藩主黒田長順の再建。幣殿は明治36年に再建。

香椎
勅使道
香椎
境内入口
香椎
明治36年再建の楼門
香椎
御神木「綾杉」
香椎
中門
香椎
拝殿
香椎
日本唯一の香椎造りの本殿は国重要文化財。
享和元年(1801)に筑前藩主黒田長順の再建。
香椎
拝殿及び幣殿
香椎
御召艦摂津の砲身が奉納されていた。
香椎
摂社・武内神社
香椎 左:古宮
仲哀天皇の橿日宮跡。香椎宮創建の地。
ここは棺掛椎
香椎 左:頓宮
頓宮から本宮までの一キロを勅使道が結ぶ。

久しぶりに感じる意なる気配、すなわち神木という名にふさわしい堂々とした神木「綾杉」に接する。綾杉という名に誉れを感じる。さらに神木の奥には、香椎らしいというのも変だが、香椎というイメージ通りの神門の先に社殿がある。神門から拝殿までは距離がほとんどなく拝するにはよくても写真的にはかなり窮屈。その奥には香椎造りとよばれる独特の本殿が垣間見られるが、壁に取り囲まれている。

脇に札所があり、そこには理想型に近いかわいらしい巫女さんがぽつんと暑い中に座っていた。私はいつもどおりに、本心では「絶対にここでは貰えない」とわかっているのだが、まあ本心では巫女さんとの会話を楽しむために「こちらで朱印は貰えますか」と尋ねるも、予想通りに「社務所でお願いいたします」的な返答。もっとも確信犯な私は、それでも充分に満足。めんどくさいけど、楼門脇にあった社務所まで戻って朱印をいただく。

朱印を待っている間に、香椎宮の飛び地に足を伸ばす。飛び地というのも変な話ではあるが、実際に敷地が連続していないので致し方がない。いわゆる奥社的な位置取りに「古宮」がある。そして「香椎廟跡」、さらには神水「不老水」にも足を伸ばす。あまり時間的ゆとりはないのだが、朱印に時間がかかりそうなので、時間つぶしともいう。お時間頂きますという朱印を窓口で待っていては、書く方としても圧迫されるだろう。朱印をもらうときの一例としては、朱印の受付をすまして朱印帳を預け、書いてもらう間に参拝をして、戻ってきて朱印を頂戴するというのが、一番よいのだろう。

さて香椎から道を戻る。JR香椎線では本数が心配だし、箱崎宮に向かうのにやはりJRでは裏参道からとなってしまうのが面白くないので、西鉄宮地岳線の香椎宮前駅まで戻る。途中の頓宮を経由しつつ。

宮地岳線はある意味で路線が独立している。つまり西鉄本線とは線路がつながっておらず、連絡しているのが「福岡市営地下鉄箱崎線」。でも電車は乗り入れしておらず、貝塚駅にて乗り換えを必ず挟む。めんどくさいけど、乗り換えをして市営地下鉄の箱崎宮前駅まで向かう。

地下鉄から地上にあがると、目の前が参道であった。右手には社殿が見える。そして左手には鳥居がみえる。ここで私は迷ってしまう。鳥居はやはりはじめからみておきたい、ということに。そして私は左にあるく。なにやら社殿の反対に歩くのもばかばかしいが、致し方がない。600メートルほど歩くと海にぶち当たる。つまり箱崎宮は海からまっすぐに参道が延びているのだ。そして私は海から順々に参道を歩いて、1キロほどはなれた社殿に向かって歩く。ちょっとばかり歩く距離を無駄に増やしてしまったことに後悔しながらも。毎度のこと。
参道には所々に「猫を捨てないでください」という張り紙がある。どうやら捨て猫が多いらしい。そう思っていると、たしかに目の前に猫がいるし、箱崎宮境内にも猫がいた。いまいち猫はイメージ的に結びつかないが。


「筥崎宮」(官幣大社・筥崎八幡宮・式内名神大社)
朱印・福岡県福岡市東区箱崎鎮座>

祭神
応神天皇
神功皇后
玉依姫命

由緒
博多湾・玄界灘に面した土地(千代の松原)に鎮座。
応神天皇誕生の際、胞衣を筥におさめて、しるしの松を植えて、標松・筥社とよんだのが始まり。
主祭神として応神天皇を祀り、神功皇后と玉依姫命を配祀する。応神天皇は仲哀天皇の第四子として神功皇后が筑紫遠征中にお生まれになっている。御崩御ののちに縁故深い当地に神社が創建された。
天平宝宇3年(759)に八幡神の神託をうけて創祀したとも、延喜21年(921)に醍醐天皇が神のお告げをうけ、大分別宮より勧進(遷座)し御鎮座は延長元年(923)ともいう。

筑前一の宮。八幡大菩薩。日本三大八幡宮のひとつともされる。(日本三大○○の3つ目が人によって違うのも周知だが。ちなみに宇佐・石清水・鶴岡・筥崎)

敵国降伏の神として香椎宮・住吉神社とともに西海に対して神威を発揮。

本殿・拝殿は天文15年(1546)に大内義隆建立の国重要文化財。
楼門は文禄3年(1594)に小早川隆景が建立。国重要文化財。「敵国降伏」の扁額を掲げており、伏敵門ともいう。
ほかに千利休奉納の石灯籠(天正15・国重文)や黒田長政奉納一の鳥居(慶長14年・1609・国重文)がある。

筥崎
筥崎宮・海岸鳥居
筥崎
堂々たる筥崎鳥居
筥崎
堂々たる灯籠?灯台?
筥崎
参道が直線一キロ近くあります
筥崎
国重文・黒田長政奉納筥崎一の鳥居
筥崎では社殿側が一の鳥居なのだ。
筥崎
国重文・小早川隆景奉納楼門
筥崎
楼門
筥崎
敵国降伏の扁額
筥崎
国重文・大内義隆奉納の社殿
筥崎
御神木・筥松

箱崎宮は楼門が有名。「敵国降伏」の扁額がかかげられた楼門がいわば拝する場所。通常の参拝者はその先に歩みを進めることもできず、当然私も楼門から箱崎の本殿を望みつつ拝す。なんとなく物足りないけど、楼門を見上げるだけでも、ここにきた目的は達せられた、気がする。

札所でいつものどとく巫女さんに「朱印いただけますか」的やりとりを行う。今回はここで頂けるようで「しょうしょうお待ちください」とされる。お待ちの間に神木を見物。神木には大きな願掛けの絵馬が掲げられている。
「福岡ナンタラ(失念)」のサッカーチームと「福岡ダイエーホークス」の優勝祈願絵馬。私は埼玉県民ゆえに、西武ライオンズのファンではあるが、まあパリーグファンとしてダイエーは好敵手。今年はみごとにダイエーが日本一だが。
まあ、そんなことだ。
絵馬には選手各人のサインが記載されている。
まあ、そんなところだ。

箱崎宮としての境内は予想よりも小さかった。参道は大きく、猫も多いが、境内はそれこそ社殿と楼門が、中央部にドンと配置され、海際ということもあって平坦で起伏もない。
裏参道を歩くとすぐにJR鹿児島本線の線路が目にはいるが、高架工事の真っ最中で、困ったことにJR箱崎宮駅は移転して神社側からすると遠くなってしまった。



参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
神まうで・昭和14年・鐵道省
郷土資料事典 40 福岡県 人文社


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その3 住吉櫛田へ

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