「郷土の鎮守様〜千代田区北部周辺の神社散歩」
<平成22年4月参拝記載>
千代田区
「三崎稲荷神社」「五十稲荷神社」「太田姫稲荷神社」「幸徳稲荷神社」
「真徳稲荷神社」「佐竹稲荷神社」「御宿稲荷神社」「亀住稲荷神社」
中央区
「白幡稲荷神社」
台東区
「境稲荷神社」「七倉稲荷神社」
千代田区の神社地図 / 中央区の神社地図 / 台東区の神社地図
職場の最寄駅は根津駅。
土曜日の出勤があるときは午前11時から業務のため、比較的余裕がある。
ある土曜日に千代田区界隈を少々散歩。
有名なところではなく、行ったことがない小社を中心に、ちょこちょこと。
「三崎稲荷神社」 (千代田区三崎町鎮座)
御祭神:宇迦御魂神・素盞嗚神・大市姫神・大物主神
最初の鎮座地は現本郷1丁目(当時の神田山(現、駿河台)の山麓)の丘陵海浜の地。
寿永元年(1182)に武蔵国豊島郷三崎村総鎮守として創建。
慶長8年(1603)2月、徳川家康公による潮入地埋立工事のため当社を西三丁に遷座。
万治2年(1659)江戸城外濠神田川筋の掘割工事のため、社殿を東南の現三崎町2丁目北部に遷座。
万延元年(1860)幕府講武所開設のため、旧水道橋西ぎわに遷座。
明治38年(1905)に甲武鉄道(JR中央線)が万世橋まで延伸されたことに伴い、現在地に遷座。
昭和20年(1945)4月、戦災により神輿・神輿殿以外を焼失。
昭和38年(1963)社殿再建。
午前8時。まずは到着したのが「三崎稲荷神社」。水道橋駅のすぐ近く。東口をでた駅南側。神社の境内は細い。社務所が1階にはいった細長いビルと、東京歯科大水道橋病院に挟まれる格好。社殿後方は吹き抜けになっているので三方を高いビルに囲まれていないのが救いか。
社殿は西面している。東の白山通りにちょうど本殿の背中を向けた感じで鎮座。
おそらくは社務所で御朱印が貰えそうではあれ、朝早いので遠慮しておく。朝の参拝だと御朱印がもらえないのは致し方がないが、まあ欲しければまた来ればよい。
「五十稲荷神社」 (神田小川町鎮座・旧村社)
(ごとお稲荷神社)
御祭神:倉稲魂命
創建年代は不詳。慶長年間(1596−1615)に現在地に遷座。
正徳年間(1750ごろ)に栃木県足利の戸田長門守が当地を拝領。屋敷を構えるにあたって当社地も戸田家邸内に入り、当地鎮守として奉祀。あわせて戸田氏の領地である足利市雪輪町旧御陣屋大門に奉斎されていた稲荷大神(現 雪輪町稲荷神社)を合祀し「永寿稲荷大明神」として崇敬。
当社は古来より「五十稲荷」と別称されてきた。
戸田領足利で織物市が五と十のつく日に開かれるのが慣わしであり、江戸戸田邸でもその繁栄を祈願するために毎月の祭事を五と十のつく日に執り行い、月々の祭日と二月初午祭には門戸を開放し庶民の参詣を許したとされる。
明治期には廃藩置県制度によって大名屋敷が町屋となり戸田邸内の当社の祭祀は崇敬者によって継承。一年を通して毎月「五」「十」には縁日もたち「五十様の縁日」として都内でも有名となり、俗称として「五十稲荷神社」と呼ばれるようになった。
明治5年、「稲荷神社」として村社列格。
大正12年(1923)の関東大震災前は現在地のすぐ脇に約200坪の境内地があったが、震災によって社殿焼失。
大震災後の区画整理で昭和3年に現在地に遷座。昭和20年2月25日に空襲によって全焼。
昭和21年に再建。
8時24分到着。
水道橋駅からまっすぐに白山通りを南下。神保町の交差点を靖国通りの小川町方面に歩き、「神保町三井ビルディング」の向かいの道路から路地に入ったところに鎮座。ミズノビルの裏手にあたる。
神保町駅A9出口から東に約400メートルといったところか。
大きなビルの裏手ではあるが、都心の中にちょうど良い空間が残っているような佇まい。
「太田姫稲荷神社」 (千代田区神田駿河台鎮座・旧村社)
御祭神:宇迦之御魂命
菅原道真公・徳川家康公
古社名は「一口稲荷神社(いもあらい稲荷神社)」
創建は長禄元年(1457)。太田道灌築城の江戸城鬼門鎮護。
室町時代、関東一帯に天然痘が大流行し死者の数は幾百とも知れなかった。
関東管領上杉定正の家臣で世に知られる太田資長(道灌)の愛娘も同じ病気にかかってしまった。
大田道灌は八方手を尽くして薬を求め名医を探したが娘の病は日に日に悪化していくばかり。
そんなある日。大田道灌のもとにやってきた友人が言うには「山城国京都東南にある一口(いもあらい)の里にある稲荷に祈願するとどんな重い天然痘でもたちまち平癒してしまう霊験あらたかなる社があるから、使者をたてて祈祷してはいかがであろうか」と言われた。」
そこで太田道灌は使者を遣わし使者が祈願を終えて関東に戻ってくるt、姫の病は快方に向かい月余にしてもとの健やかな体に戻ったという。
喜んだ大田道灌はいよいよもって稲荷社の崇拝を強めた。
数年後に関東管領上杉定正の命によって江戸に城を築くこととなり鬼門除けとして一口稲荷社を城内に勧請したのが長禄元年のことという。
大永4年(1524)に北条氏綱が上杉朝興を破り江戸を攻略し江戸城を広げるに当たって一口神社を城外に遷座。
慶長8年(1606)に徳川家康の江戸城大改築によって江戸城西の丸の鬼門守護に遷座。
大正12年の関東大震災で焼失。御神体のみを湯島天神社へと非難させ、大正14年に仮宮へと奉安。昭和3年に社殿再建。
昭和6年に総武線(御茶ノ水−両国間)開通に伴い社地大半が接収され現在地に遷座移築。戦災難からは逃れ現在に至る。
旧鎮座地は聖橋・御茶ノ水駅付近、淡路坂上。
御茶ノ水駅臨時改札口脇に残された椋の木には元宮を示す木札と神札が貼られている。
なお、鉄道は堀の中にあり、開通時に「天皇家との間に堀幅を減じない」「中で商業を営まない」「環境を守る」との約束があったとされる。
<参考伝承>京都 一口稲荷神社(現存せず)
平安時代の参議・小野篁(802−852)が讒言によって隠岐に流されることとなった折、伯耆国名和港を出港してまもなく海上が荒れ嵐に見舞われてしまった。小野篁は衣冠を正し船のへさきに座して普門品(ふもんぼん=観音経)を唱えていると白髪の老翁が波の上に現れて「君は才職世にたぐいなき人であるから間もなく都に呼び返されるであろう。しかし疱瘡(天然痘)を患うと一命が危ない。われは太田姫の命である。わが像を常にまつれば、この病にかかることはないであろう」とお告げになり姿を消された。
お告げどおりに小野篁は翌年早くも都に呼び戻された。小野篁は自ら翁の像を刻み常に護持していたが、のちに山城国南部の一口(いもあらい)の里に神社をまつったという。
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太田道灌公供養碑 |
太田姫稲荷神社
スタンプ台があり、自分で押すタイプでした |
以下、太田姫稲荷神社元宮(2010/5/13撮影) |
御神木は椋の木 |
椋の木に「元宮」とあり、太田姫稲荷神社の神札が下がる |
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8時30分到着。
御茶ノ水駅・神保町駅・小川駅町のちょうど中間に位置している。
御茶ノ水駅から南に約400メートル、神保町駅から東に約400メートル、小川町駅から北西に約300メートル。
社殿は東面している。鎮座地はちょうど空間が開けており、ビルに囲まれた中を歩いてきた身としては、安心感のある空間となる。
太田姫といわれると「大田道灌の姫」をまつっているのかな、と思いがちだがどうやら違うらしい。
太田道灌の姫を救った稲荷様を祭っている、とのこと。由緒を調べるまではなにも知らなかったので、こうやって雑学としてでも教養が増えるのはうれしい事だ。
この界隈では目印としてもわかりやすいらしく、ちょうど社殿前の交差点でも大学生と思われるグループが集合をかけていた。
ちょっとしたことではあるが地域に浸透している姿を感じ取れてほほえましいものだ。
「幸徳稲荷神社」 (千代田区小川町鎮座・単一神社)
江戸期に山城国淀城主(十万二千石)であった稲葉丹後守(徳川家光の乳母春日局の後裔)の江戸小川町中屋敷内に祀られていたものとされ、「鍛冶屋稲荷」と称されていた。
明治維新後は、改めて町内の守護神として伏見稲荷神社より勧請。
昭和21年、小川町北部町会が解散し現在の4つの町会(小川町北部1丁目町会・北部2丁目町会・北部3丁目町会・3丁目西町会)に分離した際に、幸徳稲荷神社奉信会を結成し現在に至る。昭和43年に宗教法人化。
毎年の節分祭には神田神社より神職を招き節分祭を催行。また神田神社大祭にあわせて隔年にて神輿の町内巡業と神田神社への宮入参拝を行っている。
8時40分到着。
太田姫稲荷神社より南東に約200メートル。小川町駅より北西に約100メートルの地に鎮座。
事前調査では神社庁に属していない単一神社と明記があったので、どんなところだろと不安に思っていたら、ビルの二階にこじんまりと鎮座していた。きちんと由緒も記載されており、町内会が維持してきたというエピソードを持っていた。
単一だという先入観はいけませんね。
「真徳稲荷神社」 (千代田区神田司町鎮座)
御祭神:宇迦御魂神
往古は神田三河町2丁目に鎮座。同町居住の人々の守護神として奉斎。
明治6年に神田神社兼務社となる。
昭和20年3月9日戦災によって焼失。昭和24年に地元崇敬者の寄進によって再建。
8時50分。
上記の神保町エリアから神田方面に移動。
小川町駅からつながっている淡路町駅の南側約250メートルの地に鎮座。社殿は南面。
神田児童公園の北側の路地に鎮座。路地の東側は千代田小学校がある。
事前調査では所在地が不明であったが、足を運んでみて場所を特定。googleマップでも記載がないところは最終的には現地確認が必要なのだ。
「佐竹稲荷神社」 (千代田区内神田鎮座)
御祭神:宇迦御魂神
江戸に藩邸を構えた佐竹家(出羽秋田二十万石)が鬼門除けのために寛永12年(1635)に邸内の丑寅の一隅に稲荷神を勧請したことにはじまる。
その後、天和2年(1682)の大火によって佐竹藩邸は下谷三味線掘に移ったが稲荷神社は町人地となった跡地に再建され江戸市民の信仰をあつめた。
大正12年の関東大震災によって社殿は焼失し、区画整備後に現在地に遷座し再建するも昭和20年の大空襲によって再び焼失。
昭和26年に仮宮が造営され昭和30年に社殿竣工。
昭和51年鳥居玉垣等を改修し現在に至る。
当社は旭町の鎮守。旭町は昭和41年に内神田1丁目・2丁目の一部となり地図からは消失するも町会の名前として存続。
明治2年に町が施行されるに当たって当地が佐竹氏藩邸江戸上屋敷だったという縁から「佐竹氏の家紋」から「旭町」としたとされている。
もっとも佐竹氏の紋が「五本骨の扇に月」であることを月を日輪と誤認したために「旭」らしいが。
佐竹氏の家紋の由来。
文治5年(1189)、源頼朝は奥州藤原泰衡を討伐するために平泉に出陣。そのとき常陸国佐竹郷の武士だった佐竹秀義は宇都宮で頼朝軍に合流するが、佐竹勢の旗が頼朝の白旗と同じであったため頼朝は白旗を見たがめ、識別のために満月が描かれた自身の旗を佐竹秀義に与えて旗の上につけさせたことから佐竹家の家紋となったとされている。
境内の樹木が奉納の秋田杉 |
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午前9時。水道橋の三崎稲荷神社からスタートして1時間経過。
水道橋−神保町−小川町ときて神田界隈に到着。
上記の真徳稲荷神社からは南東に約300メートル。神田駅西口商店街に中に鎮座しており、それこそ神田駅からは約100メートル西側に鎮座。
もともと佐竹藩邸でまつっていた稲荷に由来。
境内の脇に小さな秋田スギが奉納されており、それが唯一の境内樹木。むしろ神田駅前商店街の小さな空間に樹木があることのほうが奇跡かもしれない。社殿は後方で社務所と一体化してしまっており、なにやら不思議な建造物と化しているのも面白い光景。
これは中はどうなっているのでしょうか?
「白幡稲荷神社」 (中央区日本橋本石町鎮座)
御祭神:宇迦御魂神
創建年代は不詳。
源義家が奥州下向の祭に稲荷社を勧請したと伝承。
明治6年、神田神社兼務社となる。
9時10分。千代田区ではなく中央区。近くだから足を運んでみた。
佐竹稲荷神社の250メートル南東。神田駅からは約150メートル南東。JR高架の東側に鎮座。社殿は南面。
鎮座地のすぐ南側には常盤小学校がある。
やはりビルに囲まれた空間。社殿後方には社務所があるがそれもビルといった感じ。
「御宿稲荷神社」 (千代田区内神田鎮座)
御祭神:宇迦御魂神
神田三河町鎮座。
徳川家康公が関東移封の際に武蔵国豊島郡神田村の郷士の家に投宿され、その庭に宇迦御魂神を祀る神祠があった。のちに幕府より家康公の歩まれた足跡の記念のために社地を寄進されたため御宿稲荷大神として崇敬。
徳川家康公が江戸入城の際、当地に三河国より移住するもの多かったために三河町と称された。
大正12年の関東大震災で社殿焼失。昭和初年に再建するも昭和20年3月10日に戦災焼失。のち再建。
9時20分。再び千代田区へ。
上記の白旗稲荷神社からは西に約400メートル。佐竹稲荷神社からは約300メートル南西。鎌倉橋交差点の北西に鎮座。社殿は北面している。
こちらもビルの一角にスペースが設けられた感じで鎮座。社殿自体は蔵といったほうが良いような気配。
由緒を知らないと、どうしてここにあるのだろうと首を傾げてもおかしくないような雰囲気でもあった。
「亀住稲荷神社」 (千代田区外神田鎮座)
御祭神:大年神・倉稲魂命
創建年代は不詳。明治8年5月に町内共有神社の許可を得る。
明治31年1月3日、火災にあい再建
大正12年9月3日、関東大震災により焼失
昭和7年に社殿再建
昭和20年3月10日、東京大空襲により社殿焼失
昭和20年10月22日、社殿造営
昭和58年、拝殿新築。
9時45分。神田エリアから北上。
柳森神社や神田神社はなんどか行っているのでスルーして御徒町の西側へ。
末広町駅(秋葉原エリアの北端)から約300メートル北、御徒町駅・上野広小路駅からは約250メートル南に鎮座している。社殿は北面。
上野御徒町界隈の細かい建物が多い中でひっそりとたたずんでいる様相。下手をしたら見逃してしまいそうなそんな区画に鎮座していた。
「境稲荷神社」 (台東区池之端鎮座)
御祭神:倉稲魂命
文明年間(1469−1486)に室町幕府九代将軍・足利義尚公によって創始されたとされる。
社名の由来は「忍ヶ岡(上野台地)」「向ヶ岡(本郷台地)」の境に鎮座することに由来。両村の総鎮守。
寛永3年(1750)に岡上の松平邸より出火した火災により社殿をはじめ義尚公自筆の扁額や古記録ともどもに焼失し、別当慈海によって再建。
明治28年に湯島切通坂鎮座の宝剣稲荷を合祀。
昭和20年3月に戦災によって社殿焼失。本郷の本多子爵邸の祠を移して仮社殿としていた。
現在の社殿は平成5年の造営。
境内本殿裏手には「弁慶鏡ヶ井戸」がある。
源義経と弁慶が奥州に向かう途中に弁慶が見つけた井戸とされ一行の喉を潤したとされている。江戸期には名水として知られていたが、いったん埋め戻しされており昭和15年に再び掘り出されている。また、その際に造営された井戸脇の記念碑には造立者として当地に住んでいた横山大観の名前もある。
10時15分。
更にエリアは北上して上野公園不忍池の西側。湯島天神の台地を脇にしつつ歩いていけば、東大病院と不忍池の境目に鎮座している。神社が東大に沿うように南面して鎮座。社地後方は東大の池之端門となっている。関東ではあまり見かけない拝殿というか拝所のタイプ。本殿の後ろには井戸があり銘水とされる弁慶鏡ヶ井戸。最近ではなかなか見かけない手押しポンプを動かしてみれば良い感じで水も出てきます。都内の水質は変動が激しいようでここの銘水は「飲用禁止」。なんでも「
水質は絶えず変動しており安全とはいえず保健所より『飲用には不適当」との指導を受けている」とのことらしいです。
「七倉稲荷神社」 (台東区池之端鎮座)
御祭神:倉稲魂命
もともとは浅草蔵前に鎮座。
蔵前にあった江戸幕府の七つの米倉の守護神として崇敬され「七ッ蔵稲荷」とも称されていた。
明治維新後に池之端七軒町内に遷座し、明治9年に現在地に遷座。
昭和2年に社殿を改築するも昭和20年3月に戦災により焼失。戦後まもなくは本多子爵邸の邸内社を譲り受けて社殿としていた。
昭和53年に社殿を修理し、平成元年7月に現在の社殿を造営している。
10時30分。スタートから2時間30分たって、本日の最終は「七倉稲荷神社」。
境稲荷神社から約400メートル北上。根津駅からは約150メートル南に鎮座。社殿は東面している。社殿後方には東大の本郷台地がある。
境内はちょうど桜も咲いており、気分良い眺め。
さきほどの境稲荷神社も七倉稲荷神社も台東区の池之端。台東区としてはギリギリの場所に鎮座しているも不忍池にてメインの台東区と切離されており、気分としては文京区なな状態。
実は私の現在の職場はこの神社の近く。そんなわけで土曜日朝の神社散歩はこれにて終了。11時からは仕事になるのだ。
そんわけで・・・仕事なので、背広ですよ。
そうなのだ。このシリーズは背広で神社散歩なのだ。ちなみにこの日は全行程で約9キロ2時間30分のウォーキング・・・。
参考文献等
各神社境内の案内板等
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