信州戸隠五社と生島足島参拝記
〜平成19年9月参拝・平成21年2月記載〜
『戸隠神社』(国幣小社)
奥社・九頭龍社 / 中社 / 火之御子社 /宝光社
『生島足島神社』(国幣中社)
前日に、上越の神社巡りをしていた私は、日本海から南下して長野市内のビジネスホテルに宿泊した。
翌朝、朝一番のバスに乗って戸隠方面に赴く。
バスは長野駅前7時3分発→戸隠奥社着8時12分、1280円であった。
朝一番に戸隠神社奥社に到着して、すがすがしい空気をあびながら約2キロの参道をのんびりと歩く。
『戸隠神社』(旧国幣小社・別表神社・長野市戸隠鎮座 朱印)
戸隠五社
奥社:天手力雄命(あめのたぢからをのみこと)
中社:天八意思兼命(あめのやごころおもいのかねのみこと)
宝光社:天表春命(あめのうわはるのみこと・中社祭神の御子神)
末社 九頭龍社:九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ 岩戸守大神)・一説に天手力雄命荒御魂
摂社 火之御子社:天細女命(あめのうずめのみこと)
戸隠三社:奥社・中社・宝光社
戸隠神社は戸隠山麓に5社から構成されている。
「天の岩戸」が飛来して戸隠山となったという神話時代より発展し「天の岩戸開き神事」に関係する神々を祀っている。
戸隠奥社を本社として伝説としては創建年代は第八代孝元天皇の5年ころ(皇紀207=紀元前453年)といわれている。
記録の上では奥社は任明天皇嘉祥三年(850)、中社は寛治元年(1087)、宝光社は康平元年(1058)。
平安時代は修験道場として栄え、神仏習合時代は「戸隠山顕光寺」と称し「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ比叡山・高野山と肩を並べる「三千坊三山」と言われるほどに繁栄。
奥社は「奥院」「本院」、中社を「中院」「富岡院」、宝光社を「宝光院」「福岡院」と呼称し、戸隠権現と称した。
江戸期には徳川家の保護を受けて「東叡山寛永寺」の末寺となる。
明治期には神仏分離し寺院は切り離され「戸隠神社」として現在に至る。
明治社格では元県社であったが、明治二十三年に国幣小社列格。
戸隠神社公式
『戸隠神社奥社・九頭竜社』
奥社:天手力雄命(あめのたぢからをのみこと)
九頭龍社:九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ 岩戸守大神)・一説に天手力雄命荒御魂
奥社は戸隠神社御本社。
九頭龍社は、天手力雄命が奉斎されるまえの戸隠の地主神を祀る。
奥社入り口 |
参道 |
参道 |
随神門 |
随神門 |
随神門 |
随神門 後方 |
随神門 後方 |
参道 |
参道脇 |
参道脇 |
参道 |
参道 左には 飯綱大明神 |
戸隠 九頭竜社脇 |
御神水 |
奥社 後方もやのなかに戸隠山あり |
戸隠神社奥社 |
戸隠神社九頭竜社 |
8時15分に奥社の入り口に到着。まっすぐに伸びる参道を気持ちよく歩く事約10分で随神門に到着。
木々に囲まれ、朝日差し込む中での随神門は屋根に草が覆いむしており、その姿に時代の趣とともに神々しさを感じずにはいられなかった。
しばらく、門を眺めてそうしてまたゆっくりと歩みをすすめる。
奥社参道の杉並木は江戸時代以来ともいわれ樹齢約400年の並木道。
そうして30分ほど歩くと社殿が見えてくる。
九頭竜社と奥社。午前8時50分頃着。
約2キロの参道といえども距離を気にせずに気持ちよく歩けるのがよかった。
アクセスは不便であれどまた行きたい場所のひとつでもある。
そうしてゆっくりと空間を満喫して、来た道を戻る。8時15分にスタートして10時すぎに戻ってきたようなので、時間にして1時間45分を奥社詣でに費やしたようだ。
「戸隠神社中社」
中社:天八意思兼命(あめのやごころおもいのかねのみこと)
第73代堀河天皇の寛治元年(1087)に現在の奥社より分祀。
戸隠神社 中社 |
参道 |
参道 上から |
御神木 |
社殿 |
御神木と社殿 |
境内 |
社殿 |
御神水 |
社頭の御神木 樹齢約800年 |
10時28分。
奥社からちょうどバスが出るようなので、中社まではバスに乗る事にする。
中宮に到着したのは10時30分。
この距離を歩くと約2キロ20分のようなので、奥社−中社間を歩いても良かったのだが、前日来の神社詣でが続いていたので楽できるところは楽したかったようだ。
御神木の杉の大木が目につく。三本杉と呼ばれる樹齢800年の大木が三角形を描くように林立し、それとは別に本殿前には樹齢700年という杉の大木も直立している。奥社の杉並木も、中社の杉の大木も、神々しく立派なものを感じる。
30分滞在して11時すぎに次の目的地へと。中社からは火之御子社まで徒歩で移動することにする。
「戸隠神社火之御子社」
火之御子社:天細女命(あめのうずめのみこと)
創建は承徳2年(1098)。扱いとしては摂社。
戸隠山が神仏習合期に寺院であった時代にあっても、終始一貫して神社として崇敬されてきた。
境内には有名な西行桜がある。
戸隠神社火之御子社 |
境内 西行桜 |
火之御子社 社殿 |
火之御子社 社殿 |
中社から15分ほど歩いて火之御子社に到着。11時15分頃。
そんなに大きな境内でもなく、人の気配もない静かな神社。境内には有名な西行桜がある。
西行桜。
善光寺詣でをおえて戸隠詣でをしようとしていた西行法師が火之御子社まで来た際に、子供が桜の木に登って西行法師の問いかけに頓知で即答されたことに対して、西行法師は子供にからかいの問いかけをした事を恥ずかしく思い、この桜の木から奥社に赴くのを取りやめて引き返したという。
そんな西行桜をながめつつ、続いて宝光社に向かう事にする。距離にして歩いて約10分といったところ。
「戸隠神社宝光社」
宝光社:天表春命(あめのうわはるのみこと・中社祭神の御子神)
宝光社は康平元年(1058)創建という。奥社に次いでの創建であり、戸隠5社のなかでは2番目に古い由緒を持つ。
戸隠神社宝光社 |
鳥居 |
参道 |
参道 |
宝光社社殿 |
宝光社社殿 |
宝光社社殿 正面 |
境内 |
11時30分。宝光社到着。社殿は神仏習合時代をよく残しており、非常に重厚な造りをしていた。社殿に見ほれつつ重ねてきたであろう時代の息吹を感じる瞬間が大好き。参道のたたずまいから、社殿の重厚さまで、戸隠の神社はいずれも山岳信仰の良さを十二分に発揮しており好感触。改めていきたいと強く感じてしまう気にあふれていた。
この後、12時38分に宝光社前からバスに乗り込み13時33分に長野駅に戻ってくる。そうして南下して14時30分頃に上田に到着して次の目的地であった「生島足島神社」を目指す。
上田駅から上田交通別所線に乗り換えて「下之郷駅」へ。上田交通の車庫のある駅。
そこから南に約1キロくだれば神社が見えてくる。
神社社殿風の下之郷駅 |
上田交通別所線 |
上田交通別所線 |
上田交通別所線 |
写真は最寄り駅である下之郷駅付近にて撮影
『生島足島神社』(延喜式内名神大社・国幣中社・別表神社・長野県上田市下之郷鎮座 朱印)
いくしまたるしま神社
祭神:生島神 足島神 (2神ともに万物生成・国土守護神 大八州の神霊)
社殿は池の中の島にあり、権現造りの本殿(昭和16)が北面して建立。それに正対して摂社諏訪神社が南面。
本殿内殿は内陣・外陣にわかれており、その内陣床面は床がなく土間となっており本神社のご神体とされている。これは万物を育む大地を神として崇めるもっとも古い形式の神社を伝えるものとされている。
創建年代は不詳。
社伝によると諏訪大神が科野(信濃)国に下ってきた際に、当地外陣にて生島神・足島神を半年間にわたって米粥を炊いて奉ったところと伝えられており、その伝承を受け継ぐ「御籠祭」(おこもり)として現在も11月3日の夜から摂社諏訪大神の祭神を本殿に遷して4月13日まで米粥を奉じる神事が行われている。
その後、八井耳命の御孫である建五百命(たけいほたけ命)を科野国造に定め、当社の祭祀を司り社殿創建という。
延喜式の名神大社。
明治社格では元県社。明治32年に国幣中社昇格。
公式サイト
北側参道 |
東側参道 |
西側参道 |
社殿は池の向こう側 |
島の中に社殿 |
島の反対側も池 |
神橋 |
神橋 |
拝殿 |
本殿 内部に床がないという内殿があり |
諏訪社 |
神楽殿 |
夫婦欅 |
御神田 後方は御歳代御仮殿 |
12時30分頃に戸隠を離れてバスと電車を乗り継いで、そうして神社に到着したのは午後3時頃であった。
本殿は島のなかに鎮座。北側に諏訪社が南面しており、島の中で生島足島社が北面している。東西から神社境内地にはいる参道と鳥居があり、島を囲むように摂末社が並んでいた。そういう面白い社殿レイアウト。
いつもころから呼称されているのかは不明であれど「日本中央」のやしろとされている。生島神・足島神という国土の神をまつり、土地そのものをご神体としている古式然とした神社でもあり、いろいろと興味深い。
そうこうしていたら16時近くになってきたので上田駅にもどり今回の参拝旅行も終了。
前日に「上越の神社巡り」をして、戸隠と生島足島を詣でた今回の旅行もなかなかもって密度が濃かった様子。
季節が違えば、違う印象を抱けそうな神社でもあり、そのうちまた行きたいものである。
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