「武蔵の古社を想う 浦和の神社編」
<平成14年1月参拝・1月記>
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目次
調神社(延喜式内社・旧県社)
氷川女体神社(武蔵国一の宮・旧郷社)
参考(武蔵国の延喜式内社解説)
なんにも考えていなかった。ただいつもの癖で神社に行きたくなった。
大体、正月早々に神社に行くものではない。信仰心の欠片も持ち合わせず、神社を詣でる、という行為そのものの意味さえも深く考えずに、「初詣」という慣習を律儀に敢行している大衆が多いときに、私のような「神社」を趣味とするものが律儀に行くことはない。論理はひねくれているが、人混みのなかの神社というものは、それこそ「劣悪極まりない」ものであり神社側としてはお金を落としてくれて大歓迎であろうが、私としては非常に困る。ゆえに、初詣には行かない。
正月熱もさめた1月の中頃になってやっと私の神社参拝が再開された。なぜだか今年は「武蔵野陵」という昭和天皇陵参拝から始まったが、これは「神社」だとはさすがに言えない。
暇に任せて通りかかった地元の鎮守である「敷島神社」「舘の氷川神社」(埼玉県志木市鎮守)程度では、いまいち面白みに欠ける。
そういう訳で、とにかく「神社」に行きたかった。
地図を眺めると、意外と近場にもある。家から直線距離10キロほどはなれたところに「延喜式内社」があるとわかり、自転車で行こうかと思ったが、さすがに年中疲れている体調なので、素直に電車で行こうかと思う。
「調神社」 <朱印>
<別掲載ページ有り><ウサギ好きの人はこちらもどうぞ>
(つき神社・調宮神社・延喜式内社・県社・浦和総鎮守)
御祭神
天照大御神(アマテラス大御神)
豊宇気姫命(トヨウケ姫)
素戔嗚尊(スサノヲ神)
当社は、延喜式内社足立郡四座のうちの一座とされており、また古くから浦和の総鎮守として栄えていた。
社伝によると第九代開化天皇の時の創建。第十代崇神天皇の勅命により伊勢神宮の斎主である倭姫命(やまとひめのみこと)が参向し、清らかなる地を選び伊勢の神宮に献じる調物(みつぎもの)を納める倉を当地に建て、武蔵野の初穂米や調収納所として定めたと伝えられている。
調宮(つきみや)とは調の宮(みつぎのみや)の事であり、諸国に屯倉が置かれた時、その跡に祀った社のことを一般に調宮と呼んだといわれている。
延元二年広木吉原(現埼玉県児玉郡美里町)城主源範行が社殿を再興し神田(神の田)を寄進。こののち貞和・観応の頃(南北朝期)に兵火で社殿を焼失してしまい、康歴年間頃に佐々木持清が再建。その後、山内上杉・扇谷上杉の戦場となって衰退、小田原北条氏の頃に再興し、のち徳川家康の江戸入府の時に寄進を受けている。
現在の社殿には「鳥居」や「門」がない。これは倭姫命の頃に御倉から調物を清めるために社に搬入する妨げとなるために鳥居・門を取り払った事が起因となり、現代に至っているといわれている。
また「狛犬」もない。狛犬のかわりに「ウサギ」が鎮座している。一説に「調(つき)」から「月の宮神社」と呼称され、「月待信仰」によるものから「ウサギ」であるといわれているが、定かではない。
入口は鳥居がないです |
こぢんまりとした拝殿 |
旧本殿(現稲荷社) |
狛犬のかわりにウサギが鎮座 |
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左:
手水舎ではウサギが水を出しています。
口からチョロチョロとなかなか愛くるしい姿。 |
浦和駅西口から徒歩10分ほどで、鬱蒼とした杜が見えてくる。多くの神社と接してきたが、この「調神社」の境内もまた豪壮であった。旧中山道に面して入口がある。境内の大部分は「調公園」として立派に整備されており、それでいて「神のやしろ」の雰囲気は壊されていない。その気配から、境内の中に入る前から品の良さそうな神社の風が漂っていた。境内林のほとんどは樹齢数百年とされており、それこそ中世以来の雰囲気と表しても違和感がないものであった。
入口。なぜか神社の気が起きない。さきほど書いたとおり鳥居がないためではあるが、参拝時にはそんなことは知らない。ただ、やっぱりあるべきところに鳥居がないという神社に初めて接すると、心は落ち着かない。
手水舎。なぜだかうれしくてしょうがない。手水舎にウサギが鎮座している。そのウサギの口から清らかなる水が流れる。右側にあるのは立地上いたしかたがない。手水舎のウサギはなぜだか異様に愛嬌が感じられた。
拝殿。ごく普通の拝殿。右側に札所がある。拝殿の大きさに比べて、参拝者が拝する場所は、意外と狭かった。そんなところでも、結構な人が参拝している。小正月も近いということもあるが、何よりも成人式関係でにぎやかであった。
調神社旧本殿とされる社がある。ただの稲荷社にしかみえないけれども、よく見るとそう書いてあった。どうみても稲荷社にしか見えないが現社殿が建築される安政年間以前はこのちいさな「やしろ」が本殿であったという。かなり小さく、不思議な感じがしてしまう旧本殿。
一通り散策して「札所」で「御由緒書きのようなパンフはありますか?」と尋ねるもなんにもありませんとのこと。ないものはなし、意外と人も多いことだし戻ろうかと思う。
浦和駅に戻ってくる。さしあたって今日はもう何も考えていない。13時30分。時間的にも中途半端なのは昼過ぎに家を出たから。時間からすれば、どこかにいけそうな時間。さしあたって越谷の「久伊豆神社」が思い浮かんだが、これは「東武伊勢崎線」沿線でほかにも片づけたい神社がいくつかあるので、またの機会にしたかった。
そうなると行き場がない。ふと思い浮かんだのが「氷川女体神社」。地味だけど「武蔵国一の宮」。いかねばならないだろう。問題は行き方による。とても電車で行ける場所ではなく、しょうがないから駅前でバス路線を検索する。
どうやら最寄りバスはあと50分ほどまたないと来ないらしい。つまり一時間に一本。そんなことはわかっていたが、行ったばかりでおもしろくない。そもそも「浦和駅」ではなく「東浦和駅」からいくのが近いらしいともわかっていたが、いまさらそちらにまわるのもおもしろくない。
手元の地図を眺めると、経路も系統も違うけれども2.5キロほど離れたバス停まではかなりの本数が出ているらしい。考えるのも面倒だし、根本的に「歩けばいいのだろ」的気分で、そんなバスに乗り込む。行き先は「埼玉スタジアム」行きバス。どうにも私はこのスタジアムがどこにあるか知らない。ただ、バスに乗って早々に「とんでもないところに連れて行かれそう」な気分になる。
「晴れた日にバスに乗って」そのままの気分。知らない景色に会いに、知らない土地に行く。バスはいつでもそうだ。電車は簡単な地図でも行き先は書いてあるが、バスは大抵書いていない。どこに行くかもわからないし、郷土に密着した雰囲気を醸し出しているバスは、部外者にとってはかなり恐い乗物。一瞬、家に帰れなくなるのでは・・・とも考えてしまったが、バスの旅は程なく終了。
約25分のバス旅で14時20分に「尾間木バス停」着。こんなところは知らない。たよりの地図を片手にただ歩くだけである。直線な道が約1キロ続く。先がまっすぐに見える道を歩くときはいつでもウンザリする。もう疲れた・・・。
目の前で旗を振っている警官がいる。その先にも警官が立っている。さらには旗の曲先には・・・特設会場(笑)。どうもネズミ取りのスピード取り締まりを行っているらしい。せっかくだから地図をカバンに放り込んで道を尋ねてあげる。「すいません。『氷川女体神社』に行きたいんですけど、この先でよろしいのでしょうか?」警官は、いま取り締まりの点数稼ぎで忙しいんだ的な顔をしつつも、そこは警官であるから、県民に道を聞かれたら教えなくてはいけない(笑)。
まあ、道を尋ねなくても道はわかる。完全に疲れた足をひきながら、歩くと川が見えてくる。正確には「見沼代用水西縁水路」という。埼玉県内東部から南部を潤す関東平野最大の農業用水路。このあたりは享保年間に見沼干拓がなされるまでは水害に悩まされた地であるという。また「氷川女体神社」自体が見沼と深い関係になるのだが、この話はのちほど・・・。
「氷川女体神社」 <朱印> <別掲載ページ有り>
(武蔵国一の宮・旧郷社)
主祭神
奇稲田姫命(クシイナダ姫命)
配祀神
大己貴命(オオナムチ命)
三穂津姫命(ミホツ姫命・書記のみ記載の神・高御産巣日神の御子、大物主神の妻となる)
氷川女体神社は県内屈指の古社で大宮氷川神社とともに武蔵国一の宮といわれ江戸期には寺社奉行直轄神社として諸国大社19社の1つに数えられてきた由緒ある神社。社伝では崇神天皇のときに造られたという。大宮の氷川神社(男体社・クシイナダ姫神の夫であるスサノヲ神が主祭神)、大宮中川の中山神社(氷王子社・詳細不明)とともに当「氷川女体神社」(クシイナダ姫命が主祭神だから女体)は「見沼」と深い関係にあり、かつては祭礼の「御船祭」が見沼の船上でとりおこなわれていたという。
現在の社殿は本殿・幣殿・拝殿を直結した権現造りの形式。本殿は三間社流造りで、全面に朱色が塗られており、寛文7年(1667)に徳川家綱が再興したものであり、拝殿は本殿と同時か、もしくは元禄の修理の時に建てられたものとされている。
氷川女体神社は見沼に突き出た台地上に位置しており、社叢は自然林の常緑広葉樹を中心に構成されており、境内は暖地性植物の群生地として、いにしえの姿を良く伝えている。先の調神社も、見事な境内であったが、こちらは市街地のはずれでもあり、雰囲気はひなびており、それでいて良く整備された境内であり、またかつては社領であったと思われる「見沼氷川公園」ともどもに周辺市民の憩いの場となっているようで、私も大いに気に入ってしまった。
さきほどから「見沼」という地名が良く出てくる。もともとこの地域、つまり大宮氷川神社から氷川女体神社近隣の地域は水郷地帯と呼んでもよいほどの地帯であり、「見沼」はすなわち「御沼」「神沼」と呼称されて、氷川神社・氷川女体神社は武蔵野台地と見沼の境目に鎮座していた。古くから「氷川神社」は農業神として信仰を集めており、荒川・多摩川流域には氷川神社と呼称される神社が220社を数えており、この神社と水・農業との関係が深いということがわかる。
「御沼」水域を利用して生活していた民(出雲系氏族)は、沼を「神沼」として信仰しており、沼には竜神伝説なども伝わっている。祭礼は「御船祭」として、とりおこなわれ、女体神社から神輿を載せた船が対岸まで南下し、沼の主に御神酒を供えるというものだったが、享保12年(1727)に見沼開拓がおこなわれると(徳川吉宗享保改革の一環。教科書的には良いことでも、日本の伝統にとっては・・・)、かつての祭礼をおこなうことは不可能になり、かわりに社領の見沼内に柄鏡形の土壇上を設け、周囲に池を巡らし、ここに祭祀を移して「磐船祭」として祭礼を行うようになったという。江戸中期頃から行われたこの「磐船祭」は幕末・明治初期までの短い期間で、行われなくなってしまったが、祭祀遺跡は保存状態も良く、現在では「氷川女体神社磐船祭祭祀遺跡」として復元整備保存がなされている。
石段と鳥居 |
氷川女体神社拝殿 |
武蔵國一宮扁額 |
氷川女体神社本殿を裏手から |
路駐が多いです |
祭祀遺跡道をカモが横断 |
道幅が狭い。狭い上に「神社」と「公園」を訪れる人々は車でやってきて路上駐車をする。さすがにバスで来たり歩いてきたりする人はいないようだ。
急な石段。おもわず、つまずく。さすがに足が棒のようだ。朱塗りの鳥居を見上げるようにしてのぼると、予想以上に質素で落ち着いた風格と歴史を実感できる社殿があった。全体的に赤みがっており、どことなく「女体神社」の風格を漂わせていた美しい神社。拝殿の中央には「武蔵國一宮」という堂々たる扁額が掲げられており、地味ながらも「一の宮」の主張を行っておりうれしくなってきた。参拝を終え、札所を覗くときちんと営業していた。旧郷社とはいえ、さすがは「一の宮」。こんな「一の宮」らしくない「一の宮」が何とも言えずうれしくて一見で「私の好きな神社」になってしまった。
祭祀跡も散策。池の島へと繋がる参道が「神のみち」。そんなところを「鴨」がチョコチュコと歩く。なんともいえずのどかな環境で、なんともいえず優雅な時間を私は過ごす。
もうそろそろ日も傾き始める。今日は、唐突な神社参拝だったけど、充実していた。とにかく特徴ある2つの神社がなんともいえず興味深いものであった。
人にあまり注目されない神社を追いかけて、そこにアタリを見つけたときがなりよりもうれしい。今年は、そんな神社がいっぱい見つかるといいな、と思いつつ、またバス停へと戻る。行きの足の重みも吹っ飛び、帰りは足取りも軽くなっていた。それだけ良い神社だった。
<参考文献>
『角川日本地名大辞典11埼玉県』昭和55年7月 角川書店
他、各種パンフレット・案内看板等
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