「筑紫路の古社詣で・1」
<平成16年9月参拝>
目次
その1「竃門神社」「太宰府天満宮」「筑紫神社」
その2「水天宮」「千栗八幡宮」「御勢大霊石神社」
朝9時。福岡空港に到着するはずの飛行機は5分遅れで到着。志賀海にいきたくてギリギリのスケジュールを組んでいた私の予定は、すでに到着時には崩壊していた。だから、飛行機の到着時間は当てにはならないのだ。
とにもかくにも。地下鉄乗り換えをして志賀海に向かうにしても、船も電車も接続がギリギリのラインであり5分の遅れがずるずると1時間遅れてしまう。バス選択なら、なんとかなるみたいだが私の性格上「率先してバスにはのりたくない」。やはり船にのりたいのだ。
さすがについて早々の1時間遅れは辛いので、空港の中ですんなりと「志賀海神社」行はあきらめる。
諦めて、さてどうするか。第二案はなんにも時間計算をしていないので、もはや成り行きのままに行動することになる。
9時17分。空港から地下鉄にて天神まで赴き、西鉄線乗り換え。一気に南下して「太宰府駅」を目指す。
9時36分に西鉄福岡から電車に乗り込み。乗り換えをして太宰府駅に到着したのが10時02分。
駅前で地図を貰い、バス停を確認すると「竃門神社(内山)」行のバスは10時10分の接続。だいぶタイミングが良かった。
「竃門神社」(かまど神社・宝満宮・官幣小社・式内名神大社・九州総鎮守)
<福岡県太宰府市内山鎮座・朱印>
主祭神:玉依姫命
相殿:応神天皇・神功皇后
由緒
宝満山(869M)を上宮とし、麓に外宮が鎮座。明治までは中腹に山伏修行の中心地として中宮が栄えていたが、明治以降に廃絶。福岡県内に広く分布する宝満信仰の中心地であり、「宝満さま」として親しまれている。
神武天皇が東征に先立ち、宝満山に登られ山頂で神々の御加護を祈願されたとされる。
天智天皇三年(664)、太宰府設置時に都府楼の鬼門に宝満山があたり勅使をもって祭祀。
天武天皇の白鳳2年(673)に心蓮上人が宝満山に籠もって修行をしていたときに玉依姫命があらわれことを祈念し、朝廷によって太宰府守護神として山頂に神社が建立されたことにはじまるという。
神社創建と同時期に下宮周辺に寺院が建立され「竃門山寺」「有智山寺」等が呼称されてきた。
延喜式内名神大社。
平安末期には石清水八幡の別当支配となり、鎌倉期には延暦寺の末寺として扱われる。南北朝期には交通の要所に当たる当地付近に少弐氏によって有智山城や宝満城の城郭が築城され、たびたび戦災に巻込まれた。
宝満城は大友氏支配の高橋氏が築城した城であり、岩屋城を支城としていた。なかでも高橋紹運と子供の立花宗茂(立花道雪の養子)や高橋統増が、戦国期に島津の北上を防ぐ攻防を繰り広げた岩屋・宝満・立花山をめぐる戦闘が劇的でもあった。
神仏混合の色合いが強く、山伏修行の山として大いに栄え、九州武将の崇敬や筑前の小早川藩や黒田藩の信仰あつい神社であった。
明治期の神仏分離によって全山が徹底的に破壊され、わずかに残った一社殿が「竃門神社」として村社として祀られ、明治28(1895)年に神武天皇母神「玉依姫命」をまつり、九州総鎮守とされていたことから官幣小社に列格。
竃門神社 |
参道 |
拝殿 |
本殿 |
夢想権之助神社
杖道の祖。
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竃門神社と宝満山遠望
左側の茂みの奧に竃門神社が鎮座
左後方の山が宝満山。右は愛嶽山。 |
10時はすぎているけれども、感覚としては早朝のような感覚。人の気配は皆無であり、山の空気は澄んでいる。宝満山の麓に鎮座する当社は、登山口でもありそして山を背負う下宮でもあるので多少の高低差があった。さすがに上宮にいくゆとりと余裕はないので、そんな気配を感じつつ拝す。ちなみに山頂までは1時間30分の要す、とのこと。
ゆっくりと参拝し、境内を巡る。社務所に人の気配はあるけれども人がいない。lこのまま引き返しても良いのだが、朱印が欲しかった私は、中に声をかける。「お時間頂きますが大丈夫ですか」とのことだが、まあ待つことは慣れているので承知して朱印を頂く。
朱印を頂戴して、境内を降りる。途中に「神鹿」がいたりするので、戯れたりする。この間、あいかわらず誰も来ない境内を散策しつつ、バス停まで戻ればバスがないことに判明する。
10時50分。
完全にうっかりしていて、帰りのバスの時間を失念。どうも40分ほど待てば来るらしいが。その時間が惜しい。2キロほど歩けば太宰府天満に辿り着くので、山を背にして歩みを進めることにする。
約20分間歩けば太宰府に到着。もっとも太宰府の裏側であったが、それは気にしないことにする。修学旅行シーズンではないが、それでもさすがに天下の太宰府。だいぶ賑わっているようである。
「太宰府天満宮」(官幣中社・天満宮総本宮・国重要文化財本殿)
<福岡県太宰府市太宰府鎮座・朱印>
祭神:菅原道真公
由緒
太宰府天満宮は菅原道真公の御墓所の上に社殿を建立し、その神霊を奉祀する神社。
藤原時平らの陰謀によって、右大臣から太宰権帥に左遷された菅原道真公は延喜3年(903)2月25日に配所の太宰府南館で亡くなった。
その後、遺骸を牛車で乗せて進んだところ、まもなくその牛が伏して動かなくなった。その場こそが菅公の御心だろうとされ、その聖地に遺骸が葬られた。
菅原道真公の門人で配流に従った味酒安行(うまさけのやすゆき)は延喜5年にこの聖地に祠廟を創建し、次いで左大臣藤原仲平が勅命によって太宰府に下り延喜19年に社殿が建立された。
また安行は同時に御墓寺として「安楽寺」を創始し、天満宮と安楽寺は神仏習合思想の元に一体化し、朝廷からは二十二社に準じる扱いでもって篤く崇敬されていった。
明治四年に国幣小社列格。同十五年に国幣中社、同二十八年に官幣中社昇格。
本殿は天正十九年に筑前藩主小早川隆景が造営。桃山時代の様式を伝えており国重要文化財に指定。
境内社の志賀社は長禄二年(1459)の建立とされ、国重要文化財に指定されている。
正面。突き当たりが「延寿王院・大鳥居家宿坊」
天満宮安楽寺の別当職の大鳥居家(菅公末裔)は
明治後に西高辻家となる。
もとの延寿王院は、現在は西高辻宮司邸
延寿王院には幕末の三乘実美ら公卿も滞在していた
ちなみに参道は右に折れる |
楼門、正面から。
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楼門内側から。
ちなみに左側は「宝満宮竃門神社授与所」がなぜかある。 |
本殿正面<国重文>
太宰府天満宮には「拝殿」がない |
本殿は重要文化財指定 |
本殿後方から。神職さん作業中・・・ |
手前が飛梅
菅公を慕って一夜にして飛来したとされる「御神木」 |
志賀社(国重文)
屋根の造型が美しい |
実は太宰府天満宮には一度だけ来たことがある。それこそ高校の修学旅行ではあるが。その時にはなんらの興味関心がなく、約十年前の事ゆえに一切の記憶もない。そんな感覚だから、実質ははじめて訪れる神社に等しい。
学業祈願ではないが菅公に拝し、本殿を巡って、境内を巡って、朱印を頂いて、巫女さんの多さに関心して、といろいろしていると、楼門の向こうがざわめかしくなる。
今のタイミングは団体学生がいなかった空間ではあったが、どうやら団体学生さんの登場らしい。喜ばしくはないが、境内脇にそれる。
なにやら違和感を感じる学生団体は・・・韓国人学生団体らしい。さすがは九州の地だ。半島の近さを感じる。もっと日本文化も日本的赴きも、神道の神威も感じない彼ら彼女らは、祭礼中の本殿内部をストロボ撮影しまくりで、境内を駆け回りで、はたはた迷惑きわまりない。
もうすこしゆっくりとしたかったが、「太宰府天満宮」であるがゆえにしかたがない。そろそろ次の目的地を模索しよう。
12時すぎ。
太宰府駅から南下する。ここで私は土地勘がなく計画性がなかったゆえの失敗を連発。
JR原田駅に行きたい私は、今は西鉄太宰府駅にいる。ちなみにJRと西鉄の乗り換え接続駅というものは近隣にはどこにもない。そうなると駅間を歩くしかなかった。
事前に地図で見ると「西鉄・朝倉街道駅」と「JR・天拝山駅」が300メートルほどの距離で近そうだったから、そこで乗り換えることにした。
その判断がまず良くなかった。乗り換えは確かに近いのだが、どうにも「天拝山駅」は規模が小さく通過電車多数。駅に着いてから電車が全くないということに気が付く。
これならば一駅手前の「二日市駅」を乗り換えにした方が良かった。それでも距離は600メートルほどなのだから。
いずれにせよ天拝山駅でまったく電車が来ずに、待ちぼうけ。運悪く前の電車は出発したばかりで20分以上待たされる。
12時51分にようやくに移動開始し、JR原田駅に到着したのが12時55分。ちなみに原田駅は「はるだ」と読む。
そんな原田駅から600メートル北上すれば、「筑紫神社」が鎮座している。
「筑紫神社」(ちくし神社・式内名神大社・県社)
(筑紫野市原田鎮座)
祭神:
白日別神(しらひわけ神・筑紫神とも)
五十猛尊(いそたける尊)
また宝満神、坂上田村麻呂を配祀に祀るともいう。
由緒
古くから筑紫の地に鎮座していた古社。古代豪族である筑紫君や肥君が祭祀にかかわっていたとされるが、創建年代は不詳。延喜式内名神大社。はじめは城山頂上に鎮座していたものをいつのころか麓に遷座、という。
本殿は寛文二年(1662)、拝殿・神門は正徳二年(1712)の造営とされる。
大正四年(1915)に県社列格。
筑紫とは、元来は「ものを尽くす」という意味の「ツクシ」がはじまりという。また「人の命をつくす神」の筑紫神ともいう。
筑紫神社正面 |
参道 |
神門 |
拝殿 |
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左;
筑紫神社本殿 |
筑紫神社到着が13時10分。太宰府から、1時間も費やしたのが口惜しい。もっと早く動けるはずだったのに、電車一本乗り損ねて30分を損してしまった。今日は、どうにもそういう巡り合わせらしい。
いずれにせよ「筑紫神社」。ちょっとした丘に鎮座。丘一帯が境内地となっているようだ。私が訪れる前に台風が到来していた九州地方。その影響ゆえに境内で木が倒れている。境内で忙しそうに掃除も行われている。場違いな私は、参拝をばーっとすませる。あまり長居をするにも良くないだろう。
長崎街道の宿場町であった原田は、その面影を筑紫神社に留めるだけで、今は静かな集落地。筑豊本線原田線の連絡駅ではあれど、その気配すら感じられずに、原田をあとにする。
13時31分発の鹿児島本線に乗り込み、13時47分にJR久留米駅に到着。
久留米からいくべき神社。行き方がわからずに途方に暮れるのもいつもの事。
続きは「その2」へ。
参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)
角川地名大辞典
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