「筑紫路の古社詣で・2」
<平成16年9月参拝>
目次
その1「竃門神社」「太宰府天満宮」「筑紫神社」
その2「水天宮」「千栗八幡宮」「御勢大霊石神社」
とにかく私は13時47分に久留米駅に到着した。駅前のバスは、地域密着型で部外者にとってはどこにどう走っているのかが皆目わかりにくい。
観光案内所で「高良大社」にいく手段を尋ねてみると、どうにも半日仕事らしい。とにかく高良に行くべき手段がなかった。
しょうがないので、高良を諦めて歩ける距離に鎮座している「水天宮」に赴こうかと思う。
「水天宮」(全国総本宮・県社)
<福岡県久留米市瀬下町鎮座・朱印>
祭神:
天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院)・二位の尼(平二位時子)
寿永4年(1185)3月24日。壇ノ浦の戦い後に高倉平中宮に仕えていた官女 按察使(あぜち)局伊勢(石上神宮の神官娘)は、千歳川(筑後川)の鷺野ヶ原に逃れて水天宮を祀ったことに始まり、創建は鎌倉の建久初年頃という。
伊勢は後に剃髮して名を千代と改め、里人に加持祈祷を行い崇敬をあつめ、当社は尼御前神社とも呼称された。そのころ、中納言平知盛の孫で平知時の子であった平右忠が肥後国より千代を訪れ、その後嗣とした。これが現在まで続く真木氏の祖先とされる。
筑後藩有馬氏の崇敬があつく、第9代有馬頼徳は、文化元年(1818)に江戸藩邸に水天宮を分霊し、東京水天宮が創始されている。
幕末尊王攘夷の志士で王政復古に先覚的偉業をなした真木和泉守平保臣(1813−64)は水天宮第22代宮司であり、彼を祀る「真木神社」が境内に鎮座している。
また当社は水上機母艦「千歳」の艦内神社として分霊されている。千歳とは筑後川の旧称でもあり、当地と縁が深かく境内には「千歳慰霊碑」も建立されている。
明治社格では県社。
水天宮入口 |
神門 |
拝殿 |
本殿 |
真木神社
真木和泉守と国難に殉じた一門・門人や
禁門の変後に天王山で真木とともに自刃した者を祀る |
山梔窩(くちなしのや)
真木和泉の謹慎時の建物を復元。子弟教育の場。
|
筑後川と御座船 |
左の森が水天宮鎮座地 |
|
左:
真木和泉守銅像。 |
14時30分に「水天宮」に到着。久留米に到着してから次の行動に移るまでにだいぶ時間を要しているが、目的地確認と高良大社への諦めと、バス停での待ちぼうけと選択ミスなどが重なって、時間がかかってしまった。
水天宮。真木和泉守のイメージがきわめて強いが、それは歴史趣味者の視点。信仰の面からみれば安産の神として全国的に分布している神社であり、当社はその「総本宮」である。
駅から歩めば徒歩10分ほど。ただ、歩いていくと社地の後方に到達してしまったので、改めて正面から参拝する。参道の途中には真木神社があり、その脇には誇らしげな銅像がたっている。私は奧州人でもあるからどうにも真木和泉のイメージも湧かないし、長州閥のブレーンで尊王攘夷王政復古の先覚者であり禁門の変のあとに自刃したぐらいのことしか知らない。
そんなこんなの奥州人である私は、軽く拝して、境内散策。境内の片隅にあった「軍艦千歳」の慰霊碑に手を合わせるのは私が海軍趣味者であることにもよる。
ひとり寂しく札所にいた巫女さんに朱印をお願いして、待ち時間をぼーっとして、巫女さんから朱印帳を受け取れば、ようやくに水天宮らしさを実感する。なんせ安産の神なのだから、あまり私が長居するものでもなかった。
水天宮から北上して筑後川にかかる「長門石橋」手前のバス停でバスを待てば佐賀方面に赴くバスがやってくる。それに乗り込んで約2キロで「千栗八幡宮」に到着。肥前と筑後の国境に鎮座している当社は「肥前一の宮」でもあるだ。
「千栗八幡宮」(肥前国一の宮・国幣小社)
<佐賀県三養基郡北茂安町鎮座・朱印>
祭神:応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
由緒
聖武天皇の神亀元年(724)に当時の肥前国養父郡司の壬生春成が神託によって創建したとされている。夢の中で春成は千個の栗を授けられ、目がされると千本の栗が多い繁っていたゆえに「千栗」というとされる。
宇佐神宮の別宮として、平安時代には式外五所八幡別宮(九州五所八幡別宮)として朝廷からもあつく崇敬。一の宮制度が確立すると当社は肥前一の宮ともされるようになった。
南北期戦国期には卑近に千栗城が築かれたびたび戦乱に巻込まれ社殿焼失しているが、龍造寺家・鍋島家によって再興。江戸期の藩主鍋島家によって明治期まで累代の崇敬をあつめる。
明治36年に県社、昭和15年に国幣小社に列格。
現在の社殿は平成16年9月に修復されたもの。
*五所八幡別宮は大分八幡・千栗八幡・藤崎八幡・新田神社・鹿児島神宮。
鍋島勝茂奉納の石鳥居(慶長14・1609) |
丘上から参道下をのぞむ |
拝殿 |
本殿 |
|
左
千栗八幡からの展望
天気が良ければ高良山がのぞめるのだが・・・
このあと雨が降ってきた。 |
バス停を降りれば、小高い丘が目の前に立ちふさがる。唐突な丘の上に「千栗八幡」という肥前一宮が鎮座している。見上げるような石段をのぼれば、そこに社殿が鎮座していて、社地脇には広場がある。どんよりとした雲の下で、帰りのバスを心配しながら参拝。社務所で朱印を頂いて、もやる展望台で、計画を挫折した「高良大社」の方向をながめる。どうにも向こうは完全に雨の気配。私もあまりモタモタしていられない気配。
鎮座地は北茂安町という。そういえば成富茂安だ、とそんなことを思い出しつつに15時14分。西鉄久留米駅行のバスに乗り込む。
西鉄久留米駅に到着して、少し気になったのでタクシーの運転手に尋ねてみる。「ここから高良大社までどのぐらいかかる?」と。片道2000円ぐらいで30分ぐらいはかかるよ、とのことで往復の時間もないので、未練たらたらにようやく諦めて北上することにする。
西鉄久留米駅から北上して、大保駅という駅に降りる。16時すぎ。まだわずかに時間があるので最後の神社訪問。この大保駅から歩くこと500メートルほどで御勢大霊石神社という神社に到着する。
「御勢大霊石神社」(みせたいれいせき神社・県社・式内社)
(福岡県小郡市大保鎮座)
祭神:仲哀天皇・天照大神大神・八幡大神・春日大神・吉富大神
由緒
筑後国式内社四社のひとつ。社伝では神功皇后二年に創建という。
仲哀天皇が筑前国橿日宮で崩御。神功皇后が石を以て御形代としこれを奉して三韓遠征。凱旋後にこの霊石を祀ったのが当社とされる。
社前には御剣・御衣を納め、これを御本体所という。
当地は仲哀天皇殯葬伝説地とされる。
明治六年に県社列格。
大保駅から東に500メートル。神社到着が16時25分。すでに小雨が降っており、気もそぞろな参拝。なんせ私は、この日の飛行機で東京に帰るのだから。静かな集落に鎮座している神社は、一之鳥居から伸びる参道が新しめの道路に分断されている。その先に、静寂に包まれて神社が鎮座している。この神社に関しては予備知識なしに、それこそ時間があったからという理由で唐突な訪れではあったが、それでもこのおもむきに価値を見出す。
あとは静かに今日を振り返り、我ながら日帰りで九州の地を訪れ、静かに神社に佇んでいるおかしさを噛みしめるのみ。
そんなこんなで、もう雨が本降りになってきた。慌てて駅まで戻って、あとは博多でゆっくりしてから、飛行機で東京に帰るだけだった。
参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)
角川地名大辞典
前に戻る
|