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国東路の古社めぐり 宇佐神宮編 平成20年8月/平成22年12月記

その1 国東のちいさな鎮守様

「その2 宇佐神宮」  宇佐神宮 / 宇佐海軍航空隊


平成20年8月のお盆休み。
私と嫁と、そして私たちの友人の3人で国東半島に赴いていた。
国東路の古社めぐり」の続き。東京方面に帰るに当たり、宇佐神宮と宇佐海宮航空隊戦跡をまわってみる。

今回は文章少なめ、写真多めで。
さすがに宇佐神宮ともなると、私が改めてことさらに書くこともなかろうかと。



「宇佐神宮」<延喜式内名神大社・豊前国一の宮・官幣大社・勅祭社・別表神社・全国八幡総本宮> (大分県宇佐市鎮座)

御祭神:八幡大神・神功皇后・比売大神

宇佐神宮公式サイト http://www.usajinguu.com/

wikipedia〜宇佐神宮 http://ja.wikipedia.org/wiki/宇佐神宮


宇佐神宮 表参道

一の鳥居

宇佐参宮線26号蒸気機関車
明治24年(1891)にドイツミュンヘン市のクラウス社が製造
明治27年に九州鉄道(国鉄の全身)が購入し昭和23年に大分交通に譲渡され宇佐参宮線を走り、実に71年間にわたり活躍した。
宇佐参宮線は大正5年(1916)3月開業し昭和40年(1965)8月に廃線。

神橋

神橋は寄藻川にかかる。

宇佐神宮社叢 国指定天然記念物

この御山は亀山、または小椋山とも称し、森の大部分はイチイガシ(一位樫)、クスノキを優占種とする常緑広葉樹林で
ほぼ自然の状態で残されている。


大鳥居

宝物殿と参集殿、初沢池

祓所

参道

宇佐神宮・若宮神社(国指定重要文化財)

西大門(大分県指定重要文化財)

御神井

御神木

宇佐神宮 四拍手の拝礼について。

宇佐神宮では古くから「二礼・四拍手・一礼」の作法で祭典が行われている。
この形式は往古より次々と受け継がれてきたもので史料はなく、その起源は不詳という。


宇佐神宮奥宮・大元神社遥拝所
左手奥に見える山が「宇佐嶋」とも呼ばれる御許山(馬城峰)。
宇佐神宮発祥の聖地として摂社大元神社が鎮座している。

南大門と百段

宇佐神宮 (国宝本殿社殿)

御祭神
一の御殿 八幡大神(応神天皇)
二の御殿 比賣大神
三の御殿 神功皇后

宇佐神宮は全国八幡宮の総本宮、勅祭の大社であり、歴代天皇は伊勢の神宮につぐ宗廟、我朝の太祖として御尊敬になられている。
神代に三神の比賣大神がご降臨になった宇佐の地に約1400年前の欽明天皇32年(571) 応神天皇のご神霊が
はじめて八幡大神としてあらわれになり、各地を御巡幸後に、この亀山にお鎮まりなった。
のち弘仁14年 応神天皇の御母君であられる神功皇后をお祀りし、三殿のご鎮座となった。

八幡神は欽明天皇32年(571)に宇佐の地に顕れたという。
朝廷が編纂した「続日本紀」にはじめて登場した737年以降、八幡神は中央政府との関係を急速に深めてきた。
740年に聖武天皇が進めた東大寺大仏殿建立に協力する託宣を行うなどの功績があり、
769年の道鏡事件で大きな影響力をしめしたことから国家神としての地位を確立。


中央が宇佐神宮二之御殿・拝所

神宮内郭の南正門。勅使門で通常は開かずの門。

宇佐神宮二之御殿・拝所

手前は宇佐神宮一之御殿・拝所。
中央が二之御殿、奥が三之御殿。

宇佐神宮二之御殿・拝所
 

宇佐神宮一之御殿・拝所

八子神社

本殿遠望

亀山神社 祭神:大山積命

宇佐神宮・下宮

御祭神
一の御殿 八幡大神(応神天皇)
二の御殿 比賣大神
三の御殿 神功皇后

下宮は嵯峨天皇の弘仁年間(810−824)に朝廷より造宮使が遣わされ、上宮のご分霊を鎮座し創祀したことにはじまる。
古くは御炊殿(おいどの)ともいわれ、神前にお供えする神饌を炊く竈殿があり、
農業漁業をはじめとする一般産業の発展充実をお守りになる神様。
上宮と同様に歴代の皇室をはじめ国民の崇敬篤く、特に宇佐地方では「下宮参らにゃ片参り」と称されてきた。
一の御殿には八幡大神を顕しになった大神比義の霊を祀る大神祖神社が相殿として奉斎されている。


下宮入口

下宮社殿

奥から下宮の「一之御殿」「二之御殿」「三之御殿」

兆竹(さましだけ)
かつて宇佐神宮では神意の卜占を
摂社若宮神社の拝殿にて対馬の卜部が亀甲を焼いて行っていた。
その際に、この下宮境内の竹を用いて
熱した亀甲をさましたことから「さまし竹」といわれている。


高倉(大分県指定文化財)

八坂神社・養蚕神社

宇佐神宮・弥勒神宮寺跡

725年に八幡神を小椋山に移したとき東方の地に弥勒禅院を建てたことが記載。
また738年に金堂・講堂を建立しておりこのころ着手して奈良時代に完成されたと考えられている。
1868年に「神仏判然令」や「八幡大菩薩の称号を八幡大神に改める」明治政府の通達があり、神宮寺は廃寺となった。
現在、西参道の南側に寺院の中心遺構が保存されている。


弥勒神宮寺跡

弥勒神宮寺跡

明治42年造石燈篭。上に狛犬がチョコリと。

可愛らしい眼差しで見下ろしています

宇佐神宮・呉橋(大分県有形文化財)

寄藻川に架けられた神橋は呉橋と称せられ宇佐神宮西参道からの入口にあたる。
昭和初期まではこの通りが表参道であった。
呉橋の創建年代は不詳。中国「呉」の人が架けたと伝承。この様式は中津市の宇佐神宮旧摂社薦神社にみられるほかは全国的に少ない。
木造の廊橋で橋脚石造3基、幅3.46メートル、長さ24.67メートル、向唐破風造、屋根は桧皮葺。

元和8年(1622)細川忠利公が修築したものが現存。
明治9年、昭和12年と修理が加えられ昭和26年頃に河川拡幅と堤防工事が施工されたためコンクリート橋が正面に取り付けられた。


宇佐神宮・頓宮

頓宮は仮殿・御仮屋ともいわれ宇佐神宮では夏越神幸祭が斎行される際に3基の神輿が、この頓宮まで御巡幸ののち遷御される。
現在の頓宮は昭和7年より始まった昭和大造営の折に新築された。
古く元慶4年(880)には33年毎の式年造替が行われ、この頓宮一帯に上宮・外宮・若宮の各本殿と寸分たがわない白木造りの仮殿が建立。
しかしこの仮殿の造営も中世戦乱のために次第に行われなくなり延宝8年(1680)には神橋付近に頓宮が造営され昭和初期まで使用された。


大尾山


大尾山入口

海軍奉納灯篭には錨が刻印されている

大尾山へといたる石段

和気公之碑

宇佐神宮 摂社・大尾神社

八幡大神は奈良の都の大仏開眼式に臨まれ、宇佐へご帰還ののち、天平神護元年(765)に、この大尾山にしばしの間鎮座するとの御託宣により参上に本殿を造営され15年間お鎮まりになった。
この間、神護景雲3年(769)7月11日 和気清麻呂公は「宇佐使」として当地に参向、皇統を守護する託宣を受けられた。
八幡大神が本宮へ還御されたのち神勅拝受の聖蹟として八幡大神のご分霊を祀り大尾神社と称された。

大尾山の中腹には和気清麻呂公を祀る護皇神社と和気公之碑が鎮座している。


摂社・大尾神社

摂社・大尾神社

宇佐神宮。
全国八幡宮の総本宮。
さすがに正直いって広すぎた。始めて宇佐神宮の地。あれもこれもと行きたいところは多数。
午前11時15分に宇佐神宮に到着。そして離れたのが13時15分。所要2時間はあったが、それでも時間は足りなかった。

ほぼ写真の掲載順に参拝。おしむらくは、大尾山で「護皇神社」(和気清麻呂公を祀る)に立ち寄りそこねたことか。山頂を目指して登っていたは良いが脇にそれる道に気がつかなかった。

宇佐はまた来たい神社。余裕があれば宇佐神宮奥宮・大元神社にも行ってみたい。
なかなかに九州に行く機会がないが、その機会を楽しみにしつつ、宇佐神宮をあとにする。



宇佐海軍航空隊

宇佐神宮のほど近く。車で来ているということもあるので、帰路途中にせっかくなので立ち寄り。

宇佐海軍航空隊-wikipedia

詳細は上記リンクで。ここでは主題から外れるので写真のみで。


城井一号掩体壕

城井一号掩体壕

城井一号掩体壕

城井一号掩体壕

掩体壕

農耕機の倉庫として使用

宇佐海軍航空隊滑走路跡

宇佐海軍航空隊滑走路跡

水田のなかの爆弾池は、米軍が爆弾を投下したときにできた穴。
 
飛行場電信室のあとという。

航空隊の隊門

機銃掃射の弾痕あと。柳ヶ浦小学校

航空隊踏切。このあたりから航空隊への引込線があったという。

兵器整備の施設だったという建物。

滑走路への誘導路跡。

掩体壕が住宅の倉庫として使われている。

宇佐航空隊の気配を感じつつ、13時30分すぎに掩体壕界隈に到着。いくつかの戦跡を辿り、15時20分頃に宇佐航空隊の地を離脱。

そのまま北上して関門海峡を渡ったのが、18時30分。ちょうど日没の頃合いであった。


このときは尾道までいってそこで一泊。
尾道はなんどいっても飽きることがない街。勝手知ったる街中を散歩しつつ、それは今回の国東路とはまた別の話題。


ちなみに最後に乗った東海道山陽新幹線は500系でした。
東京駅でこの姿をみたのは、私はこのときが最後。



 
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