「備後の古社巡り〜福塩線沿線編」
<平成18年5月参拝・平成21年5月記載>
「福山の神社詣で」の続き扱いです
その1・鞆の浦編 「沼名前神社」「子烏神社」「淀姫神社」
その2・福山駅周辺 「三蔵稲荷神社」「備後護國神社」「福山ノ艮神社」「福山八幡宮」
「備後の古社巡り〜福塩線沿線編」
福塩線神辺(かんなべ)駅
「天別豊姫神社」 (式内社・県社)
福塩線新市駅
「吉備津神社」 (備後国一の宮・国幣小社)
「新市神社」
福塩線上戸手駅
「素戔嗚神社」 (式内社・備後国一の宮・県社・備後三祇園のひとつ)
福塩線府中駅
「甘南備神社」 (式内社・県社)
「小野神社」 (備後国総社)
「木野宮神社」
尾道や福山にかよっていたころ。
福山から福塩線にのりこんで沿線神社を廻ってみようと思い立つ。
福塩線 神辺(かんなべ)駅 |
福塩線 神辺(かんなべ)駅 |
天別豊姫神社後方の黄葉山から福塩線をのぞむ |
天別豊姫神社後方の黄葉山から福塩線をのぞむ |
福塩線。最初に降りた駅は「神辺」駅。時間にして12時頃。駅からちょこちょこと散歩を開始してみる。まっすぐに東の方へ。
「天別豊姫神社」<式内社・県社>(広島県福山市神辺町川北鎮座)
あまわけとよひめ神社
祭神:豊玉姫命
延喜式内社の古社。創立年代は不詳。いつのころから天別豊姫神社として呼称されてきた。詳細由緒等も不明。
明治社格では昭和15年6月15日に県社昇格。
当神社が鎮座している黄葉山(もともとは紅葉山と呼称)の山頂には神辺城麓城が存在していた。神辺城は建武中興の浅山備後守條就公が建武二年(1334)に築城し、元和8年(1622)に水野勝成が神辺城から福山城に引き払うまで備後国の守護居城であった。
天別豊姫神社後方の黄葉山 |
正面 |
正面 |
参道 |
参道 |
社殿 |
本殿 |
境内風景 |
駅から400メートルほど東に。黄葉山という山があり、その麓に神社が鎮座している。山の中腹までのぼってみると町中が展望できる。ちょうど走っている福塩線を眺めてみたりしつつ神社に改めて赴く。境内は結構広く奥行きがある。後方に山を控えており神域として非常に厳かな気配。地図を眺めてみてふと行ってみようと思った神社。けっこう正解だったようだ。
結局、1時間ほど黄葉山や神社を散歩して、13時30分過ぎ。府中方面の電車に乗り込む。
「吉備津神社」<備後国一の宮・国幣小社・国重文・朱印> 広島県福山市新市町宮内鎮座(旧・芦品郡新市町宮内鎮座)
きびつ神社
祭神:吉備津彦命
備後国総鎮守にして備後国一の宮。一宮(いっきゅう)さんと親しみを込めて呼称されている。
祭神の吉備津彦命は、第7代孝霊天皇の皇子。第10代崇神天皇の御代に四道将軍に任ぜられ山陽道を鎮撫。吉備開国の恩恵神。
創建年代は大同元年(806)とされているが延喜式内社ではない。吉備国総鎮守として吉備津神社(=備中)が祀られており、吉備国が備前・備中・備後に三国分立された大化改新後に備前国に「吉備津彦神社」、備後国に「吉備津神社(当社)」が祀られ、それぞれの一の宮とて崇敬されてきた。
現在の社殿は慶安元年(1648)に福山城主水野勝成公が造営されたもので国重要文化財指定建造物。
当社には隋神門がふたつあるのが珍しいとされている。(全国でもふたつあるのは例を見ない)
出雲の大国主命の号令で10月の神無月に全国八百万神々が集っていた際に、吉備津彦命のみが欠席された。大国主命はことの意外に案じられて死者二名を当地に差し遣わし至急の出頭を促されるも吉備津彦命の大祭が神賑っており使者2名を至れり尽くせりで歓待。使者たちは遂に美しい乙女と契りを結び大国主命に復命する事がなかったという。そうして2名の使者は吉備津彦命の親衛の門守として末永く仕え上下随神門のある理由ともなったという。出雲国以外は神無月と一般的に云われているが、備後においても神在月とエピソードは伝えている。
境内地及び周辺山林は「桜山慈俊公挙兵伝説地」。室町後期に後醍醐天皇の笠置挙兵に呼応して楠木正成の赤坂とともに挙兵した桜山慈俊公を祀る桜山神社が境内にある。
明治社格では国幣小社。
参考 境内案内看板等 由緒書
吉備津神社正面 随神門と大鳥居
大鳥居は慶安元年(1648)造営 |
二つ目の随神門
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神楽殿 県指定重要文化財 |
拝殿 国重要文化財社殿 |
拝殿 国重要文化財社殿 |
本殿 国重要文化財社殿 |
備前焼の狛犬 |
備前焼の狛犬 |
境内摂社の延喜式内論社 多理比理神社 祭神:息長帯姫神 |
境内摂社の延喜式内論社 多理比理神社 祭神:息長帯姫神 |
大公孫樹 (乳房神) 国指定天然記念物 |
大公孫樹 |
桜山神社 |
桜山神社 |
桜山神社 |
吉備津彦神社 御池 |
14時。神辺駅から移動して新市駅に到着。沿線を散歩し始めてすでに2時間が経過しているけど赴いた神社はまだ1社のみ。電車の運転本数がさほどに多くなく日中は1時間に1本。なかなか大変なのだ。
新市駅から約1.5キロほどを北上すると「吉備津神社」。備後国の一の宮。神社境内自体は東西に延びており、北上する道路と交差する。東側に神池があり西側には吉備津神社が東面している。
参道の途中には桜山神社がある。太平記の時代、後醍醐天皇の笠置挙兵とあわせても、この吉備津神社では桜山慈俊が挙兵。赤坂の楠木正成ととも北条執権家と戦っている。桜山慈俊は夢やぶれてこの地にて滅びてしまうが、後醍醐天皇の出兵とあわせて黎明期に挙兵した点が注目にあたいする事実であった。
全国でも珍しいというふたつの神門を抜け、神楽殿の向こうを望むと立派な御社殿が目の前に広がる。両脇には備前焼と思われる狛犬が一対。味わい深い狛犬の朱と、社殿の渋さを帯びる朱の色が美しい。
境内には式内社とされる多理比理神社がある。吉備津神社そのものは式内社には列格していないが、備後国一の宮としての風格にあふれていた。
「新市神社」「穴荒神社」 (府中市中州町鎮座/福山市新市町鎮座)
御祭神:天照大神
新市町の町政に尽力した出原安太郎が昭和13年に新市町を見下ろすお旅山の地に大神を祀り建立したことにはじまる。現在、山上の新市神社は府中市鎮座、参道の下に鎮座している穴荒神社は福山市(旧新市町)に鎮座している。
新市神社 |
新市神社 |
新市神社 |
新市町の様子 |
下の穴荒神社 |
下の穴荒神社 |
吉備津神社から来た道を戻る。駅前近くまで一気に戻る。新市駅200メートル北側にこんもりとした岡があってそこに神社が鎮座していた。下にある穴荒神社は福山市新市町鎮座。岡の上にある新市神社は隣町の府中市中須町だったりするが、そこは「新市神社」。新市の町の発展に尽力した出原氏が鎮守として創建した神社は新市の町の西端部から町をを見渡す好立地に東面して鎮座していた。
「素盞嗚神社」<延喜式内社・旧県社>(福山市新市町大字戸手天王鎮座)
すさのお神社
御祭神:素盞嗚尊 稲田姫命 八王子命
創建年代は不詳。備後風土記に「疫隅の国の社」と記載される論社。(沼名前神社にも同伝承在り)
また「江隈の牛頭天王社」とも呼称。延喜式の備後国深津郡「須佐能袁能神社」ともされる。別名「戸手天王社」
当社は蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地ともされる古社。
明治初期まで神仏習合「早苗山天龍院天王寺祇園社」と呼ばれた事もあり、早苗の松の伝承を残した。
当社は備後三祇園の一社という。
七月に執り行われる祇園祭りは備後地方の夏祭りとして有名。祭終了日の深夜には吉備津神社より「無言神事」が今も行われている。
素盞嗚神社には城門二棟と櫓一棟が伝えられている。残念ながら櫓は1970年代に火災によって焼失。当神社の旧相方城門は天正年間・一五八〇年ごろの建築と推定。北門は三間一戸の切妻造の薬医門は、高麗門が普及する前の薬医門。西城門は二重楼門。現存する城門としては関ヶ原(1600年)以前の城門は当地の二門と島根県益田市にあるのみで貴重とされる。
天正15年(1587)に豊臣秀吉による山城禁止令によって相方城は廃城となっており相方城の城門が当社に移築されている。
明治社格では旧県社列格。
備後三祇園・・・福山鞆ノ沼名前神社 福山新市町上戸手ノ素盞嗚神社 三次甲奴町小童ノ佐須神社
公式サイト http://www.fuchu.or.jp/~eguma/
wikiペディア 相方城 蘇民将来 素盞嗚神社
正面 参道 |
神門 |
移築された相方城・城門遺構 |
移築された相方城・城門遺構 |
境内風景 |
社殿 |
社殿 |
本殿 |
14時に新市駅から北上して、吉備津神社。もどって新市神社をめぐって新市駅に戻ってきたのが15時30分。
隣駅の上戸手駅に行きたくても電車は来ないので歩いていく事にする。そんなに遠くはない。
神谷川をわたって直ぐの所に素盞嗚神社が鎮座している。新市駅からは約1キロ東、上戸手駅からは200メートル西の地。境内は東西に延びており、社殿は東面している。当社に使われている門は相方城から移設されたものであり、そこに歴史的な趣を感じる。
当社は蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地ともされ、備後国風土記「疫隅の国の社」記載の神社論社という歴史の古さもあり、吉備津神社と並んで備後国一の宮として格を備えている。私の住んでいる場所はどうも無縁らしくいまいち「蘇民将来」の実感が沸いてこないので、ふーんで終わってしまったのが今思えば悔しい事ではある。
16時過ぎ。上戸手駅から移動することにする。
「甘南備神社」<延喜式内社・旧県社>(広島県府中市出口町鎮座)
かんなび神社
御祭神:事代主神・大国主神・少彦名神
相殿:龍王神
元和天皇の和銅元年(708)に備後国に悪疫が大流行し、国守であった佐伯宿禰麿が日頃より崇敬する出雲美保大神(事代主神)の御分霊を三室山に奉斎したところ悪疫が収まったという。そのことに感謝した備後の住民たちが神殿を造営して父神の大国主命と少彦名命をあわせて祀ったことにはじまる。
相殿の龍王神は元正天皇養老7年(723)に旱魃のため草木が枯死してしまったところ、藤尾村の龍王神が「吾前を三室山の甘南備神社に合わせ祀らば早災を除くべし」といい、その御神託のよって合祀されたという。
明治社格では旧県社。
現在の本殿は宝永3年(1707)に福山城主であった松平(奥平)下総守忠雅(のち伊勢桑名に転封)が造営。
拝殿は大正13年2月造営。
社殿後方の三室山には古代祭祀の磐座多数とされる。周辺は「三室山公園」として整備されている。
公式サイト 甘南備神社 http://www.ne.jp/asahi/kamnabi/jinja/10.htm
三室橋と出口川、うしろに甘南備神社一の鳥居あり |
出口川と門前町並みの様子 |
甘南備神社 一の鳥居 |
甘南備神社 参道 |
甘南備神社 拝殿 |
甘南備神社 拝殿 |
甘南備神社 拝殿 |
甘南備神社から参道側を |
甘南備神社 本殿 |
甘南備神社 本殿 |
新市駅、上戸手駅から移動して府中駅へ。時間は16時20分。駅から北西方面に1.5キロほど歩く予定だったがすでに歩くのがおっくうだったりもする。ちょっと疲れてきているらしい。時間も夕刻に迫っていたので楽をしつつタクシーを使って16時30分に神社に到着。
竜田川(出口川)が門前を流れ、石見街道(石州街道)の宿場として「出口町」を形成し、その中心が甘南備神社。水がすさまじく綺麗で気持ちがよい。おもわず川岸に降りて水と親しんでしまう。
石見銀山から通じる石州街道が山中から開けた場所にようやくでることができるのがこの「出口町」であるという。
川と神社と山。この三社がそろうと完璧な様相をかもしだしてくる。気持ちの良い空間がひろがる。一番奥まで赴くと、赤く彩られた本殿が木々の合間に姿を見せてくれた。出口の町並みを含めて今度はゆっくりと付近を散策したいと思わせるところであった。
「小野神社」<備後国総社>(広島県府中市元町鎮座)
祭神:
押媛神 第6代孝安天皇妃。第7代孝霊天皇の御母
吉備武彦神 吉備津彦命の御弟である稚武彦命の御孫 のちの吉備国惣領となる。
もともと備後国の総社とされる「総社神社」の社地に鎮座していたが(旧鎮座地は明証でない)、貞享5年(1688)に現在地に社殿を造営して遷座。現在の社殿は昭和9年造という。
境内社:総社神社 祭神:国常立神
参考 境内案内看板等
小野神社 入り口 |
参道 神門 |
社頭から府中の町を望む |
小野神社社殿と備後国総社神社(右側) |
本殿 拝殿 高台に鎮座 |
備後国総社神社 |
甘南備神社から歩く。やっぱり1.5キロほどを東に。小野神社に備後国総社が合祀されているというので赴いてみる。
20分ほど歩いて17時10分に到着。
府中の町の北東に鎮座し、高台から町を見下ろすように南面している。そんなに広い境内ではないけど、きちんと神門があり、そして社殿の脇に整然と摂末社群が並んでいた。
「木野宮神社」(広島県府中市元町鎮座)
祭神:日本武神 景行天皇皇子
創建年代は明らかではないが当地の地主神として古くから鎮座。慶安元年(1648)に再興記録がある事から小野神社遷地よりも古くから当地に鎮座していた事がわかる。従来は現在地より上方(木野宮荒神社)に鎮座していたが、大正6年に現在地に遷座。
昭和9年に小野神社が社殿を改築するにあたり当社を仮殿としている。
小野神社からさらに東に赴く。元町地区でもっとも古いであろうとされる神社。地図をながめて近そうだったので赴いてみた。小野神社からは300メートルほど南東に鎮座。南面している。ちいさな神社であれ度、よく整備されていた。ブロック塀をつかったベンチが整然とならんでいたりして、よく手入れされている様子が好ましかった。
18時。福塩線沿線神社詣でを駆け足で終了させて、福山駅に戻ると19時。この日は福山駅で宿泊。翌日に福山駅周辺の神社を詣でたら、またまた尾道を散歩する予定であった。
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