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「郷土の鎮守様〜文京区南部の神社散歩」

<平成22年5月参拝記載>

  「諏訪神社」「北野神社(牛天神)」「小石川大神宮
  「出世稲荷神社」「讃岐金刀比羅宮・東京分社
  「三河稲荷神社」「櫻木神社」「湯島御霊社」「妻恋神社

  「文京区西部の神社
  「文京区北部の神社」(準備中)


  文京区の神社地図
 



5月の良く晴れた朝。出勤前に神社散歩。今回は思い立って文京区の神社。まずは飯田橋駅で下車。



「諏訪神社」 (文京区後楽鎮座)

御祭神:健御名方命・八坂刀売命

創建由緒不明。明徳元年(1390)鎮座とされる。北野神社が兼務。
昭和33年に社殿再建。鳥居は昭和55年建立。


諏訪神社拝殿

諏訪神社本殿

午前8時15分。
飯田橋駅より北上約700メートル。住宅地の中に鎮座している。社殿は東面。現在の住所は「後楽」であるが、昭和39年までは諏訪町と呼称されてきた。
境内は諏訪社と稲荷社。町の鎮守として人々の交差点ともなっているようだ。私が参拝していた間も通りかかる人がいた。




「北野神社(牛天神)」 (文京区春日鎮座)

御祭神:菅原道真公

寿永3年(1184)源頼朝東国追討のとき。この地の入り江に船をつなぎ、波が凪ぐのを待っている間、夢に管公が牛に乗って現れ頼朝に二つの吉事があることを告げ武運満足の後には社を営み報いるべきと託される。夢から覚めて傍らを見るに一つの岩石があり管公が乗られた牛に似ているのでこれを奇瑞とした。同年には頼家が産まれ翌年には平家滅亡。その吉事に報い元暦元年(1184)に創建した。
昭和43年に現社殿および現社務所を再建。

境内の太田神社は芸能神・福の神として崇敬されている。

太田神社
御祭神:天鈿女命・猿田彦命

もともとは貧乏神といわれた黒闇天女(弁財天の姉)を祀っていたが江戸のころに近くに住んでいた貧乏旗本の窮状を救ってからは福の神として庶民の信仰を集めるようになったという。
合祀の高木神社は旧第六天町(現・小日向1丁目)にあった五穀豊穣の神である第六天社を遷座したもの。

公式サイト http://www.ushitenjin.jp/



北野神社(牛天神)拝殿

牛天神



頼朝公にちなむ「ねがい牛」
これは頼朝公の夢枕に立った管公が乗っていた牛が
石の姿に変わったものといわれ「牛天神」の発祥ともなっている。
「撫でると願いがかなう」という伝承もここが発祥。

御神木「モッコク」

小さな梅の実がなっていました。
これをみると「天神」らしさを感じます

8時30分。
諏訪神社より北東に200メートル。後楽園駅から西に約500メートル。警視庁第五方面本部・文京区立第三中学校の南側の高台に鎮座。近くには牛天神下という交差点もある。
ちょうど神社の人が朝の準備をしていた。邪魔をしないように参拝。御神木の「モッコク」はすがすがしく緑を蓄えており、その回りにはちいさな梅の木が実を蓄えていた。かわいらしい実がほほえましい。

拝殿前には頼朝公にちなむ「ねがい牛」がある。これは頼朝公の夢枕に立った管公が乗っていた牛が石の姿に変わったものといわれ「牛天神」の発祥ともなっている。「撫でると願いがかなう」という伝承もここが発祥。不思議なことに「牛石」といわれるとだんだんとその姿に見えてくるのが面白いところではある。

朝が早かったので御朱印を頂戴するのは遠慮しておく。さすがにまだ9時前だと準備はしていても社務所自体は開いていないから気が引けるのだ。




「小石川大神宮」 (文京区小石川鎮座)

御祭神:天照皇大神

伊勢神宮総代の佐佐木勝造翁の主唱に基づき伊勢の神宮より、昭和41年2月24日付けを以って皇大神宮別大麻(特別御神璽)を奉祭し昭和41年3月7日に伊勢神宮遥宮として創建。
本殿は南面し、拝殿は西面という立地環境となっている。

参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/小石川大神宮


小石川大神宮

小石川大神宮

わずかにみえる本殿の屋根

9時。
春日通の北側。中央大学理工学部の北東に鎮座している。牛天神からは北東に道なり約500メートル。
神社の入口は西面しており、拝殿も西向き。ただ本殿社殿は南を向いているという面白いレイアウト。さらには神社正面にビルが建ち、両サイドにもビルが建っている。一見するとこの空間に神社が鎮座しているということ自体が不思議な感覚。すぐ隣は奉祭した佐佐木さん一族の住居。私祭のようでいてそうではない伊勢神宮の東京遥宮。都内には伊勢神宮遥拝所として東京大神宮や芝大神宮などもあるが、それらともちょっと毛色の違う伊勢の遥拝所。このミスマッチな環境が逆に神威的なものを感じられる空間となるのかもしれない。



「出世稲荷神社」(春日稲荷神社) (文京区本郷鎮座)

御祭神:宇迦御魂命

寛永7年(1630)の鎮座という。
春日局が宅地の鎮守のために勧請。のちに春日局が出世したことから出世稲荷とい崇敬。
春日局は、本名は斉藤ふく。明智光秀の重臣であった斉藤内蔵利三の娘。のちに徳川家光の乳母となり江戸城大奥内で力を振るった。享保2年(1717)に社殿は焼失し、京都稲荷山の千年過杉でご神体を再建という。
当地は春日局にちなみ古くは「春日殿町」と呼ばれ、のちに春日町となった。

昭和40年に社殿建立。昭和50年に鳥居建立。


9時15分。
小石川大神宮より東に赴く。春日通りから白山通りへ。春日町の交差点の200メートルほど南に鎮座している。後楽園駅からは東に100メートル、春日駅からも南に100メートルといったところ。
神社は西面。社殿の後方は台地となっており、境内地の半分は児童公園となっている。
ちょうど私が訪れたときに地元の参詣者が一名。こういう小さな社でも、参拝をしている方を拝見すると気持ちホッとする。
春日の局にまつわる神社と参詣をしてみてはじめて知る。こういう地味でもちょっとした雑学が得られるのが面白いのだ。




「讃岐金刀比羅宮・東京分社」 (文京区本郷鎮座)

御祭神;大物主命・崇道天皇

もともとは私祭祠として文政2年(1819)に創立され明治13年に「金刀比羅神社」として公認神社となる。
明治21年に「金刀比羅宮境外末社」と改称し神田区和泉町に鎮座。
明治26年に深川区古石場に移転。
大正12年の関東大震災、で社殿焼失。再建後に昭和20年の東京大空襲により再び社殿焼失。
幸いなことに御霊代は讃岐本宮に仮遷座した。

金刀比羅宮東京分社再建用地として、昭和31年1月に元高松藩主松平家より寛政5年(1793)創建の高松松平下屋敷邸内祠金刀比羅神社境内地を讃岐本宮に寄進。
昭和39年に本殿再建し松平家邸内社も合祀し遷座。


9時25分。
春日の出世稲荷より南下すること約400メートル。ここまでくると水道橋駅が近く、水道橋駅からは北に200メートルといったところ。

讃岐金毘羅宮東京分社。境内の北側は「水道橋こんぴら会館」。境内の南側は駐車場と「宝生能楽堂」。神社は金毘羅のほうを向いて西面している。参道には集中的に樹木が埋まっており、足を踏み入れたとたんに涼やかな気持ちとなる。
社殿は大きく、境内の半分を社殿が占めているのではといったあんばい。ちょうど神職さんが拝殿内で祝詞をあげていた。このパターンだと案の定で社務所には誰もいらっしゃらない。そんなわけで御朱印は又の機会。都内のこのあたりの神社であればいつでも来れるのだ。といいつつ、私がここにきたのははじめてだったのだが。




「三河稲荷神社」(三九さま・三河神社) (文京区本郷鎮座)

御祭神:宇迦御魂命

三河国の碧海郡上野庄稲荷山に鎮座し徳川家康公が三河に在城していたころから崇敬していたという。
天正18年(1590)江戸入城に際し社殿を吹上に造営した。
慶長11年(1606)に大縄地の氏神として遷座、元禄7年(1694)に鎮座地が本郷元町と改称し町の氏神として崇敬。
明治元年に地続きの浄土宗昌清寺囲となり、本郷元町二丁目に遷座。明治26年3月に本郷給水所が設置されるにおよび現在地に遷座。大正12年の関東大震災で社殿焼失。翌年、再建。社務所は昭和58年に改築し現在に至る。

公式サイト http://www1.tcn-catv.ne.jp/mikawainari/


実はこの神社は参拝を忘れていたのだ。
この項目ではあたかも金刀比羅宮東京分社のあとから参拝したような並びであれど、当時はすっかり抜け落ちて「櫻井神社」に行ってしまっていた。なので夕方に行きなおししたのだ。

金刀比羅宮東京分社からは東に約300メートル。本郷三丁目駅からは南に300メートルの地に鎮座。壱岐坂通りの近く。社殿は東面。
都内であれど、三河。由来をみるに三河発祥の稲荷さん。家康公と共まいった由緒を持つ。
境内は良く整えられており、都会的な整備がされていた。気がつけば境内は足元も整備されており土で汚れることがない環境。静かな住宅街の中に鎮座していた。




「櫻木神社」(櫻木天神) (文京区本郷鎮座)

御祭神:菅原道真公

文明年間(1469−87)、太田道灌江戸城築城の際、管公の神霊を京都北野より江戸城内に勧請。のちに湯島台坂上の旧桜の馬場の地に遷座したことから「櫻木神社」と呼称。
東山天皇のころ、徳川将軍綱吉が同所に昌平校設立の計画があがり本郷の地に遷座し現在に至る。
昭和20年の戦災で社殿焼失。その後は仮殿にて祭祀が行われ昭和32年に鳥居、昭和34年に社殿建立。昭和40年に玉垣建立。昭和49年に社号標建立。

公式サイト http://www5c.biglobe.ne.jp/~sakuragi/


9時40分。
金刀比羅宮東京分社から櫻木神社に到着。あとからこの間の一社に参拝を忘れたことに気がついたがこのときは気がついていなかった。手元の地図でマーキングを忘れていたようだ。
再び春日通りに戻ってきて、駅でいうところは本郷三丁目駅すぐ近く。
社地はさほどに広くない。間口は鳥居分の広さしかく、参道は樹木で覆われている。一歩足を踏み入れれば春日通りの喧騒を忘れるような静けさ。まさに結界が張られたかのように様相が一変する空間。これが神社ならではの風観なのだ。
桜の木の季節ではなかったので、なんともいえないがサクラサクの櫻木の天神様。東大の程近くでもあり学問の神様として崇敬は篤そうだ。




「湯島御霊社(畑の稲荷神社)」 (文京区湯島鎮座)
           (はたのいなり)

御祭神:崇道天皇・井上皇后・伊予親王(他部親王)・火雷天神・橘逸勢・吉備大臣・文屋宮田麻呂・藤太夫人

相殿神:与財恵門稲荷・大己貴神

旧湯島新花町住人の氏神。通称は「畑の稲荷」「大根稲荷」「新花稲荷」。
昭和40年までは当地は湯島新花町と呼称されていた。

国家守護・皇后御産土神・住民擁護の崇社として上野東叡山大明院宮によって京都御霊神社より御分霊を賜り宝永7年(1710)に現在地に鎮座した。上野山に徳川家の墓所建築のために輪王寺宮御隠居屋敷がなくなったことにより当地が代地として隠殿が設置されたことにも関連する。
その後、輪王寺宮がなくなり隠殿は廃止され跡地は菜園となり大根畑・御花畑と呼称された。神社はそのまま周辺住民の崇敬をあつめ産土神として今日に至っている。

当社は「御霊八所神社」と呼称していたが大正12年に「御霊神社」に呼称を改めた。
昭和20年、戦災によって社殿全焼。戦後は仮社殿にて推移し昭和45年に社殿再建。正面鳥居は昭和56年、脇鳥居は昭和47年建立。


御霊社だけど、お狐様

稲荷の神様も合祀です

10時。
櫻木神社のあった本郷三丁目交差点からは約700メートル南東。日本サッカーミュージアムのある近所の鎮守。このあたりも住宅街なのだ。
社殿は東面。ちょっとした斜面に鎮座している。
ちょうどリフレッシュ塗装とでもいうような感じで、業者の人が社殿を塗装をしていた。そんなさなかで邪魔にならないように参拝。
業者の人も気を遣ってくれたのが、写真撮影の合間は休憩をして外してくれた。
御霊神社であれど、稲荷神社の佇まい。相殿神に稲荷が祀ってあるからか、お狐様がが参道に鎮まっていた。ちょっと不思議な感じ。




「妻恋神社」(妻恋大明神・妻恋稲荷) (文京区湯島鎮座)

御祭神:倉稲魂命・日本武尊・橘媛命

創建年代は定かではないが、4世紀頃とされている。
第52代嵯峨天皇(809−823)の勅命により関東惣司に列し「関東総司妻恋大明神」と呼称。
以前は現在の湯島天満宮南東の台地「妻恋台」に鎮座。
明暦3年(1657)の振袖火事によって万治3年(1660)に現在地に遷座。
昭和の戦災によって社殿焼失。昭和29年に復旧。

日本武尊が東国征討に赴き、走水の渡しにて后の弟橘姫命を失った帰路途中に湯島の地に滞在したということもあり「あづまはや」と詠った意をとり「妻恋明神」と称したという。当社はそのときの行宮の一つであったともいわれている。

また、「ユシマ」とは「聖なる水際の地」という意味があるともいわれ、この地は古くからの稲作地でもあり五穀豊穣を祈る稲荷が祭られ「妻恋稲荷」とも呼称されてきた。
江戸期に流行した「稲荷番付」ではは当社は関東惣司(関東地方の稲荷の総元締め)という立場から「行司」役であった。

江戸期には妻恋稲荷として王子稲荷(稲荷番付では勧請元とされる)ともに人気を博した稲荷神社であった。
正月2日の晩に枕の下に敷いて寝ると良い夢が見れると伝承された「夢枕」が売れ出され流行した。版木は戦災で焼失したと思われていたが昭和52年に偶然発見され再び頒布されるようになった。


妻恋神社

関東総司 妻恋神社

境内の稲荷社

境内の稲荷社(左)と馬頭観世音

こちらは実は別の日に参拝。まだ桜が咲いていたころの参拝なのだ。
ただ鎮座位置としては上記の御霊神社の近くであり約250メートルほど南東に行ったところに鎮座。近くには神田明神があり実際には150メートルほど南の台地に神田明神は鎮座している。妻恋神社はその北側の台地なのだ。

この界隈は何故かラブホテル街となっておりカメラをぶら下げて歩くには少々気持ち悪い環境。もっとも神社の境内に入れば関係ないが。
江戸時代に編纂された「稲荷番付」だと、当社は「行司役」。当社「妻恋稲荷神社」と「王子稲荷神社」が特に格が高いものとされている。いまでこそ稲荷らしさがあまり感じられない神社ではあるが往時は大層な人気だったのだろう。
どうやら噂によると祭事のときでないと神社の人はいないらしい。まあ、そのうち御朱印をいただければといったところか。



今回の文京南部編は、これにて終了。
湯島天神」とかはよく通っているので割愛。
次回は文京西部を予定。




参考文献等
各神社境内の案内板等

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