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「郷土の鎮守様〜文京区北部の神社散歩」

<平成22年6月参拝記載>

  「腰掛稲荷神社」「弦巻稲荷神社」「吹上稲荷神社
  「簸川神社」「巣鴨大鳥神社」「駒込富士神社
  「天祖神社(駒込神明宮)」「満足稲荷神社(東山稲荷神社)

  文京区の神社地図

  「文京区南部の神社散歩
  「文京区西区の神社散歩





掲載順
1「腰掛稲荷神社
2「弦巻稲荷神社
3「吹上稲荷神社
4「簸川神社
5「巣鴨大鳥神社
6「駒込富士神社
7「天祖神社(駒込神明宮)
8「満足稲荷神社(東山稲荷神社)

午前7時30分。護国寺駅。今回の早朝散歩はここからスタート。
気持ちとしては「不忍通り」を軸にして文京区北部を踏破する予定。



「腰掛稲荷神社」 (文京区目白台鎮座)

御祭神:豊受姫命

創建年代ははっきりしないが、徳川家光公が鷹狩の際にご休憩なされた傍らの祠をご信仰なされた。その後にこの祠に「正一位御腰掛稲荷大明神」と奉称し近隣の氏神となったされる。
明治6年2月に社名を氏子町名から「豊川神社」とするが明治7年に「稲荷神社」と改称。

鳥居は大正13年建立。昭和40年に本殿・拝殿を改築。社号標は昭和58年建立。

境内には崇敬者より奉納された「菊花石」というものがある。
岐阜県本巣郡根尾村に産する岩石。割った切面に美しい菊花状の模様が現れる。


境内に奉納された菊花石

護国寺駅からちょっと迷って7時45分。腰掛稲荷神社に到着。手元の地図でマーキングに失敗して小道をさまよってしまった。実は前回の文京区神社散歩のときに吹上稲荷神社に足を伸ばしていたのだが、こっちは探索がおざなりで見つけられなかったのだ。
社殿は南面。不忍通りが首都高5号池袋線と交差する南側の路地に鎮座。すぐ隣は筑波大付属視覚特別支援学校。

早速歩きつかれたので境内で腰掛けてみるのは神社名に敬意を表してのこと。
境内には「菊花石」という珍しい石が奉納されていた。これは面白い。始めて見たが断面のあっちこっちに菊の花が咲いている。思わず神社よりも菊花石に見入ってしまうのも致し方がないだろう。




「弦巻稲荷神社」 (文京区目白台鎮座・神社庁所管外の神社)


由緒不明。一説には上記「腰掛稲荷神社」と由緒を同じくするともされている。
すなわち徳川家光公が鷹狩の際に、休息なされた場所の傍らの小祠が「弦巻稲荷神社」とされ、のちに村人たちが家光公の伝承をするために「腰掛稲荷神社」を建立したと。
現代は首都高速建設の為に遷座し、ビルの狭間にひっそりと鎮座。


午前8時。
正確な位置がわからなくて、ちょっと近隣を散策。結局わからなくて諦めて護国寺駅方面に戻ろうかとしたらありました。
腰掛稲荷神社の北側。不忍通りに面して、ちょうど腰掛稲荷神社と背中あわせに鎮座するかのようにこちらは北面。
ビルとビルの間の空間に鎮座。これはなかなかすごい環境だ。参道?がマンションの入口ともなっており、社殿のすぐ脇には郵便受けが並んでいる。まさに都市型。それでもこうして稲荷様は大切に綺麗に祭られていると言うのが安心できる環境である。



「吹上稲荷神社」 (文京区大塚鎮座)

御祭神:保食之大神(うけもちのおおかみ)

創立は元和8年(1622)、二代将軍徳川秀忠が下野国日光山より稲荷大神の御神体を戴き「東稲荷宮(あずまいなりぐう)」と称して幕府が崇敬したことに始まる。当初は江戸城内の紅葉山吹上御苑に「東稲荷宮」として鎮座していた。

のちに徳川家から水戸分家の松平大学頭家、正徳年間(1711−16)に豊島郡小石川御組屋敷御箪笥町(現在の大塚1丁目・小日向4丁目の一部)に遷座。

宝暦元年(1751)に大塚村の鎮守として善仁寺に遷座。もと江戸城内鎮守だったことから「吹上稲荷神社」と改称。

その後年代不詳ながら護国寺月光殿に遷座。
明治5年の神仏分離によって大塚上町、そして大塚仲町に遷座。明治45年(1912)に大塚坂下町の現在地に遷座し現在に至る。


菊の御紋のみえる賽銭箱

稲荷宮の扁額

実はこの吹上稲荷神社は今回の散歩ではなく前回の文京区神社散歩で行った神社。
コース的には護国寺のすぐ隣なので今回のレポートで掲載。

護国寺の隣に豊島岡墓地。そのすぐ東隣に当社は鎮座している。護国寺駅から北東に600メートル。新大塚駅からは南に500メートルと行った場所。社叢の緑はそのまま豊島岡墓地に連なっている。樹木の風にゆらめく葉音が気持ちよい空間。
拝殿の賽銭箱には葵の御紋がはいっている。さすが徳川家ゆかりの神社といった貫禄を感じられた。




「簸川神社」 (文京区千石鎮座)
 (ひかわ)

御祭神:素戔嗚尊

当社はもともと現在の小石川植物園の御殿坂辺にあった貝塚の中の古墳上に第五代孝昭天皇の時代に創立。
承応元年(1652)白山御殿造営のため原町に移され、さらに元禄12年(1699)に景勝の地ということで現在地に遷座。
八幡太郎義家が参籠した古社ともされ、中世には了誉上人の再興により江戸名所のひとつになり、小石川総社として崇敬。
明治23年には畏くも皇太子であられられた大正天皇が植物園にお成りのみぎりご参拝あらせられた。

昭和20年に戦災により焼失。
昭和23−24年に仮殿により再興。昭和33年に社殿再建。
社号標は昭和15年、紀元2600年記念で建立。大鳥居は昭和41年建立。


境内社の狛犬は寛政11年造

午前8時20分。簸川神社着。茗荷谷駅から北東500メートル。新大塚駅からは700メートル南東。東大小石川植物園の北西側の高台に鎮座。社殿は南東を向いている。

境内はとてもよく纏まっている。綺麗過ぎるぐらいなのはやはり都会的な神社の雰囲気。コンクリの大社造でいわば近代都市型神社。境内は駐車場化していて、そういう意味でも都市型。社務所もハイカラで近代的。
参道の瑞垣や社号標は昭和15年の皇紀2600年記念で再整備。往時のままに奉納名が残っているのは好感触。



「駒込大鳥神社」(稲荷神社) (文京区千石鎮座)

御祭神:日本武尊・保食神

創建は江戸時代初期と伝承。大鳥稲荷大明神と呼称される。昭和の戦災にて社殿焼失し荒廃。
昭和24年に豊島区鬼子母神に住める武藤某氏、ある夜に夢枕に白髪の老翁が立ちていわく「東方に稲荷大明神座す。住する社なし。汝速やかに建立せよ」と。武藤氏驚いて東方を訪ねること三日、戦災に荒地と化したこの地を発見し私財を投じて稲荷社を建立。
昭和31年には社務所造営。昭和39年に本殿改修し境内整備。昭和56年に境内に子育稲荷神社を建立。昭和57年に鳥居建立。
現在に至る。


午前9時。巣鴨大鳥神社。巣鴨駅から南に300メートル。千石駅から300メートル北側に鎮座。
なんか不思議な気配がするのは、いわゆる拝殿型の神社ではないからだろうか。社殿がぽつぜんと鎮座している境内はちょっと落ち着きが足りなかった。見ようによっては仮殿にもみえる雰囲気。なんとなくではあるががんばっている気配が伝わってくる神社であった。




「富士神社」(駒込富士神社)(文京区本駒込鎮座)

御祭神:木花咲耶姫命

富士神社はもともと旧本郷村にあった。天正元年、本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間神社を勧請。
寛永6年(1629)加賀藩前田候が上屋敷(現在の東大)を賜るにあたり、その地にあった浅間神社は現在地に遷座。東大構内の一部は住居表示改正まで本富士町と呼称していた。
社伝によれば延文年間(1356−61)には既に現在地は富士塚と呼称され大きな塚があったという。一説にはこの塚は前方後円の古墳といわれる。
近世中期頃から江戸市民の間に富士講が多く発生。

大鳥居は享和2年建立。
社殿は戦災で焼失。社殿は昭和36年造。社殿前の鳥居は昭和46年建立。


境内富士塚下の下浅間社

富士塚上からみた境内の様子

富士塚

社務所兼神楽殿

9時30分。駒込富士神社。第一印象は「おっデカイ」。見事な富士塚の上に神社が鎮座していた。社殿は南面。山の下に下社があって、山の上に本殿が鎮座している。富士塚らしく奉納された富士講碑の隙間を埋めるように富士山の溶岩を垣間見れる。
山の上に上れば、背後を取り囲むように藤棚が巡らされていた。見下ろせば御神木が凛として堂々とした姿を見せてくれる。結構、居心地の良い空間だった。



「天祖神社」(駒込神明宮) (文京区本駒込鎮座)

御祭神:天照大御神

駒込総鎮守。
文治5年(1189)、源頼朝公が奥州藤原泰衡征伐に際して霊夢をみたとされ、安達藤九郎盛長に命じ霊夢の場所を求めさせたところ、当地の松の木が霊夢の場所でありそこに神明を祭ったという。その後は小祠のみがあったが、慶安年間(1648−52)に堀丹後守利直が再興。
御神木の松の木は享保年間(1716−36)に枯れてしまったという。

昭和20年2月25日の空襲により社殿焼失。昭和29年に本殿・幣殿・拝殿再建。


公孫樹並木の参道

蓋のついた手水盥。

ひょうきんな雰囲気を持つ狛犬

なかなかに毛並みが特徴的

午前9時40分。駒込神明宮着。駒込富士神社からは東に400メートル。駅レベルで言うと駒込・田端・千駄木・本駒込・千石に囲まれた空間に鎮座。

境内では神職さんが朝の清掃を行っていた。
地図でイメージしていたよりも参道が広く樹木豊かな神社。雑踏とした都内でもこういう緑あふれる鎮守の杜が点在しているからこそ、癒される空間となるのだ。この参道には公孫樹の大木が多い。参道左右に並び悠々と枝を広げていた。間違いなく秋になったら黄色く素敵な彩りに接することができるだろう。これは秋になったらまた来たい神社だ。




「満足稲荷神社」(東山稲荷神社)(文京区千駄木鎮座)

御祭神:倉稲魂命

当地は江戸時代は東叡山上野寛永寺領内輪王寺の御薪林で東山と呼称されていた。
明和4年(1767)正月に東叡山御薪林の住民が京都伏見稲荷大社宮司の羽倉摂津守信郷から御神体を授かり勧請。
当初は駒込神明宮の境外末社であった。
昭和27年に社殿復興。現在に至る。

ちなみに満足稲荷という呼称は、豊臣秀吉が文禄年間(1592−96)に伏見桃山城の守護神に伏見稲荷を勧請してから幸運に恵まれ「満足、満足」と呼称した故事によるという。


午前10時。千駄木駅200メートル西に鎮座。
ちょっと迷ったのは入口がわかりにくかったため。住宅地の中に忽然と社号標があって、左に90度曲がったあべこべの方向に参道が伸びていて更にその左90度に社殿が西面して鎮座していた。

境内の手前は公園となっていて、窮屈そうに社殿は公園奥に鎮座。ドクダミの花があっちこっちに賑やかに咲いていた。


今回の神社散歩はこれにて終了。11時からは仕事なのだ。





参考文献等
各神社境内の案内板等
東京都神社名鑑

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