郷土の鎮守様〜調布市布田国領周辺の神社 平成20年12月
国領神社・布田ノ白山神社・古天神公園(延喜式内・布多天神社旧地)・下石原ノ八幡神社
12月の冬至。いい天気だったので、前回に引き続きまたまた近所の神社を嫁と一緒に散歩してみた。
国領神社 東京都調布市国領町1−7−1鎮座 旧村社
御祭神 神産日命(かみむすびのみこと)もと第六天社
建速須佐之男命・天照大御神 もと八雲神明社
境内社 稲荷社
旧国領地区・旧矢ヶ崎地区の総鎮守。染地地区は布多天神と当社で氏子域を二分しているが、染地自治会は当社の祭礼に参加している。
かつて国領神社は「第六天社」と呼称されていた。第六天社の創建年代は不詳。
「第六天社」は鎌倉時代のころまでは多摩川のほとり『杉森』の地に鎮座していた。
度重なる洪水に見舞われ、1640年頃に管理寺であった常性寺が甲州街道筋に移動した際に国領町148番地(現在の八雲台一丁目・八雲台小学校裏の都営住宅の所)に遷座。
その後、明治社格制度で「村社」に列格。社号改称し「国領神社」と呼称。
杉森の地には「第六天社」のほかに「八雲神明社」もあり「杉森神明社」とも呼称されていた。(元鎮座地は杉森小学校の近く)
八雲神明社は荻窪・小川・小林等の一族が鎌倉より移住して祈願した事に始まるという。
八雲神明社も常性寺の管理下にあり、建速須佐之男命・天照大御神を祀っていたが、やはり1640年頃に常性寺が甲州街道筋に移動した際に現在地(国領町一八二番地)に遷座。
それぞれの神社が独立をしていたが、昭和37年に旧国領神社境内地隣に都営住宅が建設される事となり、やむなく境内地を移譲。
昭和38年に旧国領神社が八雲神明社に境内に遷座し、社名を改めて「国領神社」として総称する事となった。
八雲神明社が移動してきた際に藤の大木があった当地に遷座。
藤の大木は樹齢400−500年と言われ、人々が畏敬の意を込めて「千年乃藤」と呼称。以前はケヤキの大木に絡まっていたが落雷のために朽ちてしまったため昭和47年、面積400平方メートル、中央にケヤキの代わりに高さ12メートルの電柱を立てて、現在は藤の木が電柱まで上り、そして下がって広がってきている。毎年4月下旬−5月上旬にかけて開花。
境内社は稲荷神社。「カサモリ稲荷」「八雲稲荷(荻窪稲荷)」
カサモリ稲荷は昭和38年に第六天社(旧・国領神社)移転に際して現在地に遷座。明治45年の刻銘あり。
八雲稲荷は小田原北条氏の落ち武者であった荻窪玄蕃守が当地に邸をかまえ鬼門除けに祀ったとされている。もとは荻窪稲荷とも称された。村内の神明社に祀られていたが、昭和38年に八雲神明社の土地に第六天社が移転してきたときに境内末社となった。大正11年の刻銘あり。
参考・国領神社公式サイト http://kokuryo-jinja.jp/
歩道橋からみた境内 |
正面 |
藤棚と拝殿 |
拝殿 |
本殿 |
御輿舎内部に御輿と大太鼓がありました |
社殿脇の末社鎮座地 |
稲荷社が2社仲良く並んでいました |
藤棚 |
藤棚 |
藤棚を上から |
こんな立体的な藤棚はみたことありませんでした |
現在の甲州街道に面にして北面鎮座。京王線布田駅より北側に向かって歩くと当社に到着できる。
もともとは神明社があった土地に国領神社が遷座してきたと由緒にあり、建物を見ればなるほどわかりやすい「神明造」をしていた。
この日はやっぱり嫁と一緒に神社詣で。参道脇の大太鼓に驚きを感じてみたりする。
拝殿のお賽銭箱の手前には、ちょうど訪れた日が冬至(12/21)ということもあって、もぎたての「柚子」がたくさんおいてあって、「ご自由にお取りください」とあった。ささやかではあれど、こういった心遣い気遣いがある神社に出会えると地元に愛されている感が感じられて嬉しくなる。おもわず嫁と一緒によろこんで柚子を頂戴してみる。
御朱印を戴こうかと思って社務所に伺ってみるも、応対してくれたご婦人が「今日は、御朱印をかける人がいないんです。また来て貰えますか?春にでも藤を見に来てください」というようなことを言ってくださいました。御朱印をかける人がいないのであれば仕方がないです。私は国領神社の藤をまだみたことがないので、もちろん藤を見に来る予定。家の近くといえば近くなので、御朱印はそれよりもはやく頂戴しに来るとは思いますが。
布田ノ白山神社 調布市布田5−32
祭神 菊理媛神
上布田南山谷の鎮守。創建の由来由緒は不詳。現在は布田南部自治連合会域の鎮守社。
境内末社の天王社と御嶽社は本殿に合祀されている。
従来は布多天神社の氏子でもあったが、昭和47年に社殿造築以降は独自色を強めている。
調布駅と布田駅の中間地点、品川通りの南側に鎮座。交差点の一角に鎮座しており、開放感にあふれている。拝殿は昭和46年建立。目の前の道路「白山通り」が平成9年に拡幅工事が行われ社地も整備された。
このとき私たちは国領駅からだらだらと品川通りを歩いて白山宮に到着。境内にあった手作り感あふれる木のベンチに腰を下ろして休息するひとときが気持ちよかった。
古天神公園(延喜式内・布多天神社旧地)
現在、甲州街道沿いに鎮座している「布多天神社」は、文明9年(1477)に多摩川の洪水をさけ旧鎮座地「古天神」(ふるてんじん)から現在地に遷座している。その際に主祭神の少彦名命に菅原道真公を配祀したとされる。 近年、旧境内地とされる古天神公園を含む上布田遺跡より奈良平安時代の住居跡も見つかっている。 <調布市ホームページ>
布多天神社記事へ
古天神公園入口 |
神社しのぶものはとくにありませんでした |
白山宮のすぐ南にある公園。いまは往事の面影をしのぶものはなく「古天神公園」という名称が布多天神の古跡を伝えている。
公園には四季折々の木々も植えられていて、遊具も整っていた。付近は住宅地として整備されており親子連れがのんびりと遊ぶ憩いの広間として活用されていた。
下石原ノ八幡神社 調布市富士見町2−1−11 旧村社
祭神 応神天皇
下石原地区の鎮守。当地の領主であった太田善右衛門(太田資忠(=太田道灌の弟とも甥ともいう?)を祖とするという)が太田氏の勧請にかかったものとされている。
当地領主太田氏の菩提寺源正寺より祭礼の際に3匹の獅子舞を出す古例あり。石原の獅子は3頭「王獅子」「中獅子」「女獅子」で一組とされ、元禄時代に源正寺の住職自らが作ったものと伝えられている。悪疫が流行したときに獅子頭をかぶって村中を舞い歩いて悪病を追い払ったともいわれている。
現在でも祭礼の際に源正寺と八幡社のあいだで獅子舞の巡礼が行われている。舞いは「道中の舞」と王獅子・中獅子が女獅子を取り合う「土俵の舞」の2種類があり長時間を要する「土俵の舞」は特別なときにしか行われていない。
明治4年村社列格、大正4年に無格社、あわせて稲荷社を合祀。昭和15年に再び村社列格。
境内社は御嶽社・神明社
境内には弘化三年(1846)造の常夜灯があり、灯台座に「秋葉社」「神明社」「八幡社」の刻銘ある。
堅牢地神の碑もあり天保13年造、伝承はなし。
参道と拝殿を歩道橋から |
参道 |
社殿 |
正面 |
境内には弘化三年(1846)造の常夜灯 |
堅牢地神の碑もあり天保13年造 |
夕方16時過ぎ。この日は12時頃から散歩を開始して、かれこれ4時間ほど経過。途中で図書館によったりもしたのでそんなに疲れたわけでもなし。下石原の八幡様に到達して最初に感じたのが「立派だ」という印象。甲州街道に面した正面参道こそ狭いが、中に入ってみると境内は広くとても開放感が感じられる。嫁と二人で境内の広さに気持ちよさを感じつつ、神社をあとにした。
この日は、上記の神社の他にも市内の小さな祠を見聞して廻ったが、それらの話はまた後日出来れば・・・。
参考文献
国領神社公式サイト http://kokuryo-jinja.jp/ 調布市史 民俗編 昭和63年3月発行 調布市市史編集委員会
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