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郷土の鎮守様〜東京都調布市の神社
<平成20年11月>
ひさしぶりの掲載です。大変お待たせいたしました。
実は私事ですが、平成20年3月に引っ越しました。いままでは武蔵国埼玉志木在住でしたが、現在は武蔵国東京調布に在住しております。
そんなわけで、心機一転。私の郷土の鎮守様も住む土地も環境も変わりました。
今後ともよろしくお願いいたします。
「
布多天神社
」「
虎狛神社
」「
青渭神社
」
布多天神社
<ふだてん神社・
前回掲載
・延喜式内社・明治社格:郷社・東京都調布市調布ヶ丘鎮座>
祭神:少彦名命・菅原道真公
創建年代は不詳。一説に垂仁天皇の頃創建という。
延長5年(927)に制定された『延喜式』に名前を連ねる古社。
桓武天皇の延暦18年(799)、広福長者という人物が、当社に七昼夜参籠し神告によって木綿布の製造を会得し里人たちに教えたといわれている。
これが我が国の木綿の始まりとされ、その布が調(みつぎ)として朝廷に送られた事から、以来此の付近を調布とよぶようになったとされる。
江戸名所図絵には「布多天神社の御制札には補陀郷(ふだのごう)とあり」と記載。
文明9年(1477)に多摩川の洪水をさけ、旧鎮座地「古天神」(ふるてんじん)から現在地に遷座。そのときに少彦名命に菅原道真公を配祀したとされる。
近年、旧境内地とされる古天神公園を含む上布田遺跡より奈良平安時代の住居跡も見つかっている。
<
調布市ホームページ
>
江戸時代に甲州街道がつくられ、調布界隈には「上石原」「下石原」「上布田」「下布田」「国領」の五宿ができ、布田五宿ともよばれ、当社は布田五宿の総鎮守「五宿天神」とも呼称された。
布田五宿は明治22年に飛田給・上ヶ給と合併し調布町となったことから、調布総鎮守となる。
本殿は宝永3年(1706)造営。覆殿は昭和40年、幣拝殿は昭和60年の造営。
明治社格は郷社。
天神通り商店街脇の社号標 「式内郷社 布多天神社」
旧甲州街道入り口
ちなみに天神通り商店街には「鬼太郎」モニュメントあり
境内参道 入り口
武蔵野の樹木を良く保つ社叢
参道
拝殿前
本殿
調布市内最古の狛犬(一対) 寛政8年(1796)建立
願主は「惣商人中」とあり、
すでに天神の市が境内にて開かれていたことがわかる
撮影は平成20年3月
天神らしく境内の梅がさいていました
調布駅北約500メールの地に鎮座。
旧参道が「天神通り商店街」として整備されている。旧甲州街道入り口に面して社号標も残っている。
商店街を200メートルほどすすむと甲州街道が横断しており、その先に布多天神社が鎮座。
境内には武蔵野の面影をのこす社叢が豊かに残っている。
境内地に隣接して、電気通信大学があり、周辺は閑静な住宅街。地域に愛されている気配を濃厚に感じる事ができる。
虎狛神社
<こはく神社・
前回掲載
・延喜式内社・明治社格:郷社・別名虎柏神社・調布市佐須町鎮座>
祭神:大歳御祖神・倉稲魂命
神社の創建は崇峻天皇2年(589)とされる。
狛江郷(狛江・調布)のなかでも最も早くからひらかれたところといわれ、当社はここに住居を定めた渡来系高麗人の集落神として祀られたものと推定。
延喜式内社に列する古社。ただし同名社が
青梅市根ヶ布
にもある。
佐須地区総鎮守とされ、佐須は古くは当社神主の姓を地名としたともいわれている。
明治6年に郷社列格。
虎狛神社 正面
拝殿
本殿覆殿
社地後方には野川がながれる。社頭は佐須街道。
布多天神社より北東に直線600mの野川北側に鎮座。
調布と三鷹を結ぶ三鷹通りのほど近くに鎮座しており、社殿は北面をしている。
境内はさほどに広くはないが、樹木豊かな様相をていしていた。
青渭神社
<あおい神社・
前回掲載
・延喜式内社・明治社格:郷社・調布市深大寺鎮座>
祭神:青渭大神(水神)
祭神は水波能賣大神・青沼押比賣命とも青沼馬神比賣命、一説に大池に棲む大蛇を祀ったものともいう。
創立は不詳。現在は深大寺の寺域にあり、眼下を川が流れるところに鎮座している。弥生的稲作に適した地域であり、付近に弥生遺跡がある。また豊富な湧き水があり、水神を祀ったものとされる。清水が青波をたたえていることから「青沼天神社」とも称された。
明治6年に郷社列格。社殿は平成4年竣工。境内には樹齡数百年(約600年)をほこる市内随一のケヤキの大木がある。
深大寺地区の総鎮守。
式内郷社 青渭神社
深大寺の東方に鎮座している
拝殿
本殿
社頭の大ケヤキ
虎狛神社からさらに北東すること約700メートル。市立深大寺小学校の北側に鎮座。
三鷹通りに面して東面している。
深大寺の東端に位置しており、樹木豊か。社頭には市内随一の古木を誇るケヤキの大木(樹齢600年推定)が枝を広げている。
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