「お伊勢参りの風景」続編/弐.お伊勢参り後の風景
「8.多度参り編」
<平成14年8月訪問・平成15年1月記>
「6.猿田彦神の神社編」
「7.北勢地区編」
「8.多度参り編」
いざ多度大社へ/多度大社
いざ多度大社へ
冒頭から謝るのもへんな話ではあるが、思いっきり停滞してしまい、記憶も怪しいことを書こうとしている。つまり平成14年8月の記憶を平成15年1月に書こうとしている。まあ、そんなこんなで申し訳ありません、と謝っておく。
さて、前日まで伊勢参りをしていた私は伊勢から北上して桑名に宿泊。その桑名には「近鉄北勢線」というナロー鉄道があって旅情をくすぐられるが私のスケジュールには入りきらない。まあ北勢線は昔乗っているので今回は駅からながめるだけにして早朝の「近鉄養老線」に乗り込む。こちらはナローなわけではないが、それでも近鉄線としては極めてローカルな部類に入る路線。私は「大垣−揖斐」間という養老線の北部は乗ったことがあるが、この南部ははじめて。もっとも目的駅が「多度駅」なのでたったの4駅ではある。
近鉄・多度駅 |
桑名駅にて、近鉄養老線 |
多度駅に到着したのも何時頃かは憶えていないが、デジカメの撮影データには桑名駅での撮影時間が朝6時55分となっているので、それぐらいの早朝。
多度駅から歩いて1.5キロぐらい20分ぐらいの距離に多度大社は鎮座している。道はわかりやすく、きわめて一本道であるので迷うこともないだろう。
道の途中に「宮川清めの池」という人工の池があった。この池は神域から流れる多度川の水を利用したものであり宝暦年間(1751〜64)にはこの地に存在しており、古くは垢離(こり)・みそぎ池と称し、多度大社の参詣者はここで手を洗い、口をすすいで身を清めて神域に入ったといわれている。現在は5月の祭礼の際にこの池の水で御旅所行列の途中、祭馬にそれぞれ足を清める習わしがあるという(参照・多度大社社務所解説看板)
今、私が眺める限りではかなり怪しげなる池にみえるのですけど、まあ深くは気にしないことにする。一般の参詣者はここで身を清める風習も今は無いらしいので、いわくを存じたら先に進むことにする。
さらにしばらく進むと社号標と鳥居がみえてきて、そして鳥居の先の右手にひろびろとした石段が見えてくる。いよいよ多度大社、という雰囲気が溢れており、私は身を正して足をすすめる。
宮川清め池 |
多度大社・大正七年社号標「大社多度神社」 |
多度大社・石段 |
多度大社・上げ馬神事の坂 |
「多度大社」(式内名神大社・国幣大社・桑名郡多度町鎮座・北伊勢大神宮・多度大神宮)
本宮「多度神社」
祭神:天津彦根命(アマツヒコネ命・天照大神の御子神=多度神・参照)
別宮「一目連神社」(いちもくれん神社)
祭神:天目一箇命(アメノマヒトツ命・天津彦根命の御子神・参照)
太古は標高403メートルの多度山全体を御神山として仰いでいたが創祀は不明。5世紀後半の雄略天皇のころに御社殿が現在地に建立。奈良時代末期には満願禅師が多度神の託宣をうけ、天平宝宇七年(763)に我が国で3番目に古い多度神宮寺が建立され、のちに国分寺に準じる扱いをうけ大寺院として隆盛をきわめた。
当社は延喜式神明帳桑名郡十五座のうちの唯一の明神大社「多度神社」であり、後一条天皇の時には東海道六社の一社にも数えられている。南北朝時代には「多度祭の上げ馬・流鏑馬」の神事もはじまったとされている。
中世の元亀二年(1571)に織田信長の兵火を被って衰退したが、のちに桑名を領有した本多忠勝によって社殿が再興されている。
明治六年に県社、大正四年に国幣大社に列格。
本宮「多度神社」の御祭神である天津彦根命は天照大神の御子神(須佐之男神との御誓約による第三皇子・詳細)であり、天照大神との関係から当社は「北伊勢大神宮」とも称され「お伊勢まいらばお多度もかけよ、お多度かけねば片まいり」とも謡われている。もともとは北伊勢地方の豪族=桑名首(くわなおびと・天津彦根命系統)が氏神としてお祀りした神という。
別宮「一目連神社」の御祭神である天目一箇命は伊勢忌部氏の祖神であり、日本書紀によればニニギ神の天孫降臨に従った神(参照)である。また一目連神社の神殿は扉を設けない珍しい造りである。扉を設けない逸話として、御祭神は天変地異ある毎に御魂を現して諸難を救い、時には竜神となって天翔ける、という信仰があるため。
摂社「新宮社」の御祭神は多度大社両神の幸魂(さきみたま)を祀っている。元亀二年の織田信長の兵火によって美濃の赤坂山まで御神体を一時避移させたが、30年後の慶長年間(1596−1615)に桑名城主の本多忠勝が社殿復興をしたさいに、御神体がまず「新宮社」にお迎えされたという。
第二神楽殿の奧には摂社「一拳社」(ひとこぶし社・祭神は一言主神)、境内参道途中には摂社「美御前社」(うつくしごぜん社・祭神は市杵島姫神=天津彦根命の妹神・参照)がある。
<参考・多度大社御由緒書き/角川日本地名大辞典三重県他>
多度大社摂社・新宮社 |
第一神楽殿。この脇が社務所兼第二神楽殿。 |
錦山(サラブレッド・オス・芦毛)
平成七年四月誕・浦川牧場産
ヘクタープロテスター×ダムグリス
・・・馬? 普通にウマ? |
「多度の白馬伝説」
多度山は古来より、神がおわします山と信仰されてきた。
人びとの願いを神に届ける使者の役割を果たすのが
多度大社に1500年前から棲むといわれている白馬。
神と馬との関係は深く、馬の行動を神意の現れと
判断することから、多度大社でもその年の豊作凶作を占う
「上げ馬神事」が多度祭(五月四・五日)で行われている。
<参照・多度大社御由緒書> |
境内。摂社「新宮社」の左脇に神馬舍があった。朝7時30分頃の境内に不思議な音が漂っていた。なんだろうな、と音のする方に近寄ってみると、予想もしなかった「馬」がいた。神の使いのお馬様と対面する。活発に首を振り、口元を動かし、いなないている馬は、普通に馬であった。こんな環境がなにやら無意味に楽しい。
馬もなんとなく必死の形相。馬の前には「人参一皿百円」とある皿が並んでいる。善良な人が来れば、人参をあげるのだろう。人が近づけば、馬も目の前にある人参をくれるもの、と思っているのかもしれない。私の目の前で急に活発になっていた。可哀想に「人参」がこれ見よがしに目の前に見せつけられ、それが参詣者の手の内にあっては馬もうかばれない。
境内を歩む・鳥居をぬけ、鬱そうとした緑の中にさそわれる。写真をみれば分るとおりの暗さで、私は困惑してしまう。
松尾芭蕉の句碑がある。「宮人よ 我名をちらせ 落葉川」。松尾芭蕉が多度大社に参詣したときに詠んだ句である。
その奧には落葉川へと降りる石段があり、御手洗川よろしく身を清める空間となる。こういうの好きだなあ。本当に。この川に降りる「手水場」というのが大好き。伊勢内宮・別宮瀧原宮。御手洗川ではないが諏訪大社前宮に二荒山滝尾神社など水の綺麗な神社を私も多少は知っている。川の綺麗な神社に悪いイメージはない。
驚くほどの冷たさが身にしみる。飲んでも大丈夫そうな川のせせらぎ。夏ではあるが、朝八時前。誰もいない境内を私一人が満喫する。
境内はかなり細長い。そしてゆるやかだが段差もある。多度山の斜面を実感するような境内は、樹木に被われ太陽の日差しが間接的に差し込む。理想的な神社社叢らしい神威的空間であった。
多度大社 |
多度大社境内 |
多度大社・於葺門 |
於葺門に掲げられている「多度両宮」扁額 |
左側に鎮座する本宮・多度神社 |
右側に鎮座する別宮・一目連神社 |
本宮多度神社社殿脇を流れる落葉川
(かなりわかりにくいが/汗) |
朝8時前の境内はとにかく暗かった。写真もまっくら。
明るさ補正をほどこしても、これが限界です。
誰もいないのはいいけど。
困ったことに社務所もなかなか開かなかった。
8時をすぎてからやっと社務所が開き朱印をもらえた(笑)
まあ、普通的には8時が妥当なのだろうが、
首都圈の感覚では、靖國が開門6時30分だからなあ・・・。
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境内の最深部に神橋がかかっている。落葉川は「多度神社」の正面左脇をながれ、この橋で交差する。つまり境内の大部分を川は正面右脇をながれ、この最深部の空間だけが川で隔てられている、かたちとなる。この一まで来ると川は眼下を深くながれており、さきほどの手水場のようなちかさが嘘のようでもある。それほどに境内に高低差があった。
神橋をわたると45度程度の角度で二つの社殿が相対している。「多度神社」と「一目連神社」。どちらがどちらかわからないので、橋から近い方(=右側)にまず近づいてみると「一目連神社」だった。その斜め左側に「多度神社」。奧に進めば進むほどに鬱蒼とした影に被われる境内。しずかに川の流れとセミの声だけが境内を彩っていた。
社務所があかなくて困っている。普段なら社務所には用事がないのだが、私は多度大社に魅せられていた。どうしても朱印を頂戴したくなった。御由緒も欲しかった。そのうち開くだろう、としばし待つことにする。馬と戯れながら。
しばらく待たされて8時過ぎに人の動きがみられはじめて札所の準備を巫女さんが行いはじめる。札所準備がおわればきっと掃除でもはじめるのだろうが、そんなことはどうでもいい。ようやくにして社務所で朱印を戴く。この多度大社では、はじめて女性の神職さんに朱印を書いていただいた。さすが多度、といったおもむき。何がさすがなのかはわからないが。<御朱印>
結局8時30分頃に神社をあとにする。このあとは桑名を巡って、尾張を経由して武蔵に帰国。桑名のことは「7.北勢地区編」で書いたので、もはや触れない。尾張に関しては、次回ということで、「多度大社の風景」は幕引き。
<参考文献>
多度大社御由緒書き・解説看板等
「角川日本地名辞典・三重県」
「神まうで」昭和14年・鐵道省
他
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