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「お伊勢参りの風景」続編/弐.お伊勢参り後の風景
 「7.結城神社・北勢地区編」

目次
結城神社」/「三日目の朝」/「鎮國守國神社」/「桑名城趾」/「桑名宗社(桑名・中臣神社)


 8月の紀行を11月に書く時点で間違っている。おまけに順不同で先に「6.猿田彦神を祀る神社」を書いてしまったために、もはや私の中でも紀行的順序はどうでもよくなった。「8.多度参りの風景」はさらに後日の掲載です。

 伊勢の伊雑宮と二見を散策し、11時40分に「二見浦駅」から電車に乗る。このあと北上し「結城神社」を参拝。さらに北上して「椿大神社」を参拝して桑名の旅館へ、というのが私のこの日の行動。「椿大神社」については先に書いたし、旅館のどうのこうのを書いても致し方がないので、まずは「結城神社」からはじめる。
 結城神社は紀勢本線「津」駅下車。15分毎程度で走っているバスに乗れば「結城神社前」というバス停があるので、行くのはなにも難しいことではない。




「結城神社」(別格官幣社・三重県津市結城町鎮座)

主祭神:結城宗広(贈正二位・1266−1338)
配祀神:結城親光・一族受難将士

 結城宗広は陸奥白河(福島県白河市)の白川城主。関東の名族・小山氏の分流。下総結城家も分流。
 結城家は藤原北家秀郷流武家。秀郷の後裔頼行が祖。朝光は源頼朝の挙兵に従い、旧領下総結城を分与され、姓とした。分家結城祐広は陸奥白河に移り、白河結城氏の祖となった。
 南北朝期には、下総結城氏は北朝方に、そして当社の祭神である白河結城氏(結城宗広)は南朝方に属す。結城宗広の子であった結城親朝は興国元年(1340)に長男の結城顕朝に惣領白河(白川)城主の地位を譲り、小峰と呼ばれる小丘に館を構え、自らは小峰家を分流。結城親朝は興国4年に北朝方の味方となっている。小峰結城氏は13代晴綱の代に至り、同族の小峰義親に城を奪われ、その義親も豊臣秀吉によって城を没収され、白河をひらいた小峰結城氏は白河から一掃された。
参考・白河城趾/伊達郡><参考・白川郡棚倉
 結城家全体としては、下総結城氏が勢力を得て、佐竹・宇都宮・小山らの諸氏とともに関東屋形と称された。
 白河結城氏は、白河義親の天正一七年に豊臣秀吉に滅ぼされ、下総結城氏は、一時家督が中絶したが、成朝が再興し、政勝のとき、結城・下妻・下館・長沼・小山などを勢力下にし、最盛期を築いた。結城晴朝は嗣子がなかったため、徳川家康の子松平秀康を養子とし、越前北庄六七万石を領した。松平氏を称し、越前家と呼ばれた。結城氏の正系は四男直基が継ぐ。<日本国語大辞典を参考>

 結城宗広は鎌倉北条氏に仕えていたが、後醍醐皇子護良親王から令旨を受けると天皇方に味方し、新田義貞とともに鎌倉を攻撃。後醍醐帝の新政では奥羽鎮守府将軍に任命された北畠顕家(北畠親房の子)のもとで結城宗広・親朝父子・伊達行朝らが奥州の要として多賀国府の評定衆となり、特に奥州一の豪族である結城宗広の信任は篤く実力は群を抜いていた。
 奥州を結城親朝にまかせて建武4年(1337)の北畠顕家軍の上洛に従うが、北畠顕家は戦死。結城宗広はそのまま吉野にとどまる。
 延元3年(1338)に起死回生の手段として南朝方は東国に一大軍船団を派遣。船団は伊勢湊を出港するが遠州灘で暴風雨におそわれ船団は散り散りとなってしまう。
 義良親王(後村上帝)と結城宗広・北畠顕信(陸奥介兼鎮守府将軍・親房の子・顕家の弟)は三河湾篠島に漂流し、伊勢守となっていた北畠顕能が伊勢に迎えいれる。
 宗良親王はもともと予定していた遠江に漂着しそのまま井伊城に向かう。
 そして北畠親房の船は遠く常陸に漂流し、小田城、次いで関城に入城。関東に7年間もとどまり宮方を指揮し結城親朝とひたすらに交渉(結局、親朝は北朝に与してしまうが)する一方で「神皇正統記」を書きあげる。
 結城宗広は東国に帰還できぬまま漂流先の当地(結城神社)でこの年に没している。

 結城神社の話ではないような展開(笑)、神社に立戻ろう。

 当社は地元民が「結城明神」と称えて宗広公の御墓側に小さな祠をたて「結城医王大明神」として航海安全・病気平癒の神として崇敬をされていた。
 寛永9年(1632)に津藩主藤堂高次がこの土地に八幡社を遷座したのちは古社八幡とし産土神同様に崇敬。文政7年(1824)に藤堂高兌が社殿を建築、結城明神として社地を拡張した。
 しかし次第に衰退し、明治7年の時には八幡神社付属の無格社とされてしまう。明治12年に素雲社列格。明治15年に別格官幣社に昇格した。
 昭和20年7月8日に戦災によって社殿焼失。戦後31年以降に社殿等が整備。<結城神社「参拝のしおり」・角川地名大辞典を参考>

結城神社 結城神社
結城神社 左上:結城神社入口
車進入できます

上:結城神社拝殿
絵的にすっきりと綺麗にまとまっています

左:鋳銅製狛犬としては日本一の規模
昭和12年、1メートル46センチの規模という
結城神社
結城神社境内・御墳墓入口
結城神社
結城宗広公・御墳墓(結城塚)

 結城神社バス停で下車。社地は意外と広く、境内ではニワトリが呑気にあちらこちらを散策している。ただ、境内には人の気配がまったくなく閑散としていた。
 鳥居から参道を進むと、右手には公園整備された芝生が広がり、正面は結婚式場。肝心の神社は参道を左に折れたところに鎮座。別格官幣社らしからぬ開放感にあふれており、こぢんまりとした静かな神社。
 拝殿脇の札所で、神職さんと話をして、ますますこの神社が好きになってしまう。神社を気に入る理由として「神職さんの人柄」という主観的なものもあるが、境内を散策しても一向に「別格官幣社」的かたぐるしさがなかった。

 社殿脇の神苑(しだれ梅)を抜けたところに、結城宗広御墳墓がある。奥州の南朝好きな私は、不思議なことにこの地を参詣していた。たまたま時間がありそうだったから寄り道しただけ。それでも結城宗広の面影に接しられたのが嬉しかった。

 バス停に戻って、目の前のコンビニで買い物して、そしてバスに乗り込む。バスに乗り込んで津駅に舞い戻り、14時26分の伊勢鉄道経由の快速みえ14号で四日市駅に14時47分到着。さらにバスに乗って「椿大神社」に向かったが、もっともその模様は前篇で書いた。
 椿大神社から再び四日市駅にもどって、18時43分の快速に乗り込み、桑名駅に18時54分到着。この日は桑名の宿に向かうだけだった。


「三日目の朝」
 三日目の朝というが、この話も途切れ途切れで理解しずらい。初日に伊勢神宮に参宮し、二日目に志摩の伊雑宮と二見と経由して「結城神社」「椿大神社」を散策。その日は桑名に宿泊。あえて「紀行」しているので、時系列が並んでいない。もう気にしないことにする。本音をいうと面倒くさいんですけど。
 で、この日の朝一番に「桑名駅」から近鉄北勢線にのって「多度駅」まで向かい多度大社を参拝。桑名にもどって市内を散策。その後に尾張に向かい、さらに東京に戻るという強行スケジュール。ここでは多度大社を取りの除いて桑名の話だけ書こうと思う。
 
 桑名駅前の観光案内所でレンタサイクルを無料で行っている。レンタサイクルがあると非常にありがたく、私は遠慮なく自転車をかっ飛ばし、桑名城趾にむけてこぎ出す。本来、桑名に来た目的として「伊勢神宮・一の鳥居」を見聞するため。ところが、そのことは「伊勢参りの風景」の冒頭で書いてしまった。ゆえに、省略。



「鎮國守國神社」(県社・三重県桑名市吉之丸鎮座)
祭神:松平定綱(鎮国)・松平定信(守国)
 松平定綱は徳川家康の異母弟、定勝の第三子で、寛永12年に桑名城主(11万石)となる。慶安4年に没し、鎮国大明神として寛政9年に定信が白河城内で崇敬したことにはじまる。文政6年に定永が桑名に複封された際に桑名城内に移転。松平定信は文政12年に没し、守国大明神として祀られた。
 明治8年村社、明治13年県社。(角川・日本地名大辞典)

「鎮國守國神社」
鎮國守國神社
「鎮國守國神社」前
鎮國守國神社前に備えてある何かの大砲??

神社は桑名城趾の中にある。城趾内は公園として整備されており、野球場もある。ちょうど、社頭前の広場で高校生が野球の練習をしている。その反対側にはなぜか「大砲」。静かな空間のなかに不思議と調和していた城址公園だった。


「桑名城趾」
 桑名城は古くから東海道の要路に位置する平城。戦国期に滝川一益が領有。織田信雄と秀吉が小牧・長久手で争った際には信雄に味方した徳川家康方の酒井忠次・石川数正が入城した。
 慶長6年に本多忠勝が桑名10万石で入封し本格的な整備が始まった。元和3年に松平定勝が入封し、以後は、松平家(久松・奥平)の所領となる。元禄16年に天守閣を焼失し、以後は再建されなかった。しかし天守閣焼失後も櫓数51を誇る立派な城郭で天下無双とされていた。
 幕末に際しては桑名藩主の松平定敬は会津若松の松平容保の弟でもあり、函館戦まで幕府軍に味方していたため、桑名城は官軍の有栖川軍によって灰燼に帰し、現在は幅広く縱横にめぐらされた堀が往時を偲ばせている。

桑名城趾
桑名城趾(九華公園)
本多忠勝
本多忠勝像

 城跡といっても、堀しかない。ところが「堀」が縱横に残っており、それだけでも見応えがある。長良川に直結した防衞拠点・東街道の要所という雰囲気が如実に漂っていた。
 意外と大きく、そして徳川を支えた天下無双の武人、そのままの迫力を感じさせる本多忠勝像を経由して、「桑名の渡し跡」と「伊勢神宮一の鳥居」を見聞。<伊勢参りの風景>伊勢神宮に参宮するには、通常「東海道」から「伊勢街道」を南下する。熱田神宮付近の渡し場から木曽川長良川の河口付近を横断して桑名宿から伊勢に向かう。そこでこの桑名に一の鳥居があるということになる。
 もっとも、今は周辺を公園化するために工事中で空間がかなり狭いのだが、それでも「一の鳥居」を眺めることは出来る。眺めても「鳥居」は鳥居でしかないが。



「桑名宗社(桑名神社・中臣神社)」(式内社・三重県桑名市本町鎮座)
 桑名宗社とは桑名神社と中臣神社の両社を称し、桑名総鎮守として「桑名首(くわなおびと)」を祀っている。

桑名神社(三崎大明神・式内社)
祭神:
天津彦根命(あまつひこね命・天照大神第三子・参考
天久々斯比乃命(あめのくぐしび命・天津彦根命の御子神・桑名地方の豪族祖神)

中臣神社(春日大明神・式内社)
祭神:
天日別命(あめのひわけ命・伊勢国造の遠祖・神武天皇創業期の功神)
相殿:
建御雷神(たけみかずち神・国譲り神話の主役・参考
天児屋根命(あめのこやね命・中臣祖神・参考
比売神(ひめ神・天児屋根命の妃神)

 桑名神社の祭神である天久々斯比乃命は桑名首(桑名地方の豪族)の祖神であり、一郡の開祖として仰がれ、子孫は代々統治を支配してきた。
 景行40年(110)にはすでに宮町あたりに鎮座しており三崎大明神と称せられていた。その後は宝殿町あたりに遷座し、景行45年に現在地に遷座したという。(ただ地勢的に式内列格当時からこの地に鎮座していたとは考えにくい。)
 
 中臣神社は神護景雲3年(769)に常陸国鹿島神宮より建御雷神霊が通過したとされる地に祀られたことにはじまるとされている。古くは現在地よりも西方へ20町(1町=109メートル・約2キロ)隔たった山頂にあったものを正応2年(1290)に桑名神社境内に遷座し、永仁4年(1297)に奈良春日大社から春日四柱を勧進し、春日大明神と呼ばれるようになった。

 以来、当社(桑名宗社)は繁栄の一途をたどり、永禄10年(1568)には吉田家(吉田神道)より「一の宮」として許可されるほどであった。
 江戸期には歴代の桑名城主が篤く崇敬し、明治期には明治2年の東京遷都に際して天皇・勅使がお泊まりになった。明治14年県社列格。
 昭和20年に戦災で社殿焼失。昭和29年に拝殿、59年に本殿・幣殿を再興。平成7年には楼門も再建された。
 当社の祭礼として8月第一日曜日に行われる「桑名の石取祭」が特に有名である。<以上、桑名宗社「参拝のしおり」参考>

桑名宗社 桑名宗社
桑名宗社 左上:桑名宗社の大鳥居(三重県文化財)
日本一の青銅鳥居という。寛文7年(1667)建立

上:桑名宗社楼門
平成7年再建

左:桑名宗社拝殿
両社並立
左が中臣神社、右が桑名神社
写真的に桑名神社が隠れてしまっていますが。

 レンタサイクルで爆走して、鳥居前に到着。鳥居を自転車に乗ったままくぐるのは気がひけるから手押しで通過する。この青銅大鳥居は寛文7年の建立で青銅製では日本一の大きさという。
 楼門はピカピカ。その隣には結婚式場的会館もある。あまり広い境内とは言い難いが、それなりに繁盛している雰囲気がプンプンと臭っている神社。
 境内には「御膳水井」という井戸があり、明治天皇が明治9年に当社に宿泊した際に御膳水として提供された良質の神水。
 拝殿はあまりみかけない二社併存の形式。私は桑名神社で頭を下げて、次いで中臣神社でも頭を下げる。気分的には同じ神社で二度同じ行為を行い、なおかつ賽銭を二度も投じるのがおもしろげ。
 第一、「伊勢神宮一の鳥居」を見聞したあとにたまたま立ち寄ったのが当社であり、御由緒書きを頂いて熟読後にはじめて当社が「延喜式内社」だった、と気が付く始末。個人的に神社参拝の連続でバテていたために、なにやら熱意がない参拝だったのが悔やまれる。

 この桑名散策の後に尾張にむかい真清田神社と熱田神宮を参拝して、そのまま東海道本線を鈍行で東京まで帰る、というハードスケジュール。信じられないぐらいに疲れ切っていた私は、この先の尾張で夢遊病的に意識がすっ飛んでしまった。
 ちなみに10時40分に桑名駅から関西本線に乗車し、11時09分に名古屋到着。11時31分名古屋発の東海道線で11時45分に尾張一宮駅到着。
 時刻表的には問題ない旅程であっても、生身の人間が3日間も時刻表的に動き回ることは不可能であると思わぬ形で実感してしまった。
 続きの「尾張」は、のちほど、です。


<参考文献>
角川日本地名大辞典・三重県
各神社御由緒書き





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