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「出雲松江散歩」その2 松江編
<平成18年9月参拝・平成21年3月記載>


目次
その1 佐太・神魂・熊野
   『佐太神社』(出雲二の宮・延喜式内社・国幣小社・出雲三大社の一社・国重文社殿)
   『神魂神社』(県社・意宇六社の一社・国宝社殿)
   『熊野大社』(出雲一の宮・延喜式内名神大社・国幣大社・意宇六社の一社)
   『熊野大社上の宮跡』

「その2 松江」
   『売布神社』(延喜式内社・県社)
   『白潟天満宮
   『須衛都久神社』(県社)
   『松江神社』(松江東照宮・県社)
   『松江護国神社』 (内務省指定護国神社)
   『城山稲荷神社

「その3 出雲・三次」・・・別シリーズにて掲載<かみちゅ!出雲編><朝霧の巫女・三次編




16時。
松江市内のビジネスホテルにチェックインしたら、まだ日差しが残っていたので神社散歩へ飛びだす事にする。


『売布神社』(延喜式内社・旧県社・賣布神社)<島根県松江市和多見町鎮座>
   めふ

主祭神:速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)<水戸ノ神・祓戸ノ神>
相殿神:五十猛命(いたけるのみこと)・大屋津姫命(おおやつひめのみこと)・抓津姫命(つまづひめのみこと)<植樹ノ神>
摂社神:櫛八玉神(くしやたまかみ)<漁労・調理・製陶ノ神>


創建年代は不詳。摂社祭神である櫛八玉神が潮流の中にあるとされる速秋津比売命をまつったことにはじまるという。元は意宇(おう)の入海(=宍道湖)西側に鎮座していたといわれ、潮流や地形変動によって東へと遷座を重ね、13世紀頃に現在地に鎮座したといわれている。
当社一帯が古来は海であり、次第に潟地となっていったことから「白潟大明神」とも、対岸に橋が架けられた事から「橋姫大明神」とも呼称。水郷松江の産土神として崇敬をあつめる。

出雲国風土記では「賣布社(めふのやしろ)」、延喜式では「賣布神社(めふのかみやしろ)」と記載される古社。
社名の「めふ」とは海藻や草木が豊かにはえることを意味する。

摂社の櫛八玉神は出雲大社大国主神の御饗を担った調理の神であり、祭神御事蹟に関連する神事(潮会の祭)が継承されている。
旧社格は県社。

<境内案内参照>


売布神社入口

拝殿

本殿

境内社

宍道湖から松江港に流れ出る大橋川にかかる「新大橋」の南側に鎮座。松江駅からは北西に約500メートルの地に鎮座。
16時20分。神社に到着。延喜式内の神社であるとのことでまずは一番はじめに訪問。出雲ならではの由緒がある当社は往時は現在の規模よりもよっぽど栄えていたと思われる。いまはとても静かな空間。隣の町が寺町という事もあり、いわゆる信仰文化地域に鎮座しているともいえる場所。



『白潟天満宮』<島根県松江市天神町鎮座>


祭神:菅原道真公

保元年間(1156−1158)に平忠度が出雲国守護を勤めていたとき、能義郡富田に富田城を築こうとし、奉行として平景清が下向したが眼病にかかり苦悩甚だしかった。そこで斎戒浄身し管公に一心に祈ったところ夢の中でお告げがあり、まもなく全快した。
それからは篤く管公を崇敬し、富田城に管公を祀る社殿を建立。
その後、堀尾吉晴が慶長年間(1603年頃)に出雲領主として富田城から松江亀田山(=松江城)に移城するにあたり白潟の地に当社も奉遷。奉遷後は歴代松江藩主の篤い敬をうけてきた。


入り口

参道

拝殿

本殿

宍道湖近くの山陰本線高架線路の北側に鎮座。社殿は宍道湖を背にして東面している。松江駅からは約600メートル西南西。
売布神社からのんびりと南に下って寺町を抜けて訪問。
16時40分。とても綺麗にまとまっている境内。すぐ近くに宍道湖を控えており、まさに白潟の地といったところ。町の鎮守としてにぎわっているようで、社務所もきちんと有人で併設されていた。



『須衛都久神社』(末次神社・旧県社)<島根県松江市西茶町>
    すえつぐ

祭神:伊弉冉尊(いざなみのみこと)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)

創建年代は不詳。「出雲風土記」記載の島根郡須衛都久社に比定される。
もとは松江亀田山に鎮座していたが、慶長年間の堀尾吉晴の松江築城に際して数度の遷座。延宝3年(1675)に現在地に鎮座。


須衛都久神社参道

入り口 狛犬が立派な様相

正面

拝殿

本殿

南側の入れない鳥居

宍道湖大橋の北側に鎮座。官公庁街の入り口といっても良い地であり、付近には市役所や県庁がある。一畑電鉄の「松江しんじ湖温泉駅」より東に約400メートルの場所。社殿は東面。
白潟天満宮より宍道湖大橋をわたって、参拝。天気はドンヨリと曇っていて、宍道湖の眺めもいまひとつ。ちょっと残念だったのだ。
神社に着いたのは17時。
最初にみかけた鳥居は通行ができないようになっていて、ぐるりとまわってはいるような感じ。社殿の敷地のすぐ脇が堤防となっている。神社のすぐ裏手はホテルであり、そして市役所があるという鎮座状況。なにやら中心街。市役所は末次町にあって、須衛都久が末次になったであろうことはわかるが、社名表記はちょっと不思議な格がある。



『松江神社』(旧県社・松江東照宮合祀)<島根県松江市殿町鎮座>

祭神:松平直政公 松平松江初代藩主
   堀尾吉晴公 松江城築城・松江開府の祖
   松平治郷公 松平松江七代藩主(松平不昧公)
   徳川家康公

明治10年(1877)に旧松江藩の人々によって川津村(松江市西川津町)楽山に松平直政公を祀る楽山神社が創建。
寛永5年(1628)に堀尾吉晴公が朝酌村西尾(松江市西尾町)に創建した東照宮を明治32年に合祀し、当地に遷座、松江神社と改称。
昭和6年に、堀尾吉晴公と松平治郷(不昧)公を配祀。
本殿は寛永5年(1628)、拝殿は寛文元年(1661)建造の権現造社殿。手水舎は寛永16年(1639)建築。いずれも松江東照宮より移築したもの。


手水舎

拝殿

本殿
松江神社
境内の本殿・拝殿・手水舎は松江東照宮の移築。

本殿は寛永5年(1628)
拝殿は寛文元年(1661)
手水舎は寛永16年(1639)

松江城濠 水面反射が美しい

石垣と天守閣
国重要文化財:松江城址

まだ時間があったので、北上してみる。松江城まで。そうして17時20分に松江城下の松江神社に到着。
もともと松江東照宮を移築したという神社。松江神社としての歴史よりも、東照宮としての歴史が古く、社殿もそのまま東照宮時代の歴史を受け継いでいた。なかでも手水舎はあまりみかけない様相であり、この古風な雰囲気はなんともいえずに好ましかった。
そのまま松江城に向かう。時間も遅いので中にはいるのはやめて天守閣を眺める。この手の天守閣をぼーっとながめるのもけっこう好き。これが復元天守閣ではなく、時代を伝える往時の天守閣のままであるとなおのほか良いものだ。



『松江護国神社』(内務大臣指定護国神社・県社相当格)<松江市殿町鎮座>

明治戊申戦争より大東亜戦争に至る戦役に於いて出雲・隠岐出身の軍人軍属23000余柱の神霊を祀る。
昭和13年10月15日に松江招魂社として創建。昭和14年4月1日に松江護国神社と改称。
終戦後は一時期、社名を島根神社と変更するも、昭和28年12月9日に再び松江護国神社と復称。
島根県内には、隠岐・出雲の松江護国神社と岩見の浜田護国神社の2社が内務省指定護国神社である。


松江城を挟んで松江神社は南側で、護国神社は北側に鎮座。時間は17時30分。護国神社らしい凛とした雰囲気がただよう境内。
それにしても夕方にまわりはじめた市内の神社ではいずれも人の気配がなく、考えようによってはけっこう寂しいかもしれない。



『城山稲荷神社』(松江藩守護神)<松江市殿町鎮座>
   じょうざんいなり

祭神:宇迦之御魂神・誉田別尊

当社は徳川家康の孫に当たる松平直政公(越前藩主結城秀康(=家康次男)の三男)が藩主として入国した翌年(寛永16年・1639)に藩内の繁栄を祈願して兼ねて信仰していた稲荷神を出雲隠岐両国の守護神として城内に祀った事に始まる。

当社は日本三大船神事といわれる「ホーランエンヤ」(城山稲荷神社式年神幸祭)が有名。
慶安元年(1648)の年、天候不順にて心を痛めていた松平直政公が、当社の神霊を船渡御にて出雲郷の阿太加夜神社(あだかや)に移し五穀豊穣の大祈祷を行わせたところ祈願が成就し以来10年ごとに御神幸が行われるようになったという。江戸末期からは12年ごとに行われており、現在では100隻にも及ぶ大船行列にて「ホーランエンヤ」の唄声とともに執り行われている。

左:小泉八雲が愛したという石狐像

護国神社より道を挟んで北側のちょっとした高台には「城山稲荷」が鎮座している。
17時40分着。
当社には小泉八雲が愛したという石狐の像がある。随神門前にある石狐は二代目で、初代は拝殿脇の小屋囲のなか。風化がはげしいものの曲線が美しくなめらであった。

そろそろ歩き疲れた状態でもあり、ここからホテルまで戻るのすらおっくうだったりもする。しょうがないから近くのバス停から適当にのって戻る事にしよう。

この翌日は出雲大社を詣でて、出雲から高速バスにのって三次へ移動。三次に宿泊してさらに尾道へ移動という、山陰山陽の縦断だったり。
それはまた別の話という事で。




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