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「呉の神社と海軍史跡散歩」
<平成18年1月参拝・平成21年3月記載>


亀山神社」(県社)
入船山記念館」/「旧・水交神社
鯛之宮神社」/「大歳神社
歴史の見える丘」(旧呉海軍工廠・大和建造ドック)/「大和神社
大和ミュージアム



この年は尾道にはまっていた年であった。(かみちゅ!レポ
尾道に行くなら、呉にも行きたい。海軍好きの私ではあれど、まだ呉にすら行った事がなかったのだ。今回は時間がないので江田島にはおもむけないがそれでも呉の町を散歩したかったので、尾道の帰りに呉に宿を確保して、半日を費やしてみる。



「亀山神社」<旧県社・呉総鎮守・朱印>(呉市清水鎮座)

御祭神:帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)=仲哀天皇
    息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后
    品陀和気命 (ほんだわけのみこと)=応神天皇

創建年代は不詳。社伝によると筑紫国宇佐より姫島に御遷座した祭神が、天武天皇の白鳳8年(668)に姫島より安芸国栃原村甲手山に遷座し、文武天皇の大宝3年(703)に安芸国呉宮原村の亀山に鎮座したという。もとは入船山と呼称していたが、遷座時に亀山と称されており、最初の鎮座地は現在の入船山公園の地でもある。

かつては「大屋津日売神社」「鈴音宮」「日売島神社」「大帯日売神社」「八幡宮」「皇城宮」といろいろな呼称がされていたが、明治維新後は「亀山神社」に社号改称し現在に至る。
明治23年(1890)に呉鎮守府設置に伴い現在地に遷座。
昭和16年(1940)に県社昇格。

亀山神社公式 http://www.kameyama-jinja.com/


尾道から移動して呉に宿泊。そうして朝の8時過ぎから市内の散歩を開始する。呉駅より東南1キロの地に鎮座。地図をみるとわかるが、JR呉線が境内の下をトンネルが走っているようだ。
ちょっとした高台に鎮座しており、社殿は北西を向いている。呉の総鎮守として重厚な威厳を感じる事が出来る立派な雰囲気。みれば感じ取れる八幡の社殿。まだ朝が早かったようで人の気配もないような静かな境内だった。




入船山記念館」/「水交神社」

旧呉鎮守府司令長官官舎(平成10年国重要文化財指定)を中心に、郷土館や歴史民俗資料館(近世文書館)等があり、呉の歴史をたどれる文化公園。

旧呉鎮守府司令長官官舎 国重要文化財
明治22年(1889)に洋風木造二階建ての軍政会議所兼水交社として建造。そののち明治38年に現在の建物が建造され長官官舎として使用された。

旧海軍工廠塔時計:左
大正10年(1921)に旧海軍工廠造機部の屋上に設置
昭和46年(1971)に入船山記念館内に移設

番兵塔
長官官舎や海兵団等の入り口にたっていたものの一つ。

火薬庫 明治32年


東郷平八郎(往時は海軍大佐)の居宅離れ座敷。
呉在任中の明治23−24(1890−91)に居宅していたという。
のち当地に移設。

旧呉鎮守府司令長官官舎
1905(明治38)年の建築当時の資料が見つかったことを受け、
当時の姿に復元。
1998(平成10)年12月に、国の重要文化財に指定。

司令長官官舎は修復工事中でした。
残念。。。
こちらは和館部

旧「水交神社」

入船山の麓にあった水交社。昭和18年に海軍の手によって建立。天照大御神を祀る。
終戦後に海軍が解体され祭主を失ってしまうが、たまたま戦災によって社殿を焼失してしまった亀山神社の仮社殿として亀山神社の祭神とともに奉祀。
昭和30年に亀山神社が改築され、水交社社殿は役目を終え保存されていた。そののち旧海軍士官の有志の手によって史跡として旧形の通りに昭和43年4月に現在地に復元された。


亀山神社から500メートルほど西南に戻る。呉駅からは600メートルほど東南。呉線の南側。
訪れた時間は9時過ぎ。まだまだこの時間は人の気配がすくなくて、この手の公園も散策がしやすい。残念ながらこのときは旧呉鎮守府司令長官官舎は修復工事中。どういうわけだが巡り合わせのタイミングがいまひとつ悪いらしい。どのみち「呉にはもう一回来なさい」といったところだろうか。
公園内には旧水交社神社があったりして、あることを知らなかったのでちょっとした驚きを感じたり。



鯛之宮神社(呉市西三津田町鎮座)

祭神:言代主神
相殿神:大己貴命・天日方奇不方命

創立年代は不詳。文亀年間(1501−4)に満田氏が神田2所を寄進し社殿を造営と伝わる。その後、広島領主福島正則によって神田が没収されるも天和年間(1681−4)及び貞享年間(1684−8)に仮殿造営。元文5年(1740)に社殿を再興。
鯛を献じて祈願をなすと所願成就すると伝えられた事から鯛宮と呼称されているという。
現在は亀山神社の兼務社。


境内には「第六号潜水艇殉難顕彰碑」がある。

『第六号潜水艇』
明治39年、我が国初めて作られた潜水艇。排水量57トン、水中最大速力3ノット、水上8ノットで「どん亀」と呼称されていた。
明治43年4月15日、呉港を出港した第六号潜水艇は岩国新湊沖で潜行訓練中に遭難し、艇長佐久間大尉以下乗組員14名とともに海底に沈没してしまった。
「艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ」と佐久間艇長の遺書の一部にも書き残されているとおり遭難沈没した午前10時から12時40分まで乗組員全員、最後まで持ち場を離れずに修復に力を尽くしつつ死を迎えた使命感は佐久間艇長の沈着剛勇の精神とともに日本中に感銘をあたえたものであった。
大正3年呉軍港ゆかりの三津田丘鯛の宮境内に高さ19メートルの殉難顕彰碑が建立され、毎年4月15日には慰霊追悼式典が催されている。
<境内看板・参照>

そのほか詳しくは 「第六潜水艇」ウィキペディア


神社は、呉駅の1キロ北西の地に南東を向いて鎮座している。ちょっとした小高い丘の上に港をみおろす感じ。顕彰碑が一段と誇らしげに威風堂々としている。
神社に到着した時間は10時15分。入船山から30分程度歩いた感じ。
参拝したときは神社の由緒も把握できず、なんで「鯛」なのかなあとか思いつつ参拝。社殿はしっかりとした感じで落ち着きがあった。
このとき悔しいのが顕彰碑をきちんとみていなかったこと。レリーフや、顕彰碑内部を簡単に眺めるだけで写真に納める事をしていなかったのが悔やまれる。ネットであとから調べると、顕彰碑内部には第六号潜水艇の遺品が奉納されておりのぞく事が出来るとか。
また改めて見物しなくてはいけない課題が出来てしまった。



「大歳神社」(呉市三条鎮座)

祭神:大歳神 御歳神 若歳神

創立年代は不詳。もともとは現在の亀山神社の近くに鎮座していたが、明治42年9月に現在地に遷座。
もともと当地は「有崎城」という中世の城があったとされる土地。野間氏の支城であったという。
現在は亀山神社の兼務社。


正岡子規 句碑
呉港 大船や波あたゝかに鴎浮く

呉駅方面、東側を望む

西側を望む

神社高台より呉線を望む

呉線、左高台が神社の鎮座地

10時45分。鯛の宮からまっすぐ南に何気なく「三条通コミュニティ道路」を歩いていると神社への入り口があった。不思議な神社で入り口には城跡を示す碑が立っているも頂にはとくに遺構はなくそうして神社があった。頂はさほどに広くはなくむしろ窮屈な感じ。見晴らしは最高であり呉の東西を見渡すビューポイント。真下を呉線が通り抜けており、せっかくなので電車を絡めて写真を撮ってみる。こうしてぼーっとしながら呉の気配を楽しめるのが結構楽しかったりする。



歴史の見える丘(旧呉海軍工廠・大和建造ドック)



戦艦大和の塔
昭和44年7月8日、広島県呉市元呉軍港宮原の高台に「噫戦艦大和之塔」建設に際して、
同委員会理事長(戦艦大和進水式当時責任者、元海軍中将)庭田尚三氏は
奈良・大和神社(おおやまと神社・戦艦大和艦上神社に分霊)への崇敬篤く、大和神社御分霊を同塔内に奉鎮したという。
 

呉港 呉かあらぬ 春野裾山 灯をともす  正岡子規

明治28年3月9日(日清戦争時)、友人古嶋一雄が海軍従軍記者として軍艦松島(初代・連合艦隊旗艦)に乗り込んで
出征するのを見送るために呉を訪れた正岡子規(往時28歳)が詠んだ3句のうちの1句。
 
旧海軍工廠の記念塔 煉瓦は旧呉鎮守府開庁時の建材

大和建艦なごりのドック

ナンバー130 護衛艦「まつゆき」ドック入りでしょうか?

「大和神社」

戦艦大和の塔と関連する由緒かは不明。

参考
<噫戦艦大和之塔>
昭和44年7月8日、広島県呉市元呉軍港宮原の高台に「噫戦艦大和之塔」建設に際して、同委員会理事長(戦艦大和進水式当時責任者、元海軍中将)庭田尚三氏は奈良・大和神社(おおやまと神社・戦艦大和艦上神社に分霊)への崇敬篤く、大和神社御分霊を同塔内に奉鎮したという。


11時30分過ぎ。歴史の見える丘公園に到着。大歳神社からは呉駅を挟んでまったくの反対方向。だらだらと30分ほどかけてノンビリと歩いて到着。呉駅からは1.2キロほど南東に位置する。海軍にまつわる碑が並んでおり、また現役のドックもある。その一つには海上自衛隊の護衛艦もドック入りしており、昔も今もなじみのある場所。その隣にあるIHIのドックは大和建造のドックという記念するべき場所。
「大和神社」という小さな神社が鎮座している。大和誕生の場所も向かいにちんざする小さなやしろではあれど、大和神社の名を冠し、その鎮魂鎮霊の場となっているのだろうか。さまざまな形で名残をかんじる場所であった。



「大和ミュージアム」

公式サイト「呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム」 http://www.yamato-museum.com/


戦艦陸奥 主錨

戦艦陸奥 主砲身

戦艦陸奥 スクリュー 主舵

戦艦陸奥 フェアリーダー

戦艦陸奥 旗竿

以下、10分の1 大和模型

零式艦上戦闘機62型


特殊潜航艇 海龍 後期量産型


おりかくの機会なので、大和ミュージアムへ。ここも行きたかった場所の一つ。呉駅の300メートル南。呉港ターミナルのすぐ隣という好立地。大和の模型をみて大満足してみる。

大和の話は「かみちゅ!」レポにも多少は関係。神社レポにはあまり関係しない。

13時をすぎて、そろそろ東京に戻るために名残惜しいけども呉をあとにする。

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