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「雪の京都詣で」
<平成17年2月参拝・6月記載>


目次
豊国神社」「平安神宮」「護王神社」「梨木神社


この日。私は京都にいた。
正確に言うと、名古屋のとあるイベントに参加して、紀伊半島を南下。熊野詣でをして大阪へ。大阪から雪降る稲荷山に登って、やっとの思いでお昼頃に京都駅に到着したわけになる。

この日はもう東京に帰るだけであった。それでも昼間の京都にいる。せっかくので神社に赴く。まだまだ未参拝社が多数だから。雪が降っているが、そんなことは気にしない。

問題は執筆時が6月で季節はずれも甚だしいことぐらい。
雪の季節。なにやら「京都市内の近代関係の有名神社」を参拝していないことを思い出す。そんなわけで方向性は定まる。

バス停に赴けば各方面へとバスが走る。さしあたり、豊国神社に行こうかと思った。



「豊国神社」(別格官幣社・別表神社・豊国さん)
<京都市東山区大和大路正面茶屋町鎮座・朱印

祭神:豊臣秀吉

慶長3年(1598)に伏見城で秀吉が薨去。翌4年に遺言で洛東の阿弥陀峰に葬られた。その山麓に壮麗な神廟が造営され、正一位豊国大明神が宣下。しかし豊臣氏が滅びると、慶長20年には徳川家康によって神号を廃され、神体は方広寺に移され、社殿に修理は幕府によって修理を禁じられたまま荒廃。

明治元年に神社再建が検討。明治6年に別格官幣社に列格し、明治8年に方広寺大仏殿跡に社地が選定され阿弥陀峰(豊国廟)より現在地に遷座。明治13年に社殿再建。
唐門は伏見城遺構であり、南禅寺金地院にあったものを再移築したもので国宝指定。

京都
豊国神社正面
京都
正面
京都
参道
京都
国宝・唐門
京都
社殿
京都
唐門

12時30分。
正直言って、京都は不案内だ。それでも京都市内の大きな神社を巡り巡ってきた。
さしあたり駅前は雪が降っていた。そんななかで適度にいけそうな神社で思い浮かべる。
とりあえず「三十三間堂」に向かうバスにのれば豊国神社があったはず。もっとも私は予備知識もないので、付近の神社を完全に見落としている。
雪の中で、歩くというのも最悪の状況ではあるので、素直に神社直行。
・・・吹雪いているのですが。

国宝の唐門を見物するのもそこそこで、さらには「方広寺」という概念も欠如していた。
ただ、単純に「未参拝社」に訪れたという状態。なにやら、激しく見忘れ思い忘れ多数。



「平安神宮」(官幣大社・別表神社)
<京都市左京区岡崎西天王町鎮座・朱印

祭神:
桓武天皇・孝明天皇

創建は明治28年(1895)。延暦13年(794)に桓武天皇が平安京を定めてから1100年を記念して神社創建。
平安京(京都)最後の天皇であられた孝明天皇を昭和13年5月に奉祀。
社殿の大極殿(外拝殿)・応天門(楼門)・蒼竜楼(東)・白虎楼(西)などは大内裏の8分の5のスケールで造営。
毎年一〇月には京都三大祭(葵・祇園)のひとつである時代祭をとりおこなう。

京都
平安神宮・大鳥居

平安神宮
京都
応天門(楼門)
京都
大極殿(外拝殿)
京都
白虎楼(西)
京都
蒼竜楼(東)
京都
大極殿(外拝殿)
京都
大極殿(外拝殿)から蒼竜楼(東)をみる

豊国神社から京都駅に戻る。次はどうしよう。なにやら「平安神宮」にまだ行っていなかったことを思い出す。しょうがないなあ、でバスに乗り込む。このあたりは行き当たりばったり。
深い考えはない。
13時30分。
雪だというのに、さすがに観光客が多い。なんというか神社らしくない。平安京のミニチュアは、歴史復元建築物のイメージが強く、ここが神社であろうがなかろうが、さして違いはないような気さえもしてくる。

それでも拝殿まで到達すればそこは神社。真面目に参拝をする。拝殿まで歩くのですら、雪の影響で大変だったのですが。

烏丸丸太町までバスにのる。ここから北上すれば護王神社があるはず。



護王神社(別格官幣社・別表神社)
(京都市上京区烏丸通下長者町下る桜鶴円町鎮座・朱印

祭神
和気清麻呂(わけのきよまろ)・和気広虫(わけのひろむし・清麻呂の姉)
配祀
藤原百川(ふじわらのももかわ)・路豊永(みちのとよなが)

祭神の和気清麻呂(733−99)は奈良末期に弓削道鏡の野望を宇佐神宮神託事件によってうち砕き、道鏡によって大隅に配流されるも、のちの平安朝で復権。桓武天皇平安遷都にも功績を残した人物。
はじめは和気氏創建の高雄山神護寺境内に和気清麻呂を祀る霊社があったとされる。
嘉永4年(1851)3月に孝明天皇により和気清麻呂に対して正一位護王大明神の神階神号が宣下され、明治7年(1974)に護王神社として別格官幣社に列格。
明治19年に京都御所蛤御門前の現在地に遷座し和気広虫・藤原百川・路豊永を配祀。大正4年(1915)に和気広虫を主祭神に加えて、二座を祀る。

当社表門は大正天皇即位の際の春興殿(賢所)御門を移築したもの。
また拝殿前には雌雄一対の「狛猪」が鎮座している。和気清麻呂が京都から宇佐に向かわれた際に、300頭もの猪が清麻呂を守護したことに因む神使。

京都
護王神社
京都
拝舞殿
京都
神使・猪
京都
手水の猪
京都
社殿
京都
蛤御門

14時30分。
烏丸丸太町の交差点から500メールほど北上。わかりやすく言えば「京都御所の西側」をあるけば護王神社に到達。ようやくに雪も止んできた。
猪が出迎えてくれる。なにやらそれだけで嬉しくなってくる。社殿は京都御所に向けて東面している。

あいもかわらずにまったりのんびりと参拝。今日はべつに急ぐこともないのだ。
護王神社の向かい側が「蛤御門」。そこをまっすぐに横断する。つまり京都御所を西から東にすすめば、不思議な事に「梨木神社」に到達。



梨木神社(別格官幣社・別表神社・なしのき神社)
(京都市上京区寺町通り広小路上る染殿町・朱印

祭神
三条実万(忠成)
三条実美

配祀
姉小路公知

三条家は五摂家につぐ公卿の名家。
三条実万(1802−59)は幕末の光格天皇・仁孝天皇・孝明天皇に奉仕。安政4年に内大臣。日米修好通商条約問題の詔勅拒絶、一橋慶喜擁立をはかり安政大獄によって退隠。
三条実美(1837−91)は実万公の第四子。尊王攘夷運動に加担し、長州藩と提携。文久三年に失脚し長州へと都落ち(七卿落ち)。明治維新後に太政大臣。のちに内大臣となり明治天皇の側近として奉仕。内大臣兼總理大臣の大役をも果たした。
当社鎮座地は三条実万の旧邸宅跡に接する。明治18年に社殿創建し別格官幣社となる。大正四年に大正天皇即位式にあわせて実美公を合祀。

当社社頭にある「染井の水」は京都三名水(醒ヶ井・県井・染井)のうちで現存する唯一の名水。
境内地は中世期(九世紀後半)には藤原良房の娘明子(清和天皇)の里御所。この良房の屋敷を染殿と称し、宮中御用の染所として染井の井がつかわれたとされている。

京都
京都御所から大文字山をみる
京都
梨木神社
京都
梨木神社
京都
舞殿
京都
社殿
京都
染井の水


中世期と近代期に皇室をささえた祭神をまつる神社が、東西に鎮座。、護王神社と梨木神社。そんな対比も愉快であった。
関東人にとってイメージが湧きにくいのが京都公卿。その公卿のなかでも幕末に活動した公卿として三条家がある。そんな祭神をまつる当社も、御所東で静かに眠る。ゆったりとした時間の中で、「染井」の水を汲む人々以外に訪れる人はいなかった。

未訪問社を思いつくままに歩いてきたら、近代創立社ばかりだった。京都ならではの古社も良いが、たまにはこういう神社を気ままに詣でるのも良いだろう。
私は思いつくままに「社格の高い神社」を詣でるだけだから。徐々に視野も広がって、社格にとらわれない神社詣でをしたいとは思いつつも。

時間は15時30分。これから東京に帰る人間にとっては、良いあんばいであった。


参考文献
境内案内看板・由緒書
角川日本地名大辞典・京都・上巻
神社辞典 東京堂出版



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