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「郷土の鎮守様〜港区中央部の神社散歩」

<平成22年7月参拝記載>

 1「高山神社(高山稲荷神社)
 2「高輪神社」        
 3「稲荷神社(高輪稲荷神社)
 4「御田八幡神社」      
 5「亀塚稲荷神社」      
 6「三田春日神社」      
 7「柳神社」         
 8「芝元神明宮(元神明宮天祖神社)
 9「十番稲荷神社(十番神社)」 
10「朝日神社」         
11「桜田神社(霞山桜田明神)」 
12「麻布氷川神社」       
13「天祖神社(竜土神明宮)」  

<港区の神社>
郷土の鎮守様〜港区中央部の神社散歩」前回
郷土の鎮守様〜港区北部の神社散歩」今回
「郷土の鎮守様〜港区南北中央部の神社散歩」次回

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「港区の神社」googleマップ


夕方に都内で用事があった。せっかくなので神社参拝をしておこう。
今回は港区を南から北上することを目標。途中までは第一京浜、芝界隈で六本木におれて乃木坂をゴールにしようかと思う。



「高山神社(高山稲荷神社)」<港区高輪鎮座>

御祭神:宇迦御魂命

創建年代不詳。伝承によると約500年前には丘の上に鎮座しており社殿は二百数十段の石段の山峯に位置し「高山神社」と称されていたという。
明治初期には毛利公爵邸宅が当地に構えられたことから、毛利家より敷地の寄進もあり、明治天皇が居とより江戸に遷都された際に当初にてご休息されたとも伝承されている。
往時、当神社の前面は海辺が広がっており房総方面より来る船の目標となっていた。

大正12年の関東大震災後の国道拡張に伴い現在地に遷座。

高輪南町・下高輪町の鎮守。現在の社殿は昭和6年に造営され平成元年に改修されている。


高山神社

「おしゃもじさま」(石燈篭)港区文化財

境内から

第一京浜に面して

11時15分。
品川駅のすぐ目の前。高輪口を出て、第一京浜を横断すれば品川プリンスホテルを背中にして窮屈そうに神社が鎮座している。
社殿は東面。昔は海だった方を向いて鎮座しているのだろう。

目の前は車の往来が激しく、そして歩行者の往来も激しい。
そんな品川の真っ只中であれど、一歩神社に入れば、ちょっとだけ落ち着ける空間であった。



高輪神社<港区高輪鎮座>


御祭神:宇迦御魂命・誉田別命

創建年代不詳。伝承によると明応年間(1492−1501)の創建とも伝わり高輪地区の総鎮守。
弘化2年(1845)1月24日の大火事で社殿・社宝・古文書を焼失。約20年後に本殿再建。
明治15年には幣・拝殿を建立。
相殿の誉田別命は鵜来森(高輪3丁目付近)に鎮座していた八幡社を明治10年に合祀。
昭和55年に社殿を鉄筋コンクリート造にて再建、現在に至る。


宝永6年(1709) 狛犬


高輪神社本殿

太子宮正面

太子宮

太子宮石扉

大正10年 狛犬


11時30分。
高輪神社。品川駅高輪口から北上すること約800メートル。社殿は東面している。これも高山稲荷也神社と同じく海に面してとのことと思われる。
第一京浜に面して入口があり、参道は階段となって社殿は高台に鎮座している。
社号標は昭和10年9月10日建立で元海軍大臣海軍大将大角岑生であった。これはまた珍しい名前を拝見したものだ。どういう因果関係で大角大臣の謹書となったかは興味深いところ。もっとも大角人事の条約派や艦隊派云々な批評は抜きとして。

正面には高輪神社社殿。社殿前にある狛犬。磨耗具合に重厚感があった。宝永6年(1709)とある。

隣には太子宮。聖徳太子を祭っている。関東で聖徳太子を祭っている社殿はとても珍しいと思う。太子宮前の石扉には文政10年(1827)と記銘がある。この石扉も珍しい気がする。また重厚な存在感も良い感じであった。




「稲荷神社(高輪稲荷神社)」<港区高輪鎮座>

御祭神:宇迦御魂命

創建年代・由緒等不詳。もともとは泉岳寺鎮護という。


11時50分。
泉岳寺交差点の稲荷神社。
手前の道路は第一京浜。社殿は東面している。
高輪神社からは北に300メートル行ったところ。

角地を上手く利用して3階に鎮座。2階に社務所で1階に入り口、と。限られた空間のなかでの都会の技を見る。
社地の後方は泉岳寺。今回は時間に余裕がないのでそこまで足を伸ばすことはしない。




「御田八幡神社(綱八幡)」<延喜式内稗田神社論社・郷社・港区三田鎮座>

祭神:誉田別命(応神天皇)・天児屋命・武内宿禰(たけうちのすくね)

和銅2年(709)、牟佐志国牧岡に東国鎮護の神として創祀とされ延喜式内「稗田神社」ともされる古社。

寛弘8年(1011)に武蔵国御田郷久保三田の地に遷座。
一条天皇(位986−1011)の寛弘年間(1004−12)には武蔵国御田郷の総社とされ嵯峨源氏渡辺党の氏神として崇敬され、渡辺綱(wikipedia・源頼光の四天王のひとり。頼光に従い洛北や羅生門の鬼や大江の酒呑童子を退治したという説話がある。)の産土神として俗に「綱八幡」とよばれた。

江戸期には徳川家康が元和二年(1616)に参拝し源氏の白旗を奉納。社宝として「渡辺綱の羅生門禁札」と「源氏の白旗」が伝わっている。
江戸開幕のみぎり僧快尊が元和5年(1619)現在地を卜し造営を開始、寛永5年(1628)に遷座。

古くは稗田神社・御田神社・三田八幡宮・綱八幡などと称されていた。
明治維新後の明治2年9月に三田八幡宮別当僧が神主職となり「稗田神社」と社号を変更。郷社に列格。
明治7年1月に「三田八幡神社」と改称し明治30年4月3日に「御田八幡神社」と改称した。

昭和20年5月、東京大空襲により社殿焼失。昭和29年再建。

<公式サイト>http://mitahachiman.net/





12時10分。
あいかわらず第一京浜を北上して、御田八幡神社へ到着。
泉岳寺の稲荷神社からは約1キロ北。社殿は東面。このあたりの神社はみんな海を向いているようだ。

延喜式内社の論社。ここには平成15年に一度来たきり。だから7年ぶりの参拝。昔の私は「式内論社だ」ということ以外はなんもわかっておらず、こうして再訪すると結構新鮮だったりする。このあたり私の意識の違いを自分で体感できるので再訪するのも結構好きだったりする。

社務所で呼び鈴を鳴らして御朱印を頂戴する。式内論社ということもあるのでせっかくだから頂戴しておきたかったのだ。


御田八幡神社裏より亀塚へ至る道

亀塚

亀塚

亀塚霊神祠跡

御田八幡神社の裏手の道をすすむと一気に高台へと進める。
ここは「亀塚」と呼称されている場所。
東京都指定史跡「亀塚」
御田八幡神社となんらかの関係があるかどうかは不明であれど、古墳かもしれないと伝承されている地が神社のすぐ裏手にあるのは稗田神社の式内論社として御田八幡を考えるときには面白い材料ともなり興味深いことだ。




「亀塚稲荷神社」<港区三田鎮座>

御祭神:宇迦御魂命

かつて、月の岬(現在の三田台町)に出没した亀が、一夜の嵐で石と化した。里人はこの亀の霊を祀り祠を設けたことにはじまる。
大田道灌がこの地に物見台(燈台)を置いたとき、この祠を守護神として一社を創建。
いつしかこの社を「亀塚稲荷」と称することになった。

宝暦4年(1755)三田功運町の功運寺内に寺の要請によって遷座。
明治5年の神仏分離によって神体の亀像が紛失。
御祭神を宇迦御魂命・伊邪那岐命・伊邪那美命に改め功運町の氏神とする。
昭和8年に霊亀像が発見され11月4日に神社に遷る。
昭和20年の大空襲時に社殿焼失。しかし亀像は境内地中に鎮め難をまぬがれる。昭和23年に再建し社殿内に亀像を斎き祀る。

昭和52年に新社殿が完成し現在に至る。。

境内の板碑は新田義貞一族の冥福を祈るものという。


阿弥種子板碑

遠望

13時。
亀塚から300メートルほど北上したところに鎮座。社殿は北面。社殿のすぐ後ろは「クウェート大使館」だった。

ここで、さんざん歩いていた第一京浜とはようやくに分かれられた。神社自体は小さな祠。亀塚の近くに鎮座していて御神体としても亀像があるというのは面白いエピソードではある。




「三田春日神社」<港区三田鎮座>

御祭神:天児屋根命

天徳2年(958)武蔵国司藤原正房卿任国の折、藤原氏ならびに皇室外戚の氏神として大和国奈良の春日大社を勧請鎮座。
当時は武蔵国荏原三田邑にあって崇敬。
建仁3年(1203)仏教隆盛に伴い、当社に十一面観音像を安置、神仏あいまって繁栄。
天文年間(1533−55)荏原目黒三田から港区三田高台の現在地に遷座。上野寛永寺が建立されてより東叡山末妙禅院が別当となり三笠山神宮寺と称し僧侶がこれを司っていた。
江戸唯一の春日社として将軍家・諸大名の崇敬も篤く隆盛していたという。

昭和20年5月25日、戦災で焼失。昭和34年に社殿再建。昭和37年に境内整備を完了。


13時10分。
亀塚稲荷神社より北上すること約600メートル。桜田通りに面している。
慶応大学三田校舎の北東に鎮座。社殿は東面している。やはり高台を背にした鎮座。
30段ほどの石段を登った先に朱色の社殿。緑との対比がとても鮮やか。
ちょっとした休憩ととることにしよう。




「柳神社」<港区芝鎮座>

御祭神:宇迦之魂命

創建は江戸時代後期。芝松本町の守護神として崇敬。
昭和35年社殿建築。昭和59年に手水屋を建設。


13時30分。
三田春日神社より400メートルほど北上。桜田通りから一本路地に入ったところに鎮座している。社殿は西面。
社頭前にちゃんと「柳」があり、なるほどなといった感じの柳神社。




「芝元神明宮(元神明宮天祖神社)」<港区三田鎮座>
  (しばもとしんめいぐう)

御祭神:天照大御神
相殿神:水天宮・倉稲魂命

寛弘2年(1005)一條天皇の勅命により創立。
当時は神明宮と称していたが渡辺綱(wikipedia)三社信仰のため本宮を中心として八幡宮・春日社等を配しトホカミの祓の信仰をあつめたという。
江戸に入府した家康の命によって神宝は「飯倉神明(芝大神宮)」に移されることなったが、御神像だけは当地に残され「芝元神明宮」と称されるようになった。
現在の社殿は平成6年造営。

<公式サイト>http://www.mmjp.or.jp/motoshinmeiguu/


いままで北上をしてきたが、ここからは西に進路を進める。

13時45分。芝元神明宮到着。柳神社からは約500メートル西側。最寄り駅は麻布十番駅となる。社殿は南西を向いている。

正面からの景観は鎮守様の景観そのもの。足を進めると「ん?」な感じ。正面にはハイカラというか近代的な都市型社殿。一階には社務所機能が設けられ2階部分に社殿。その2階部分は中に御本殿があるという形式なのでいわば覆殿がコンクリート近代化したとでもいえるかもしれない。
そんなあまり見かけない雰囲気の神社。




「十番稲荷神社(十番神社)」<延喜式内稗田神社論社・港区麻布十番鎮座>

御祭神:倉稲魂命・日本武尊・市杵島姫命・湍津姫命・田心姫命

もと末広神社(旧坂下町鎮座)・竹長稲荷神社(旧永坂町鎮座)を合併したもの。
両神社ともに昭和20年4月25日の戦災で焼失。
昭和25年6月、復興土地区画整理により両社境内地を現在地に換地隣接指定され、その後に両社を合併。社名を「十番稲荷神社」と改称。
平成9年に地下鉄大江戸線開通に伴い社殿新築。


末広神社由緒
慶長年間(1596−1615)の創建。元禄4年(1691)には坂下東方雑式に鎮座していたが、元禄6年に坂下町四十一の社域に遷座。往古より境内に多数の柳樹があり「青柳稲荷」と称され、そのなかでも一樹の枝が繁茂し「末広の柳」と呼称。後には社名を末広稲荷神社と称した。明治20年4月に末広神社紹と改称。

竹長稲荷神社由緒
創建は一説に和銅5年(712)あるいは弘仁13年(822)に慈覚大師所縁の八咫の神鏡を以って武蔵国豊島郡竹千代丘に稲荷大神を勧請したと伝承。一説には延喜式の稗田神社論社ともされる。
その後、弘安2年(1279)に鳥羽氏が社殿再建。寛永元年(1624)に永坂町遷座。

<公式サイト>http://www.jubaninari.or.jp/


戦前の「麻布稲荷七福神詣」では竹長稲荷が宝船巡拝所であった
戦後再編成され「港区七福神」でも「宝船」を当社が引き継いでいる

かつて山崎主税助の「がま池」のかえるが
火事を口から水を吹いて吹き消した故事から
山崎家から末広稲荷を通じて御守が授与されたという

さらに西へ。

14時20分。十番稲荷神社到着。麻布十番駅の出口すぐ近くに鎮座している。芝元神明宮からは約800メートル北西。
社殿は南面している。

最近、この十番稲荷神社が「式内論社」だという話を聞いてちょっと気になっていた。
神社は都市型の神社で、とくに式内論社を格別にはうたっていない。

せっかくなので御朱印をいただくついでに神職さんにお伺いしてみると「合祀した竹長稲荷神社が式内稗田神社と伝承されているのです、格別な資料は残っていませんが、伝承を尊重しております。港区史にも論社として記載していただいております」とのこと。

確かに伝承として残っているのであれば、式内論社としていうことができる。
「式内社調査報告」にもあがっていなくても、これは尊重しなければいけないだろう。良い収穫になりました。




「朝日神社」<港区六本木鎮座>

御祭神:倉稲魂大神・市杵島姫大神・大国主大神・大山祇大神・北野天神


天慶3年(940)創建と伝承。はじめは市杵島姫大神(弁財天)を祀っていたとされる。

織田信長の室朝日姫(清心尼)が当地に立ち寄り霊験に浴して稲荷神像を祀ったという。弁財天と合祀したころは「日ヶ窪稲荷」と呼称されていたが明和年間(1764−1771)に朝日稲荷と改称され、明治28年に朝日神社と改称した。

昭和20年の戦災で社殿焼失。昭和29年再建。

<公式サイト>http://www.asahi-jinjya.com/


十番稲荷神社から道なりに北東に進むと六本木へ。約600メートルほど歩くと「朝日神社」。社殿は南面していた。

15時。
境内ではちょうど「ほおづき市」をやっていた。賑やかな境内。神社の規模はさほどには大きくないが賑わいに包まれておりちょっと新鮮な空間となっていた。
相反してゆっくりと参拝はできない様子。写真を何枚か収めたら次の神社を目指すことにする。




「桜田神社(霞山桜田明神)」<港区西麻布鎮座>

御祭神:豊宇迦能売神

治承4年(1180)11月、源頼朝の令により武蔵国の豪族であった渋谷庄司重国が奉行として霞山桜田明神として霞ヶ関門外に鎮座したことに始まる。
文明年間(1461−86)、大田道灌が当社に由緒を聞き及び神殿を改修崇敬している。

当社は長く霞ヶ関に鎮座していたが、寛永元年(1624)に麻布桜田町(西麻布三丁目)に遷座。
安政2年(1855)の青山火事で宝物等を焼失。そのなかには大田道灌寄進の太刀甲冑もあったとされる。

文治5年(1189)源頼朝が奥州征討の報賽の祭を行い神供料として30貫の田地を寄進。一般の田地と御神田でを区分するために御神田の畔ごとに桜の木を植えたことにより、人々が「桜田」と呼称するようになり、付近も桜田村と称されるようになった。

昭和20年の戦災で社殿焼失。昭和26年9月再建。昭和49年から50年にかけて改築。

境内には文化元年(1804)狛犬、文政9年(1826)の天水桶、文政13年(1830)の鳥居、弘化4年(1847)の御手洗等を配している。


鳥居の向こうに見えるのは「六本木ヒルズ森タワー」

いったん南下する。おそらくコース選択を間違えたっぽい。

15時20分。
六本木ヒルズの南東に鎮座している櫻田神社に到着。社殿は東面している。社殿は参道中心軸から左にちょっとだけずれたところに鎮座。参道は社殿の直前で折れている。
振り返れば「六本木ヒルズ森タワー」。大層な存在感を示していた。

どうにも六本木は無縁の地なので歩きにくい。六本木の華やかさとは真逆の存在というのも面白くはあるが境内では2匹の猫が眠そうに横たわっており、なんとなくのんびりとしてしまった。




「麻布氷川神社」<港区元麻布鎮座>

御祭神:素戔嗚尊・日本武尊

天慶5年(951)9月17日、武蔵国豊島郡谷盛庄浅布(のちに麻布と呼称)冠の松(今の一本松)のあたりに源経基が勧請したことに始まる。
古くは麻布明神と呼称。麻布総鎮守として崇敬され、万治年間(1658−61)に現在地に遷座。
昭和20年の戦災で社殿焼失。昭和28年に再建。


社殿の向こうに「元麻布ヒルズ フォレストタワー」がみえる

今回はコース選定を誤ってしまった。本来なら「元芝神明宮」のあとに「麻布氷川」に行けばよかったのに先に六本木まで北上してしまったので、こうして六本木から元麻布まで南下することになってしまった。

15時50分。
麻布氷川神社到着。社殿は南面している。後方には無駄に存在感をアピールしている「元麻布ヒルズ フォレストタワー」が聳え立っていた。景観が台無しなタワーであれど、都心の神社としてはこの反比例を楽しむのもありなのかもしれない。
正直に言うと麻布とか六本木とかのエリアは私には似合わなすぎるのでとっとと舵手津したいものではあるが脱出したいものではある。

ここからまた北上して麻布十番の十番稲荷神社と六本木の朝日神社を再び経由してさらに北上をする。




「天祖神社(竜土神明宮)」<港区六本木鎮座>

御祭神:天照大御神・伊邪那岐命・伊邪那美命

至徳元年(1384)8月16日、飯倉城山に鎮座したことにはじまる。
品川沖から毎夜、竜が灯明を献じたという伝承から「竜燈山」とも呼称。
元和年間(1615−24)江戸城改築に際して現在地に遷座。竜燈からとって、この地を「竜土」と呼称し、神社も竜土神明宮と称された。江戸三ヶ所の神明のひとつとして信仰があつかった。
安政2年(1855)の青山火事で社殿焼失。明治期に再建されるが昭和20年の戦災で再度焼失。
昭和32年9月に再興。昭和61年に社務所を改築。

<公式サイト>http://www.ac.auone-net.jp/~shinmei/tenso-jinja/


16時15分。六本木駅の北側約400メートルの地に鎮座。
社殿は南面している。

ちょうど社殿前の道路で向かいの建物の荷物搬入作業が行われていて、タイミングがいまいち良くなかった。退くまで待っているほどには余裕がなかったので正面の写真は諦めて参拝。
だいぶつかれていたので、気持ちゆっくり目に境内で体を休める。

時間も16時を過ぎたのでここで打ち切り。本来の計画では虎ノ門界隈まで北上する予定だったけど、さすがに疲れたし時間もないので、こんなところかと。


参考文献等
各神社境内の案内板等
東京都神社名鑑

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