「郷土の鎮守様〜中央区北部の神社散歩」
<平成22年7月参拝記載>
1.「金山神社」 (千代田区岩本町・単立神社)
2.「福徳神社」 (中央区日本橋室町)
3.「常盤稲荷神社」 (中央区日本橋本町)
4.「宝田恵比寿神社」(中央区日本橋本町・神田神社兼務社)
5.「池洲神社」 (中央区日本橋堀留町・神田神社兼務社)
6.「椙森神社」 (中央区日本橋堀留町)
7.「三光稲荷神社」 (中央区日本橋堀留町)
8.「富澤稲荷神社」 (中央区日本橋富沢町・神田神社兼務社)
関連地図:中央区の神社地図
今回は都営新宿線岩本町駅からスタート。
出足は遅くて8時30分頃に岩本町駅着。朝散歩の持ち時間は1時間30分で計算なのだ。
「金山神社」<千代田区岩本町鎮座>
御祭神:金山彦命・金山姫命
東京都金物同業組合が昭和初頭に南宮大社より組合事務所に奉祭した事に始まる。
戦後、神社創建計画が立ち上がり、昭和27年10月に総本宮より新たに御分霊を奉迎して仮殿に奉安。
昭和29年11月8日、御鎮座奉祝大祭を祭行し今日に至る。
午前8時45分。
都営新宿線岩本町駅より南に約400メートル。昭和通りから一歩脇に入った地に鎮座。社殿は北面している。神社庁には所属していない単立神社。金物組合の崇敬社ということで管理されているのだろう。
千代田区の神社であれど、参拝し損ねていたので、今回はここからスタート。
あとは中央区を南下しつつ1時間30分の持ち時間で回ってみる。
「福徳神社」<旧村社・中央区日本橋室町鎮座>
*現在、日本橋室町地区再開発のため参拝不可。
2014年に境内再整備復活予定
公式サイト:http://www.fukutokujuku.jp/jinja.html
御祭神:倉稲魂命
清和天皇の貞観年間(859−77)頃には既に鎮座していたとされる。武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社名とされた。
くだって慶長年間(1596−1615)江戸開府によって江戸城近くに鎮座することとなり武家・町人の往来繁く隆盛をみた。
当社は江戸の中枢地として殷賑極める土地となり繁栄。
明治社格では村社列格。
大正14年に区画整備が行われ遷座。
昭和19年11月30日の空襲で社殿ことごとくが焼失。境内一隅に仮殿を設けて奉斎。
昭和47年に当時の三井銀行日本橋支店の申し入れにより旧地と現在地を交換。
その後、社殿改修のため福徳茶屋内に仮移転していたが再開発のため平成22年6月以降は参拝不可。
神社への問合せ先はすぐ隣の株式会社にんべんが窓口。
2014年に境内再整備復活予定となっている。
もともと中央の建物の屋上に鎮座していた。 |
神社を物語る張り紙 |
移転先の福徳茶屋も閉店 |
そして神社は「にんべん」に問い合わせしてくださいとのこと。 |
福徳茶屋入口 |
こちらは福徳茶屋の入っていた建物。 |
午前9時。
日本橋三井タワーの向かいのエリア。新日本橋駅と三越前駅の中間あたり。
さて困った。日本橋三越近くに鎮座しているはずの「福徳神社」がどこにもない。
周辺は再開発工事が行われており、このあたりの室町地区が集中的に開発されているらしく事前情報もなく参拝をしようとして、見事に失敗。
ゆくゆく調べてみた。
1.社務所を2階とし屋上に社殿を置く形態として昭和47年に再建
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2.社務所ビル工事のため道向かいの「福徳茶屋」内に遷座。
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3.平成22年5月31日にて「福徳茶屋」の営業終了。(再開発に伴う契約期間満了のため)
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4.福徳神社新築工事のため2014年まで参拝不可
問合せ先はすぐ隣に鎮座している「株式会社にんべん」まで。
この「にんべん」と神社の因果関係は不明であれど、現在は参拝ができない神社。再開発が完了したら、訪れることとしよう。
ちょっとした疑問符としては、この工事中の期間、どこで神社(御祭神)を奉斎しているのかなというところではあるが。。。
「常盤稲荷神社」<中央区日本橋本町>
御祭神:倉稲魂命
相殿神:罔象女神
室町中期の長禄元年(1457)に大田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷神社の御分霊を常盤稲荷として勧請。江戸城の守護神とされた。
徳川家康公江戸開府により城域が拡張され、現在の常盤橋あたりに遷座された。なお常盤橋はもともと大橋と呼称されていたが、当社がこの地に移ったことにより常盤橋と解消された。
その後、長浜町の日本橋魚市場内に移り、市場の守護神として水神大神(罔象女神)を相殿に祀り鎮座された。
その当時は「大市場交易神」と称され盛大な水神祭が祭行。大江戸の名物であった。
明治34年に水神大神は神田神社境内に遷座し水神社と改称。築地市場の守護神として祭られ現在に至っている。
合祀されている末社産千代稲荷神社の御祭神は倉稲魂命・三穂津比売命が祭られ安産の神として崇敬されている。
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昭和34年に奉納。魚市場の崇敬が篤いことが伝わってくる。 |
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9時10分。
日本橋小船町の南側。三越前駅から東に約300メートル付近。
社殿は東面している。
雑居ビルが多い道路に面してポツンと鎮座していた。境内奥行もそんなにない小さな神社。
「宝田恵比寿神社」(宝田神社)<中央区日本橋本町・神田神社兼務社>
宝田神社御祭神 :宇迦之御魂神
宝田恵比寿神社御祭神:事代主神・少彦名命・大国主命・大己貴命・素戔嗚命
宝田神社はもともとは慶長11年ごろに江戸城内宝田村の鎮守。徳川家康公が江戸入府してより江戸城が拡張され鎮座地が城内となってしまったことにより豊島郡宝田村・祝田村・千代田村(もともとは現在の宮城内楓山付近にあった集落)の転居が命ぜられ、現在の大伝馬町に替地になった。その際に当社も現在地に遷座し大伝馬町の守護神となった。
その際に馬込勘解由という人物が宝田村の鎮守を奉安し住民を引率してこの地に集団移転している。馬込勘解由は徳川家康公入府の際に三河から随行して功をあげたことから家康公繁栄祈念の恵比寿像を賜り、その恵比寿像(鎌倉時代の名工運慶作と伝わる)を当社に安置し御神体としている。
馬込勘解由は江戸筆頭名主となり、さらには出世をし三伝馬取締役に命ぜられ、それにちなんで「大伝馬町」の町名がついたという。
明治6年、神田神社の兼務社となる。
大正12年の関東大震災に際して本殿を残して焼失。
昭和初年に拝殿を再建し現在に至る。
当社の「べったら市」は江戸の風物詩として有名。毎年10月19−20日開催。
9時20分。
日本橋本町の交差点南東エリアに鎮座。新日本橋駅と小伝馬町駅の中間辺り。社殿は南面している。
日本橋七福神のひとつ。また秋の「べったら市」でも有名。
境内の両脇がコインパーキングというのも都内らしい景観。以前の写真を拝見すると、両隣には家屋が立っていたがいつの間にか駐車場化してしまったようだ。神社だけは往時と変わらぬ姿を残していた。
「池洲神社」(池洲稲荷神社)<中央区日本橋堀留町鎮座・神田神社兼務社>
御祭神:宇迦之御魂命
かつて日本橋通旅篭町に小田原より移した池洲屋敷というのがあり、その池沼より出現した稲荷様という。
往時、喜久井大納言(詳細不明)がその池洲に一社を建立したことに始まる。
旧別当は延寿院。日本橋通旅篭町(日本橋大伝馬町堀留2丁目)の守護神。
明治6年、神田神社兼務社となる。
大正12年の関東大震災で炎上。昭和初年に再建。昭和20年の戦災で焼失。
昭和24年再建、社号標も昭和24年建立。
9時35分。
日本橋堀留町。小伝馬町駅より南に150メートルほどいったエリア。ビルに囲まれた裏手にひっそりと鎮座していた。
神社は予想以上の小祠。隣の集会所とのバランスがミスマッチではあるが、神社の大小はあまり問題ではないのだろう。
「椙森神社」<中央区日本橋堀留町鎮座>
御祭神:倉稲魂大神・素戔嗚大神・大市姫大神・大己貴大神・五十猛神・抓津姫神・大屋姫神・事八十神
相殿神:恵比寿大神
承平元年(931)ころの創建。天慶3年(940)俵藤太秀郷(藤原秀郷)が当社に祈願して平将門を滅ぼし、その報賽として白銀の狐像を奉納。
元文元年(1466)大田道灌が雨乞祈願をし霊験あり。大いに喜びて伏見稲荷山の大神を分霊して椙森稲荷伍社大明神を祭る。
江戸時代には江戸三森の一つといわれ、諸大名の崇敬も篤く、特に神道家の吉川惟足の信心も篤かった。
寛文元年(1661)伍社稲荷の一社である大己貴大神のご神託によって恵比寿大神を相殿に祭る。
江戸期は特に火災が多く明暦3年(1657)大火以後、関東大震災まで20数回に及ぶ。
度重なる火災にて寺社が焼失し、その再建費用のため有力寺社で「富くじ」が行われ、当社の富くじも盛んであったという。
大正12年の関東大震災以後、仮殿にて奉斎。
昭和6年9月に社殿等を耐震構造の鉄骨鉄筋コンクリート造にて整備。
昭和20年3月の東京大空襲では鉄骨鉄筋コンクリート造が幸いし焼失を免れた。
* 江戸三森・・・新橋「烏森神社」 神田「柳森神社」 日本橋「椙森神社」
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昭和28年に再建された「富塚」
もとは大正8年に建立。日本で唯一の富くじにちなむ記念碑
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東郷平八郎謹書の社号標 昭和6年 |
9時40分。日本橋堀留町交差点の近く。小伝馬町駅と人形町駅の中間あたりに鎮座。
さきほどの池洲神社の小ささのあとに参拝しているので素直に「あっ、久しぶりに大きな神社だ」と感じる。
日本橋七福神のひとつ。
社地は東西で貫通しており、社殿は南面している。白い社殿は戦前の鉄筋コンクリート製。そのコンクリート製のおかげで戦災を免れたといわれている。
そろそろ朝の散歩に割り当てしていた時間がなくなってきたので、足早に参拝。
機会があれば「日本橋七福神」をきちんと参拝してご朱印を頂戴したいところだ。(ただし正月限定)
「三光稲荷神社」<中央区日本橋堀留町鎮座>
御祭神:倉稲魂命
慶長8年(1603)家康公が江戸城入府のころ、当時の長谷川町(堀留2丁目)に居住していた絹布問屋田原屋村越庄左衛門、木綿問屋建石三蔵の両家は海岸を埋め立てて貸家を建て大地主となっていた。そこで天の光・地の恵み・人のお蔭様に感謝して「三光稲荷大明神」として勧請したのがはじまり。
日本橋堀留町の産土として崇敬をうけ、多数の繊維問屋の守護神としても崇敬をあつめている。
9時50分。
人形町駅から北に約200メートルの地に鎮座。社殿は南東を向いて鎮座している。
ちょうど七夕飾りが賑やかなタイミングでの参拝。小さい神社であれど季節を彩る七夕飾りが立派で微笑ましい。こういう空間に接すると気持ちも安らかになるものだ。境内脇の棚にはなぜか招き猫もいっぱい並んでおり、とても縁起のよさそう空間だった。
「富澤稲荷神社」<中央区日本橋富沢町鎮座・神田神社兼務社>
御祭神:宇迦之御魂神
創建年代は不詳。往古は巴熊稲荷神社と呼称。
明治6年、神田神社兼務社となる。
昭和20年の戦災にて社殿損傷。
昭和25年、元弥生町・新大阪町・元浜町の三ヶ所の稲荷神社が合祀され社名を富澤稲荷神社と改称。以後、富沢町の守護神として崇敬。社殿再整備が行われた。
午前10時。本日参拝のラスト神社。
三光稲荷神社より北東に150メートルほどのところに鎮座。馬喰横山駅・東日本橋駅からは約500メートル南。
社殿は南東を向いて鎮座。
ビルに囲まれた空間。入口には門扉があるが締錠はされていなかったので、門を開けて参拝をする。境内は多少窮屈であれどきちんと取水舎が設けられている。脇には初姫稲荷神社が鎮座。きれいに整えられていた。
このあとは慌てて馬喰横山駅に移動。
仕事出勤前の寄り道散歩なのでそんなに持ち時間はなかったのだ。
参考文献等
各神社境内の案内板等
東京都神社名鑑
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