「濃尾三訪拝記・その1」
<平成16年3月参拝>
その1.美濃編:南宮/伊奈波
その2.尾張編:尾張大国霊/津島
その3.三河知立/岡崎
その4.三河一宮
一番良く利用する夜行快速は「ムーンライトながら」だろう。多くの鉄道旅行愛好者もこの夜行電車を軸にする。
手元に「青春18きっぷ」がある時。まずはこの電車の指定席を確保したくなる。今回も「ながら」にお世話になることになった。
「ながら」は東京駅を23時43分に発車し東海道をひた走る。終着は「大垣」。ゆえに私も大垣まで身をゆだねる。
いつもいつものことながら、「大垣」からどうするかはほとんど未定。あらかじめ地図などで下調べはしているが、行きたいところが多すぎ絞り切れていないというのが現状。
とりあえず、終着の大垣から垂井まで足をのばして、あとは東に向かう計画にしておく。垂井はまえまえから行きたかったがなかなかタイミングが合わせられなかったところ。今回も午前7時5分に到着するという極めて半端な時間帯。
駅を降り、方向を確認して、とりあえず歩みをすすめる。南方に南宮山がひろがり、北東に伊吹山を望む。ひんやりとした空気の中で、伊吹山は神々しく白雪に染められていた。伊吹という象徴を後ろにし、南宮山のふもとへと2キロの道のりを歩む。いやがうえでも「関ヶ原」の気配を感じながら南宮大社を目指す。
南宮大社到着は7時30分だった。
「南宮大社」(南宮神社・国幣大社・式内名神大社・美濃国一の宮)
<岐阜県不破郡垂井町宮代鎮座>
主祭神:金山彦命
配祀神:彦火々出見命(ひこほほでみ命)・見野命(みの命)
由緒
当社の起源は神武天皇即位元年に神霊を斎祀したことにはじまるという。神武天皇がナガスネヒコを征討された際に金山彦命が金鳶(金色のトビ)を助け勝利に貢献。神武即位元年に美濃国不破郡府中、東山道の要所を鎮めさせたことによるという。
古くは仲山金山彦神社と呼称。崇神天皇5年に府中より仲山に遷座。それより国府の南方ゆえに南宮神社といわれるようになったという。
祭神の金山彦命は美作国一の宮の中山神社と同神。
延喜式では仲山金山彦神社として名神大社列格。美濃国一の宮。
壬申の乱に際しては美濃国が大海人皇子(のちの天武天皇)を戦略要地となり当社も皇子に加勢。勝利にちなんで「不破」と呼称され、南宮大社宮司は不破の大領(長官)になったという。
関ヶ原の戦い時には兵火にあい社殿・宝物・文書を焼失。寛永17年(1640)に徳川家光によって再建され、同19年に完成。社殿群は江戸期17世紀を代表する神社建築として旧国宝、そして現在の重要文化財に指定されている。
また当社の後方に裾野を拡げる南宮山には奥宮があり、関ヶ原時の毛利軍陣営地として名高い。
明治4年に国幣中社列格。大正14年に国幣大社に昇格。
南宮大社大鳥居と南宮山 |
摂社:吉葛神社 |
境内入口 |
楼門 |
楼門 |
舞殿と拝殿 |
拝殿・本殿 |
本殿 |
舞殿 |
垂水駅から南宮山を臨む |
南宮大社。大鳥居を抜け、一キロほど南に下ると東側にどうどうたる楼門が鎮座している。人の気配は皆無。楼門を抜けると回廊に囲まれて拝殿がある。中央には舞殿。本殿は垣間見る程度。神職の気配は感じられず、信仰心に篤い地元民が朝一番の参拝に訪れる程度。程度とはいうものの比較的そんな人々が多い。早朝の神社は、そんな風な愛されている気配が濃厚で微笑ましい。私としては札所も社務所も人の気配がないのが寂しくはあるが、堂々たる神威に包まれる空間に満足していた。豊かな緑の中で鮮かな朱色は落ち着いた気配に包まれていた。
南宮山を背にして垂井駅まで戻る。近江と美濃を境する雄大たる伊吹山を目にして、心は浮気する。「伊富岐神社」という伊吹の神が鎮座する社がある。ただ、伊吹は遠い。浮気心はその事実を悠然たる山並みに惚れるだけで、身は岐阜へと舞い戻る予定。
垂井駅から岐阜駅に向かう。岐阜は愛着のある土地。一時期は夢中になって毎シーズン岐阜にいた。正確には岐阜を走る名鉄線に魅せられていた。今は廃線となった名鉄のローカル線たちに。もうみるとこもないあの長閑な光景を脳裏に浮かべつつ感傷的になる。
そんな事を思い出しつつ、8時20分過ぎに岐阜駅に立つ。懐かしい名鉄軌道線「黒野」行きを尻目にバスに揺られる。いつもながらに知らない土地のバスほど、乗りにくいモノはないよな、と内心愚痴りつつ。
「伊奈波通バス停」で下車し、次の目的地である「伊奈波神社」に到着したのは9時10分過ぎ。効率が良いのかどうかはわからないが。
「伊奈波神社」 (美濃国三の宮・国幣小社・国史現在社)
<岐阜県岐阜市伊奈波通鎮座・朱印>
主祭神:五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ命・垂仁天皇皇子)
配祀神:
ヌノシ媛命(祭神の妃神)
日葉酢媛命(ヒバス媛命・祭神の母神)
彦多都彦命(ヒコタツヒコ命・祭神の外祖父神)
物部十千根命(モノノベトオチネ命・祭神の功臣)
由緒
祭神の五十瓊敷入彦命は皇位を弟(景行天皇)に譲り、国土平定を司った神。東夷を征し、地方産業の開発にも貢献し、美濃・尾張・摂津・河内・和泉・大和地方の農業灌漑開発を行い、民生を安定させた。
当社は景行天皇14年に命の偉徳を偲んで武内宿禰に命じて稲葉山西北の椿原(現在の岐阜公園)に鎮座させたことに始まるという。
式内社ではないが、「続日本後紀」で承和12年(845)に神階が記載されている国史現在社である。
天文8年(1539)に斎藤道三が稲葉山に城を築くにあたって、当社を現在地に遷座。この時に物部十千根命を合祀した。
明治6年に県社列格。同24年に炎上。昭和14年に国幣小社に昇格した。美濃国三の宮。
参道正面(逆光ですが) |
参道鳥居。左が参集殿 |
楼門 |
神門 |
神門から楼門を臨む |
神門先の拝殿。この奧に本殿あり。 |
伊奈波神社。本日二つ目の神社は、稲葉山城趾の気配を漂わせる山裾に鎮座している。斜面を巧みに利して社地が確保されており、石段を登り切ったところに本殿が鎮座している。参拝としては「見上げる構図」。
時間的に太陽を背にする社殿は、逆光効果もかさなり、まばゆさを包まれる。目を細めつつ、手をかざしつつ社殿にむかって登るのは、それだけでも絵になる光景。
いかにも神々しい様相のなかで、社務所だけは賑々しかった。結婚式かなにかはしらないが、少なくとも部外者お断りの気配。それでも札所で「朱印はあちら」と、その賑々しい場所を案内されてしまったので、致し方がない。朱印を頂戴して、次を考える。
稲葉山城(ぎふ城)趾にもいきたいが、ほかにもいきたい神社は山のようにある。稲葉山を臨む地まできていながら、山頂の城趾をはるかにながめつつ、再びバスに揺られる私。
歴史にも触れたいが、名鉄軌道線にも触れたい。しかし私は神社に使命を感じている。ゆえに名鉄の新岐阜駅まで脇目を振らずに向かうことになる。すべての欲望をふりきりつつ。
新岐阜駅から名鉄線に乗り込む。時間は午前10時前。順調なようで時間配分を一切きにせずに「国府宮駅」をめざす。続いては「尾張大国霊神社」。
美濃を駆け抜け尾張に抜ける。脇目もふらずに一点集中。疲れるばかりの熱意だった。
参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
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