「濃尾三訪拝記・その3」
<平成16年3月参拝>
その1.美濃:南宮/伊奈波
その2.尾張:尾張大国霊/津島
その3.三河:知立神社/岡崎・伊賀八幡宮/岡崎・六所神社
その4.三河:一宮
名鉄線にゆられる。なんとなく身体は満足しているようで、このまま東海道を帰路についても良いような気分にさせられるが、決めたことなので知立駅に到着する。
私の行動原理として「駅に近い名社」が、訪れる基準となる。地図をながめて、気になる神社を調べて、という手順。今回の東海道沿線に関しては、あまりにも多すぎたために「行くべき場所」を絞りきれなかった。
それゆえに私は大社優先で、ここまでの道のりを「南宮」「伊奈波」「尾張大国霊」「津島」と歩んできた。「真清田」「熱田」は以前訪れたので割愛。そうなると次の目標は「砥鹿」しか残されていない。
「砥鹿」に赴くまでに気ままに立ち寄れるところ、という理屈にはなる。
駅前で地図と方向を確認する。国道一号線のすぐ近くであるということからも、当社が東海道の名社であることをうかがうことができる。名鉄知立駅からは北西の方向約一キロ。
今日の私は、あまりにも規模の大きな神社(官国弊社)ばかり詣でていた。知立神社でようやくに県社クラス。それでも規模が大きいことにはかわりがない。
「知立神社」(三河二の宮・県社・式内社・池鯉鮒<ちりう>大明神)
<愛知県知立市西町神田鎮座・朱印>
主祭神:
彦火火出見尊(ホノニニギ命とコノハナサクヤヒメ命の御子神)
鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアヘズ尊・神武天皇の父神・ヒコホホデミ尊の御子神)
玉依比売命(神武天皇の母神)
神日本磐余彦尊(神武天皇)
配祀:聖徳太子(文化恩神として)
相殿神:青海首命(東海地方の開拓祖神として)
由緒
三河国を代表する名社であり、東海道屈指の古社である。かつては正一位智鯉鮒大明神とも称されていた。江戸期には東海道三社の一つに数えられた。
江戸元禄期に智鯉鮒大明神の「智」が「池」とされるようになり、のちに「知立」となった。江戸期には東海道五十三次「池鯉鮒宿」の地として大いに繁栄した。芭蕉句「不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市」。
ちなみに現在も東海道たる国道一号線に隣接して鎮座。
第12代景行天皇の頃、日本武尊の東国平定帰路に際して、当地に伊知里生命(イチリユウ命)をとどめて皇祖神を祀ったことにはじまり、仲哀天皇元年に社殿が造営されたという。
延喜式内社。
大永六年(1526)に水野忠政が社殿修理を施すが、天文十六年(1547)に戸田宣光の兵火で焼失。重原村に移転したが、元亀二年(1571)に再び焼失したために、現在地に移転。
嘉祥3年(850)神宮寺とともに創建され永正6年(1509)に再建された多宝塔(三間多宝塔)が国指定重要文化財。明治元年神仏分離に際してに塔内の愛染明王を移し相輪を除いて屋根を入母屋造りとし「知立文庫」とすることによって廃仏毀釈をまぬがれる。大正元年に修理復元。明治40年に室町期の特質を残す建築物として重文指定される。
知立神社正面 |
境内 |
拝殿 |
知立神社・御手洗池 |
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左:多宝塔(重要文化財) |
13時30分。知立神社。
訪れてみて、この神社が東海道の名社であることをあらためて知る。のんびりとした境内はバランス良く彩られており、味わいを感じる。参詣者は家族連れ。赤子を抱えていることからお宮参りであることはわかる。そんな風景の中で、私は神社探訪。いつも通りに撮影を行い、四方を巡る。私は神社撮影にかなり気を使う。文章では語りきれない印象を、写真という気配で語りたいがため。神社という姿がハレる風景を写したいがため。
そんな私を一組の家族連れが捕らえたのだろう。「写真お願いします」と頼まれる。それもニコンデジタル一眼で。私は写真にはうるさい人間。しかし、人物写真、ましてや集合写真には興味はない。さて、どう撮るか。カメラをかまえて、構図を考え「とりますよ〜」で、パチリ。ところがダメ出しをくらう。「もっと近くでお願いします」と。さすがに向こうも上手だ。私が人物よりも後方の社殿を構図のメインに置いていたことを悟られたのか。ダメ出しを食らったこともあるので、後方の社殿を切り捨て「人物メイン」で、もう一枚。
それにしても、社殿の前で家族の集合写真を撮るという行為は、あまり愉快なモノではない。私は撮影に魂を込めているので、それこそ「社殿正面でパチリ」のあとには敬意を表して一礼するぐらい遠慮しているのだから。
池に鯉はいるのか、鮒はいるのか。日本武尊のときの伊知里生命以来の言霊かしらん。何れにせよ知立神社をあとにして、来た道を歩き直して、名鉄知立駅まで戻ってくる。
この先もあいかわらず未計画に等しい。名鉄線をさらに南下すると岡崎市に到達する。岡崎にはいくつかの古社名社があるようなので「東岡崎」までいってみることにする。
名鉄「東岡崎駅」。さしあたってバスにのって行きたいところがある。バス停はすぐにみつけられるが、どのバスに乗ればよいかがわからない。地方中堅都市になると、バス交通網が発達しているのはうれしいことなのだが、いかんせん部外者にはわかりにくい。幸いにして、窓口があるのでお伺いする。「伊賀八幡様にいくにはどのバスでしょうか」。窓口嬢、話のわかる人でよかった。○○神社はどこ?と尋ねると、なかには「??」な人もいるので。即答で「あのバスですよ。もう出発なので、急いでください」といきなりせかされ、せかされたからには運賃を払って乗車。急にあわただしい気分にさせられるが、乗り込んでしまえばまた呑気になる。いつになっても知らない土地のバスは苦手だ。
バスに揺られて、知らない土地の知らない風景を堪能する。岡崎城趾を垣間見る。松平家の産土。この三河こそが、松平氏が培ってきた歴史の舞台。創生期の徳川氏(松平)に興味は沸く。時間さえ許せば、岡崎城趾に赴いても良いのだが、気の急く私は、さしあたって目的地と決めた「伊賀八幡宮」まで赴く。
「伊賀八幡宮」 (県社・国重要文化財社殿・徳川氏崇敬社)
<愛知県岡崎市伊賀町鎮座・朱印>
主祭神:
応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・東照大権現(徳川家康公)
由緒
伊賀国甲賀郡に鎮座する源頼義公を祀る八幡宮を、松平四代親忠が松平家の守護神・氏神として文明2年(1470)に創建したことに始まる。
松平氏、そして徳川家康の危急危難をいく度となく救ってきたとして代々の崇敬が篤い。
織田信秀(信長の父)が天文4年(1535)に岡崎に攻め込んできた際には、松平広忠(8代目・家康の父)は伊賀八幡に戦勝祈願し、井田ヶ原に迎え撃った。その時、先頭に白馬の武者が現れ敵陣に白矢を放つと伊賀八幡の社殿が鳴動し森から無数の神矢が敵陣に注ぎ込まれ信秀軍は撤退。松平広忠は神矢を拾い、神前に奉納し感謝したという。
桶狭間の合戦の折には敗退する今川軍とともに引き上げる松平元康(=徳川家康)がようやくに岡崎手前の矢作川にたどりついたが、渡川する浅瀬がみつからずに迷っていたところ、伊賀八幡の神使たる神鹿が現れ、元康はようやくにして川を渡り大樹寺(松平菩提寺)に入ることが出来たという。
関ヶ原の戦いや大阪の陣・島原の乱に際しても、伊賀八幡の社殿鳴動や奇瑞が伝えられており、常に徳川氏神として神威を発揚されたといわれる。
寛永13年(1636)に徳川家光が社殿を造営した際に東照大権現を追祀した。徳川将軍が東照大権現を祀ることを定めた(他に日光・久能山)数少ない東照宮のひとつでもある。
家康公の遺言にある「亡骸は久能山、葬儀は芝増上寺、位牌は大樹寺」とした大樹寺は当社ほどちかくに鎮座しており、松平氏徳川氏の菩提寺である。
寛永13年の造営が、現存社殿群。昭和8年に旧国宝に指定され、現在は重要文化財とされている。
伊賀八幡正面一之鳥居 |
二之鳥居 |
伊賀川に架かる神橋 |
伊賀川土手から随神門をのぞむ |
神池から |
神池から |
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左:随神門 |
社殿 |
社殿 |
14時25分。伊賀八幡宮着。
ここは岡崎市である。三河の土豪たる松平氏の崇敬社。徳川家康と伊賀衆との関係以前から、伊賀という存在がこの地にあることに、ますますの興味を覚える。もっとも、私は「重要文化財」という象徴によって導かれたのだが、松平氏との関係に思いをはせるられる事を素直に喜ぶ。
参道を歩むと、一筋の川(伊賀川という)がある。土手ゆえの高低をすぎると視界がひろがり、神池の向こうに威風を誇る随神門に出会う。随神門は鮮かながらに静寂の空間を壊すことなく、それでいて堂々たる姿を強調するでもなく、景観にとけ込ませるかのように気配を沈めていた。単純に「来て良かった」瞬間を味わう。実のところ、さほどの期待はしていなかったのだが、予想をはるかに良い方向に覆され、わざわざバスに揺られたかいがあった。
楼門の先。拝所があり、その先は柵でもって遮られている。その先には伊賀八幡社殿。本日は、どこの神社もそうなのだが「お宮参り」の参詣者によって神社側は忙しく、私のような益のない人間は邪魔しないように佇むしかない。朱印を頂戴することだけはかかさないが。
社殿間近に赴くことはかなわなかったが、神社を取り巻く空間気配に満足する。帰りのバス時間ギリギリまで、気配を堪能して、再び「名鉄東岡崎駅」まで戻ってくる。この駅の近くにも実は古社があるから。
「東岡崎駅」から南にあるくとすぐに参道が延びている。「六所神社」という神社は名前的には面白みがない。しかし国重要文化財。あいかわらず文化財という象徴に私は惹かれていた。
「六所神社」(県社・国重要文化財社殿)
<愛知県岡崎市鎮座・朱印>
主祭神:
塩土老翁命(塩竈大神)・猿田彦命・事勝国勝長狹命・衝立船戸神・太田神・興玉神、他10柱
由緒
第37代斉明天皇の勅願により、奥州塩竈六所大明神を勧進し創建。一説に松平初代親氏が加茂郡六所山に勧進したことに始まるともいう。
寛永11年(1634)に徳川家光の命によって社殿が造営され同13年に完成。現在の社殿はこのときのものであり国重文に指定。楼門は貞享5年(1688)のもので、国重文。
明治43年に町内社とそれらの境内社を合祀して「高宮神社」と称し、大正11年に「六社神社」とした。余事ながら当社に関しては六社合祀して「六社」というわけではなく創建時から「六社明神」。
正面鳥居と名鉄 |
参道 |
正面 |
楼門 |
拝殿 |
拝殿 |
楼門と神池 |
本殿 |
午後3時10分すぎ。六所神社。
駅から5分という好立地。もっとも5分は参道を歩む時間も含まれており、その参道は名鉄によって分断されているから、すぐそこという感覚で間違いはない。
この神社も国重文。国重文であれど全国的な知名度はさほどにあるわけではない。私も「三河の神社を資料で漁る」まではまったく知らなかった。
老松に彩られる参道。しかしアスファルトで固められており道路を兼用されている参道を車を避けながら歩むと正面につきあたる石鳥居。
その先、左側の高台に、見上げるような窮屈さで楼門を拝す。階段をあがるとますます見上げる楼門。その奧には拝殿が静かに鎮座する。朱色が空間と調和しそこには落ち着きを感じる。ちょうど、安産祈願のカップルが昇殿参拝をされているようで、そんな気配すらも微笑ましい。
午後も3時をすぎると、3月の空は徐々に時間の限界を感じ始める。私は最後の目的地がある。
「三河一宮・砥鹿神社」
そこまでいけるかは正直自信はない。そもそも、このまま東京に帰る身としては、東上せざるを得ない。まずは名鉄本線で豊橋まで一気にすすんでから、あとの事を考える。
残された時間はすくないのだから。
参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名大辞典・愛知県
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「その4.三河一宮編へ」
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