「濃尾三訪拝記・その2」
<平成16年3月参拝>
その1.美濃:南宮/伊奈波
その2.尾張:尾張大国霊/津島
その3.三河:知立/岡崎
その4.三河:一宮
美濃国三の宮・伊奈波神社をあとにし、新岐阜駅から名鉄にて一気に南下。次の下車駅は「国府宮駅」。その名もズバリの国府宮に向かう。なにやら眠くて眠くてしょうがない。ただ寢るわけにはいかないので、必死に睡魔と戦いながら名鉄に搖られる。
国府宮到着は10時20分。伊奈波神社をあとにしたのが9時20分すぎだから約1時間後の到着。
「尾張大国霊神社(国府宮)」(尾張国総社・国幣小社・式内社)
<愛知県稲沢市国府宮鎮座・朱印>
主祭神:尾張大国霊神
由緒
1300年余以前から国衙設置とともに総社として国司が祭祀してきた社。ゆえに国府宮とも呼称。
社殿によれば宝亀2(771)年に社殿が創立という。
本殿は流造。拝殿は切妻造。重要文化財として室町期建立の楼門、及び江戸初期建立の拝殿が指定されている。楼門二階部分は正保3年(1646)に大修理をうけているが、室町初期の遺構を受けついでいる貴重な建築。
参道に驚きをかんじる。開放的な参道は400メートルほど一直線にのびており、堂々たる楼門を正面に見据え、徐々に歩み寄る感覚。一歩一歩、進む毎に心が澄み渡り、粛然たる気持ちにさせてくれる。
参道を歩ききると、道路に遮られて楼門が広がる。道路は交通量が多く、その点が参道からの流れを感じつつきた私としては残念な点。楼門を抜けるとすぐさまに拝殿。本殿の姿を窺うことが難しい感じ。境内自体は参道に比べてしまうとかなり窮屈さをかんじる。開放的であり、空間の深さを感じるも、参道の堂々たる気配と、楼門の迫力にに執着してしまう。ゆえに「国府宮」のイメージは楼門につきてしまう気配すらある。
10時40分過ぎ。国府宮をあとにして次の目的地を目指す。名鉄本線から津島線に乗り換えて、向かうは津島駅。行きたい神社はたくさんあるが、今の私は「有名どころ」に詣でることだけで精一杯。
津島駅から一直線に1キロほどを歩く。門前らしい静かな街並みを歩くと大鳥居が目の前に広がる。
津島神社到着の時間は11時30分。まだ午前中。かなりハイスピードな活動に自分でも呆れる。
「津島神社」 (津島天王社・国幣小社・式内論社)
<愛知県津島市神明町鎮座・朱印>
主祭神:建速須佐之男大神
配祀神:大穴牟遅大神
由緒
古くは津島牛頭天王社と呼称。欽明天皇元年(540)の御鎮座という。
全国3000社の天王社の総本社。
楼門は天正19年(1591)に豊臣秀吉寄進の創建とされる。本殿は慶長10年(1605)に松平忠吉の寄進で重要文化財。
明治期に入り、これまでの仏教色が取り除かれ、明治6年(1873)県社、大正15年(1926)に国幣小社に列格した。
神木・大イチョウ(樹齡400年) |
津島神社正面 |
楼門 |
境内風景 |
拝殿 |
本殿 |
南門(愛知県文化財)
慶長3年(1598)、豊臣秀頼寄進
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津島湊と天王川御旅所
天明五年(1785)に川は水害防止のためにしめ切られた
かつては伊勢湊に続いていた |
津島神社。社頭前は駐車場となっており、日曜日ということもあるのか、かなり賑賑しい雰囲気。どこもかしこも有名神社は「お宮参り」にあふれていた。それでもなんとなく「津島さん」らしいという一言でそんな雰囲気を許容できる自分がそこにいる。
武蔵国氷川神社を産土としている私は、おなじ祭神「須佐之男神」ゆえに、どことなくの愛着が湧く。境内は極めて開放的。楼門の先には拝殿の横姿が突き出ており、拝殿自体は南門を正面にしていることがわかる。つまり楼門は脇にあるという構造。
参拝をすませ、朱印を頂き、境内を回って、本殿を垣間見て、そしてもう一度正面から佇んで、楼門を眺め回して、という感じで、時間を気にせずに境内を散策する。
足を伸ばして天王川公園にも赴く。かつての津島神社はここから伊勢湾につながっていたという。いまは埋め立てられて水端の公園となっているが、それでも往時の気配を偲ぶには充分。
さて、本格的にこの先は計画がない。なんとなく津島までは、行きたいな、という思いで動いていたが、この先はどうしよう。
名鉄線が目の前を走っている。熱田神宮に再訪したいな、という考えもあるが、再訪よりも新規開拓の心がはやる。地図をおいかけると「知立」に目が留まる。
ここには東海道の名社、そして三河二の宮「知立神社」がある。どうやら目的地がここに決まったようだ。
参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
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