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「大原野詣で・その1」
<平成7年3月参拝・5月執筆>


目次
その1「大原野神社」「向日神社

その2「長岡天満宮」「水無瀬神宮」



何度となく京都には足を運んでいる。それでもなかなか行かない方向もある。
神社めぐりをしていて、徐々に有名社を巡っていく。その過程の中で気が付けば「二十二社」の大方の神社を巡っていた。
二十二社とは平安期に朝廷の崇敬が特別に高かった神社。

大原野神社。かねてより行きたいと思っていたが、京都中央からは外れるために、なかなか行くに行けなかった。
大阪に用事があったある三月。それならばと東京駅6時の新幹線に乗り込んで、「京都駅」を降りる。乗り換えて「向日町駅」。ここから大原野にいけるはずだった。

午前8時30分過ぎ。これから神社詣での一日がはじまろうとしていた。



「大原野神社」(おおはらの・官幣中社・京春日・二十二社制の第八位・式外社)
<京都府京都市西京区大原野南春日町鎮座・朱印

祭神
祭神は春日大社と同じ四神。

第一殿:建御賀豆智命(武甕槌命・タケミカヅチ命)
第二殿:伊波比主命(イワイヌシ命=経津主命)
第三殿:天之子八根命(天児屋根命・アメノコヤネ命)
第四殿:比淘蜷_(比売大神)

藤原氏の氏神。皇室外戚の藤原氏が、皇后参詣の便の為に都に奉斎。
延暦三年(784)に桓武天皇によって奈良から長岡に都(長岡京784〜794)が遷された際に皇后藤原乙牟漏によって春日社の分霊を勧請したことにはじまる。
嘉祥三年(850)に藤原冬嗣が王城鎮護と藤原氏系皇后の参詣のために現在の土地に遷座。地名から大原野神社と称した。
藤原冬嗣の娘である順子は文徳天皇の母でもあり、文徳天皇即位と共に大原野神社を奉斎。平安中期以降、皇室・藤原氏からの参詣が相次いだ。そののち伊勢・賀茂社にならって、斎女の制がとりいれられ、大原野斎女として氏女が奉斎。宮廷奉斎の二十二社の制では第八位(中七社の第一位)。

中世以降、藤原氏の衰退と共に当社も衰微。応仁乱後は祭儀もままならなかったが、近世期に回復。
慶安二年(1649)に後水尾天皇の勅命によって社殿再建。現在の本殿四棟春日造りはこの時の再建。
慶応元年(1865)に賀茂祭・石清水祭の勅祭に次いで大原野祭が官祭に復興。
明治四年(1871)に官幣中社列格。

大原野神社
大原野神社正面
大原野神社
大原野社参道
大原野神社
正面
大原野神社
境内
大原野神社
境内。右に「モミの木」樹齢約450年
大原野神社
大原野神社
大原野神社
大原野神社本殿。一間社春日造が四棟。
大原野神社
摂社・若宮社
大原野神社
鯉沢の池。文徳天皇が奈良春日の猿沢池を模して造営
大原野神社
瀬和井(せがい)清和天皇産湯の清水とも。歌枕の井。
大原野神社
境外摂社・樫本神社
大原野神社
仁徳天皇を祀るという。
大原野神社
大原野遠望
淳和天皇陵がある小塩山方向
大原野神社
神社から約1キロくだった場所。大原野神社鳥居旧跡。
昔はこのあたりも参道だったのだろう

JR向日町駅。向日町の中心地からは西に約5キロ。
ここからバスで大原野にいけるはず。しかしバスは来ない。どうにもタイミングが悪くて、しばらく待ちぼうけ。しかし私は朝から気が急いている。雨が降る前に行動したかった。
なぜか駅前からタクシーを利用。私も神社詣でに手段を選ばなくなったようで、これは良いことなのか悪いことなのか。
いずれにせよ午前九時。社頭前に到着。

薄曇りの空。しかしなぜだか大原野にはよく似合う。イメージとしての大原野は「幻想的なモヤ」が似合うのかも知れない。そんな曖昧な景観のなかで、参道を歩む。聞けば、この参道を「高速道路」が横断する計画があるらしい。地図で判断をするからこういう無茶な計画が起きるのだ。どうして、神域に道路を通す気が起きるのだろうか。この参道を、この景観のままで歩けるのも今だけかも知れない。

参道は約200メートル。右手に池がある。鯉沢の池。奈良春日の猿沢の池を模しているらしい。池としての優雅さが漂う。古色然とした景観のなかで、あか拔けていないよさがある。
大原野神社。佇まいがなんともいえずに好感触。古きそして気品に溢れている。
社務所で朱印を頂き、境内でぼーっとするのも、私のいつも通りの行動。地元の方々が静かに参拝を行う以外には動きがない。のんびりとのびやかとした空間のなかで、池を巡り、境内を眺め、大原野を愛でる。

大原野という言霊が心をくすぐるようだ。なんともいえない「古色感」が漂う。そんなひなびた気配が好きだ。

200メートルほど道を下ると樫本神社という大原野神社の境外摂社がある。ここを曲がり150メートルほどすすめば「南春日野バス停」がある。
ところがバスは来ない。
なにやらバスとの巡り合わせが悪いらしく、かなり待たないと来ないようだ。面白くないのでしばらく歩く。
140号線を向日町に向けて下る。大原野を背にして歩く。
南春日バス停から600メートルほど歩けば大鳥居跡がある。何気なく歩いて、何気なくこういうものを見つけるから面白いのだ。
更に約400メートル。大原野小学校からさらに灰方郵便局の前まで来ればバスの本数も3倍増する。
地図をみて気が付いたことだが、バス路線図が末端部にいけば1時間に一本程度であっても、分岐地点が比較的近くにあり、この灰方郵便局まで来れば三方向のバスが合流して向日町に向かってくれる。おなじ待つなら待ち時間に歩いてすこしでも時間を稼ぐ方が得なのだ。
もっとも大原野神社から約2キロ歩いてきているが。

雨が降ってきた。さてこの先をどうしよう。バスに乗り込んで、とりあえず阪急「東向日駅」まで赴く。地図を見れば「向日神社」という神社が有名らしい。このあたりの私は完全に土地勘がないので、ピンポイントで予備知識なしに行動していく。


向日神社(式内社・府社・国指定重要文化財本殿)
<京都府向日市向日町北山鎮座>
<延喜式内社 山城国乙訓郡の向神社(小社)・乙訓坐火雷神社(名神大社)>

祭神
向神・乙訓坐火雷神
神武天皇・玉依姫命

向神は素戔嗚尊の孫である大歳神の子である向日神という。養老二年(718)に向日神がこの地に鎮座され、地域の開墾指導に従事したことによって向日神として崇敬されたことにはじまるという。

向日山(勝山)の丘の上に鎮座。古くは向日神を祀る「上ノ社」と火雷神を祀る「下ノ社」があった。上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬が特に篤い神社。下ノ社は火雷神をまつる乙訓坐火雷神社とされ延喜式内名神大社、月次・新嘗・祈雨の頒幣に預かったが、下ノ社はしだいに荒廃衰微し建治元年(1275)に上ノ社に合祀されたという。
<現在の角宮神社(長岡京市井内鎮座)が式内・乙訓坐火雷神社にあたるともされている。>

向日神社本殿(三間社流造)は応永二十九年(1422)の造営。国指定重要文化財。
拝殿は寛永二年(1625)造営、舞殿は正徳5年(1715)という。本殿覆殿は天保年間(1830−1844)の改築時に造営され現在の景観となった。明治社格では府社列格。

向日神社
正面
向日神社
正面から更に約250Mほど坂道参道続く
向日神社 左写真
参道奧に舞殿。
向日神社
舞殿
向日神社
拝殿
向日神社
本殿。ただし外からみえるのは本殿覆殿。
向日神社
本殿覆殿後姿

阪急東向日駅から南西に約1キロ。向日町競輪場の南側。そこに一之鳥居がある。
社地は丘の上であり、ゆるりと勾配のついた参道が約250メートルほどのぼっている。街中で、唐突に丘が出くわす神社でもある。社地の後方は急斜面になり、そこに小畑川という川が流れている。
神社規模は大きい。そして参詣者も多い。郷土に愛されている気配が濃厚。私が訪れた時も社務所が団体で埋め尽くされていた。
ただ、車の往来が激しい。神社参道は幅の比較的広い坂道。車も走れる。参道の桜並木もシーズンになれば凄いらしいが、参道の車も凄いらしい。余事ながら。
いずれにせよ折角の参道を関係なしに車が駆け抜けるのはほほえましいことではない。腹ただしくもある。

本殿は重文という。何気なく足を運んだ神社が国重文というのも驚き。これだから京都の神社は侮れないのだ。もっとも私も多少の下調べはしているのだが、それでも行動は行き当たりばったり。あまり考えて行動はしていない。なんとか「一連の参拝手順」は構築しているが、かなり危ない橋を渡っているのだ。

向日神社から一之鳥居から500メートル南東に阪急西向日駅がある。そこから一駅南に長岡天神駅がある。折角だから天神様に行こうかと思う。


参考文献
境内案内看板・由緒書
角川日本地名大辞典・京都府
神社辞典 東京堂出版




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