「東近江紀行 その1・彦根編」
<平成15年7月参拝・平成15年8月記>
その1・彦根編:「大垣へ」「多賀大社」「滋賀縣護國神社」「彦根城趾」
2「安土編」3「老蘇編」4「建部編」
「大垣へ」
青春18きっぷを買ってしまったからには行動しないと損になる。そういうわけで、無計画で闇雲な日帰り旅行を強行。仕事がおわったあとに、夜行電車に飛び乗る予定であった。それが、寝台特急とかなら格好いいのかもしれないがあいにく私が予定していた電車は「ムーンライトながら・91号」。この電車は品川駅を23時55分に出発する。
職場はいつもなら余裕で残業となるはずなのに、今日に限って定時上がり。これでは時間が余ってしまう。そうこう考えていると、なぜだか職場の同僚らと酒を酌み交わす私。電車出発まで時間があるが、家に戻るほどの時間はない。その事情に便乗して、急に飲み会モード。日頃たまった愚痴の数々を発散させていると、時間はもはや23時20分。飲み会場である秋葉原から出発地の品川まで移動する時間を考えると、かなり微妙な頃合い。あわてて、宴を打ち切り、私は旅行人となる。
品川に到着して、補給物資を購入して、品川駅臨時ホームに舞い降りる。それこそ10分も余裕がない状態。ひとシーズン前までは、このホームに全席自由の「臨時大垣夜行」という究極の人民列車が待機していた。ところが今年(2003・7)からは「大垣夜行」という普通クロス車での過酷な夜行は廃止され、新たに「ムーンライトながら・91号」という全席指定臨時電車に昇格したダイヤが導入。L特急車両の使用だから、ある意味「元祖・ながら」よりも快適かもしれない。なぜなら「元祖・ながら」は一部車両が小田原以遠で自由席になるため、間が悪いと通路が埋まり落ち着いて快眠ができない。それに比べて「ながら・91号」は全席指定なうえに、「元祖・ながら」よりも1時間もはやく大垣に到着する。ほどよく目が覚める豊橋以遠各駅停車モードに腹が立つ私としては、最初から最後までまじめに快速な「ながら・91号」の存在がありがたい。
「元祖・ながら」を追いかけるように「ながら・91」が出発する。座席は特急車(L特急で多用された車両)なので、快適。もっとも前身の大垣夜行を知っているがゆえの快適なのだが。直前まで酒モードだったので、ほどよく爆睡。昔と比べて座席夜行で寝るのもうまくなったもので、とくに支障はない。ただ、あまりに寝過ぎて今後の旅程を全く考えてなかった。太陽のさわやかな日差しを迎えながら、名古屋をすぎ、私は地図を広げて旅程をねる。なにも考えていないし、さしあたっては19時頃に伊丹空港にいれば問題なかったので、かなり無計画。
ムーンライトながら・91号
6時間の鉄道を苦痛と感じるか、快適と感じるか・・・ |
さすがに垂井に鎮座している美濃一宮・南宮大社だと朝の6時台に到着してしまい、あまりに早すぎるしなんとなく身体も重いので却下。そうなると、彦根まで進むことが確定。彦根から近江鉄道に乗り換える。かつて乗ったことのある懐かしい路線。車両墓場のような雑居とした操車場を尻目に私は「多賀大社前」にむかう。以前、近江鉄道全線に乗車したことがある。そのころの私は鉄道に乗るという行為そのものが目的であって、それ以外はまったく視界になかった。ゆえに終着駅たる「多賀大社前」駅にもいったことがあるが、速攻で折り返しており、まったく空虚な無駄使いを演じていた。
神社散策を趣味にするようになって腹が立つのが、こういう存在が過去にあること。あのときに散策していれば、とは思うものの、そんなのは所詮無理な話。そのころの趣味は神社よりも鉄道だったのだから。今の神社趣味もいつまで続くかはわからない。それでも2年半は継続しているが。
多賀大社の駅が大きくかわっていた。以前乗ったときは、こんなきれいなホームでもなかった。間違いなく改築していた。そういえば走っている車両も西武の新車。大社線にはかつてオレンジ色の旧型車両が走っていた記憶があるのだが。しまいには都市文明の証であるコンビニまである。ありがたいことかどうかはわからないが、早速食料を調達する。さすがに夜行列車後の体には補給物資が必要であった。
多賀の町並み。多賀の門前町。小さな街道を歩く。小柄ながらも道にはスプリンクラーが埋め込まれている。どうやら雪が降る街らしい。私の感覚では近江には雪が合わないのだが、伊吹山や関ヶ原に近いこの地ではやはり積もるのだろう。
歴史の気配を感じさせてくれる町並みを静かに歩む。人の気配はないけれども、街はゆっくりと息づいていた。早朝。徐々に起き始める街道の空気を歩きながら感じるひととき。良い街並みだな、と。
「多賀大社」(官幣大社・延喜式内社)
<朱印・滋賀県犬上郡多賀町大字多賀>
祭神
伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)
伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)
由緒
創祀は明かではないが、古事記に「伊邪那岐大神は、淡海の多賀に坐すなり。」と記載される古社。明治にいたるまで禁中の勅願所。延喜式内社であり「多可神社二社」とある。特に延寿延命の神として著名。
古事記編纂期以前の創建古代に於ては地域豪族である犬上県主または犬上君の祖神をまつったものではないか、とされている。
元正天皇の御平癒祈願に霊験があった「御多賀杓子」が有名。かたちが似ていることから「オタマジャクシ」の所以ともなっている。
室町中期以降は、坊人の活動とともに、崇敬はますます広がり「お伊勢七度 熊野へ三度 お多賀さまへは月詣で」「伊勢に参ればお多賀へ参れ、伊勢はお多賀の子じゃないか」(多賀大社は伊勢の親神。ちなみにお多度は御子神)として全国的な信仰と共に親しまれた。
戦国期には豊臣秀吉が特に崇拝し一万石(大名級です)を寄進し社殿造営。元和元年(1615)に社殿が炎上。寛永10年(1633)に幕命による社殿造営がはじまり、5年後に完成。しかし安永2年(1773)に再び炎上。天明2年(1782)にも火災。寛政3年には再建社殿が暴風のため倒壊。災難の都度、彦根藩・幕府の寄進寄付が行われ、篤く崇敬されてきた。
明治10年に県社兼郷社、同18年に官幣中社、大正3年に官幣大社に列格。昭和4年に本殿改築し7年に完成。
境内社である日向神社(ニニギ神)は延喜式内社。
<参考>神社由緒書・神社辞典・角川地名辞典・神まうで・他
近江鉄道多賀大社前駅の鳥居 |
多賀大社・正面 |
参道 |
神門 |
参道・笑神な万灯祭 |
拝殿 |
拝殿風景 |
社殿横影 |
脇参道 |
式内社・日向神社 |
多賀の大社に近づくと違和感を感じざるをえなかった。朝7時30分。私は早朝の静かな神社を期待していたが、早々にその期待は打ち破られた。賑やかではないが、騒がしかった。この矛盾は「提灯」にある。そう、夏の祭礼「万灯祭」の準備が真っ最中であった。タイミングを間違えたな、と瞬間的に感じたがやむをえない。どうやら私はお多賀との相性が悪いらしい。
それでも「お伊勢」「お多度」「お多賀」と参拝できる喜びはある。しかしなんか釈然としないのは「神社のハレ」は地元が親しむものであって、私のような部外者が立ち入りものではないからだろう。
境内。参道から拝殿前まで不気味に白い提灯に囲まれる。参拝をしてみるが、心は落ち着かない。社殿を見物してみるが、やはり鑑賞には向かない。すなわち写真撮影には向かなかったのだ。
札所。神職さんがいるが、ちかよってみただけで「朝早くて、今忙しいんだ。」的勢いでもって私に「何の用でしょうか」と横柄な態度をきめてくれる。私が御朱印を頂戴できますか、と尋ねると「今、墨をすっていますから時間かかります」とのこと。確かに後方では墨をすっている人がいるのだが、このまま引き下がるのでは面白くない。待たされるのは慣れているので、「かまいません、お願いします。」ということでかまわず頂戴する。なんか空気が惡くなった気がするが。
境内の隅には式内社があった。さすがに隅の方になると、提灯は目立たずに人の気配もない。摂社扱いの式内社を見聞して、私も多少の落ち着きは取り返した。
この多賀大社から2キロほど離れたところに、多賀大社の別宮扱いとされている「胡宮神社」という県社がある。ちょっとだけいってみようかなという好奇心がわき歩いてみる。方向を地図で確認するが、その方向には間違いなく坂があった。坂をみたとたんに意欲を失い、来た道をひきかえしてしまう。どうやら社務所での応対以降急にこの空間が嫌になってしまった。けっこうその場の空気に影響されやすい人間なので、こういう揺さぶりには弱かった。
多賀大社前から再びの近江鉄道に乗り込み、あっという間に彦根駅に到着する。せっかく彦根にいるのだからと、彦根城を見聞しにいくことを、この瞬間に決意し、早速歩き始める。山の上に天守があるのはわかっているのだが、なかなかその姿を見せてくれなかった。天守天守、彦根城、国宝と考えながらブツクサ歩いていると10分ほどで正面に鳥居がみえてくる。
「滋賀縣護國神社」
護國の神霊34000余柱を祀る。明治八年(1875)に旧彦根藩主井伊直憲が招魂社造営を提唱。翌年に社殿竣工し戊辰戦争の戦死者26柱を祀ったことに始まる。
昭和14年、内務大臣指定滋賀縣護國神社と改称。占領期の一時期に沙沙那美神社と改称するが、戦後統治独立後に社名を復した。
|
左:彦根駅前の井伊直政像 |
滋賀縣護國神社 |
滋賀縣護國神社 |
城跡にある神社は大抵城主一族の神社か、護國神社と相場が決まっている。この彦根城趾にある神社は予想通りに「滋賀県護國神社」であった。城はこの先となりそうだったから、先に神社を見聞しておく。それにしても県都、商業都市大津ではなく城下町彦根に内務省指定護國があるというのが近江らしかった。
普通に護國神社なわけで、特に神社的なおもしろさがあるわけではない。滋賀県出身者を祀る社。護国のために戦われた祭神らに敬意を表して、一通りの参拝を行う。
「彦根城趾」
城のある丘陵は、活津彦根命を祀る神社が山頂にあったことから、かねてより彦根山と呼称され、また金亀山ともいわれていた。
井伊直政が関ヶ原の功績によりこれまでの上野国高崎城から石田三成旧領であった佐和山18万石(うち近江15万石、井伊直孝所領3万石)の大名となったが、佐和山から彦根に居城を移そうとしていた慶長7年(1602)に41歳で病没。その子である直継(直継(のちの直勝)は病弱であったために上野安中3万石の別家とされ、弟である井伊直孝が次代の彦根藩主となった)のときに佐和山から金亀山上に移転。慶長8年に着工し、全国12の大名も幕命により普請し20年後の元和8年に竣工。以後、35万石の譜代藩筆頭として彦根藩井伊家の居城となる。
明治11年に城の取り壊しにかかった際に、明治天皇が近江巡幸をなされており、城の保存を命ぜられた。それゆえに今日まで伝存している。
天守閣は京極高次の大津城、三重櫓は浅井長政の小谷城、天秤櫓は豊臣秀吉の長浜城大手門をそれぞれ移築したものという。
二の丸佐和口多聞櫓(国重文) |
天秤櫓(国重文)をしたからのぞむ |
天秤櫓(国重文) 豊臣秀吉の長浜城大手門移築という |
太鼓門櫓(国重文) |
彦根城天守閣(国宝) 京極高次の大津城移築という |
西の丸三重櫓(国重文) 浅井長政の小谷城移築という |
槻(けやき)御殿 (楽々園) 藩主下屋敷
開国の英傑(という表記が案内板に記載)である
井伊直弼もこの屋敷で生まれている |
槻(けやき)御殿 (楽々園)を玄宮園からのぞむ
四代藩主直興が1779年に完成させた
|
四代藩主直興が1677年に造営した庭園
国名勝指定 |
水面にゆらめぐ天守を池端でぼーっと座って
ながめるのも良し |
|
左:埋木舍(国指定特別史跡)
彦根藩公館御屋敷
|
城址公園のさきにお堀を渡る通路があり、その先に受付がある。受付までの道ではスタッフが清掃作業中。みなみな、人のいい人ばかりで私に対して挨拶をしてくれる。ゆえに私も「ご苦労様です。おはようございます。」等々、声をかけて進んでいく。
資料館とのセット見物は遠慮して天守閣と庭園を見物できる入場券を500円にて購入する。平山城たる彦根城は、井伊氏が日本中央の要として渾身を込めて築城しただけあって防衛能力も抜群。それはすなわち道は入り組み、堀が巡らされ、石段が多いということ。天主にいくまででバテているようでは、先が思いやられる。
石垣の固まりを抜けるように城内を巡るとそろりそろりと開けた空間に到達し、彦根の天守閣を目の前に拝む。城というものは外から眺めるのが一番である。これは私の持論であるが、この天守もさすがに飽きのこない建造物。この外観をながめるのが愉快なのであって、城の内部から外を眺めても城という機能は何の役にもたたない。そもそも中からそれこそ城主の気分になって下界を眺めても、ただの展望台。展望台ならどこにでもあるわけで、なにも天守閣を展望台とする必要はない。ゆえに、城というものは景観にとけあった外観を眺めるのが愉快なのである。それでも彦根城の場合、入場券をかわないと城の近くまでも歩くことができないので、チケットは買ってある。内部にはいるのは面白くないが、入場券があるのだから内部に入ろうかと思う。
さすがに天守閣という一つの建築物でとらえると小さい。内部の空間には無駄がない。小さいが効率はよい。
層を登るための階段。城らしい急な階段に私ですらも四苦八苦してよじ登る。これがご老体や子供であると、登るという行為そのものが苦労あふれる行為であろう。天守閣。予想通りに展望台。それども琵琶湖を望む景観をながめて気分が悪いものではい。ただそんな琵琶湖も目の前には目一杯広がっているわけではなく、その点が若干の意気消沈ではあったが。
彦根城に隣接する庭園を見聞する。玄宮楽々園・八景亭。人工的ではあるが、自然に融合し歴史に調和した庭園。本来なら観光客が多いであろう彦根城も平日午前中ということもあり人影はまばら。私にとってこれ以上、贅沢な空間はないであろうというほどの空間美を庭園は構築していた。水面にほのかに影を投じる彦根の天守。その姿は小高い丘の上に鎮座し、勇姿を誇らしげに私の前に表していた。
彦根は井伊家の街である。しかし井伊直政や井伊直孝をあまり話題とはしない。どうしても井伊直弼という希代の英雄的人物が彦根という街についてまわる。現に私も井伊直弼が幼年期に育ったという邸宅(埋木舍)なんぞも見聞してしまう。ただ井伊直弼という人物に関しては歴史的にも印象的にも激しく賛否がわかれる人物。
私は東北人気質ゆえに幕府方でも薩長方でもない。いわば幕末のとばっちりをうけた東北は被害者なのだから。でも井伊直弼という強烈な個性をはなつ人物は好きかと聞かれると好きではなかった。
NHKの大河ドラマの第一号である「花の生涯」(昭和三八年放送)の舞台でもある井伊直弼と彦根。井伊直弼という人物が希代の英傑かどうかはしらない。しかし彦根民にとっては郷土の英傑であることは間違いないらしい。内容はどうあれ、地域に愛されているのは悪いものではない。
そんな井伊直弼が青年期に育ったという屋敷(埋木舍)を見聞。8時30分に彦根に到着して10時過ぎに再び井伊直政の像が誇らしげに鎮座する彦根駅前に戻ってくる。所要1時間30分というのはかなりの駆け足なのだろう。
次はどこへ行こうか。城跡が意外と楽しかったゆえに、城跡つながりで安土城に行こうかと思う。やはり一度ぐらいは行っておくべきだろう。
次は安土編・・・
参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
日本地名大辞典 25 滋賀県 角川書店
神まうで・昭和14年・鐵道省
前に戻る
「その2・安土編」へ
|