「東近江紀行 その2・安土編」
<平成15年7月参拝・平成15年8月記>
その1・彦根編:「大垣へ」「多賀大社」「滋賀縣護國神社」「彦根城趾」
その2・安土編:「安土」「沙沙貴神社」「活津彦根神社」「安土城趾」「石部神社」
その3・老蘇編:「奥石神社」「鎌若宮神社」
その4・
「安土」
彦根城にすっかり魅了されてしまった私は、やっぱり城跡が恋しくなった。歴史を愛するものが一度でも脳裏をかすめる場所。
安土城。
どうやら次の目的地がきまった感じであった。
彦根から南下する。一路、東海道線を下ると、山が気になる。そろそろ安土の山が近かった。そんな気配を車窓から感じ、現に「安土城跡」を電車は通過する。安土の駅を降り立つ。この初めての駅から降り立つ瞬間が好きだった。それも歴史的由緒の舞台へ導いてくれる駅が。
駅前でどうしようかな、あるこうかなと数秒だけ考える。それこそほんの数秒であった。私の視界には「レンタサイクル」という文字が飛び込む。どうやらこれで安土に長居することが決定らしい。何にも考えずに漠然と行動してきたが、レンタサイクルの文字によって瞬時に私のスケジュールは確定の方向に導かれる。あとは時間配分と体力が問題なだけ。
さっそく自転車を借りてこぎ出す。目指す方向は安土ではなく「沙沙貴神社」。漠然と考えて行動している私でも、降りる駅にどんな神社があるかぐらいはぬかりなく調べている。自転車で南下すること約1キロ。神社らしい独特の杜を蓄えた空間が前方に見えてくる。空間を囲む柵で神社であることを直感するが、しかし入り口はもう100メートルほど南下したところであった。もっとも自転車にとってはなんの苦痛でもないが。
「沙沙貴神社」(県社・延喜式内社)
<朱印・滋賀県蒲生郡安土町常楽寺鎮座>
祭神:本殿
一座/少彦名命・・・ササキ郷の祖神・産土神
二座/大彦命(大毘古神)・・・沙沙貴山君の祖神・四道将軍
三座/仁徳天皇(オオササキのすめらみこと)・・・沙沙貴にゆかりある祭神
四座/宇多天皇・敦実親王・・・宇多源氏・佐々木源氏・近江源氏の祖神
以上の四座五柱を称して「佐佐木大明神」としている
磐境:
少彦名命・沙沙貴山君
権殿:佐々木源氏ゆかりの祭神
置目姫命・源雅信命・源秀義命・源氏頼命
乃木希典命・乃木静子命
沙沙貴郷戦没者靖国命
由緒:
創祀創建年代は明かではないが延喜式内社の古社。景行天皇が志賀高穴穂宮に遷都の時に、国家鎮護の神として社殿を造営させたともされる。また、この地に居住した佐々木氏の祖が、祖神である大彦命を祀ったことに始まるとされる。
五世紀から六世紀以降の記録に残る佐々貴山君が当社の付近に勢力をもっており、この一族の氏神が当社であるとされるが、ただこの佐々貴山君一族と宇多源氏(佐々木源氏)の関係は不明。
宇多天皇の皇子であった敦実親王(あつざねしんのう)が佐々木源氏の祖であり、その子孫が累代崇敬。
天保年間(1830−44)に社殿が炎上するも、佐々木源氏の丸亀藩主京極高明によって再建されている。また明治期の乃木希典も佐々木源氏の子孫であり、当社を篤く崇敬していた。
楼門・拝殿・本殿・権殿・東西回廊は江戸中期の弘化五年(1848)に再建されたもので滋賀県指定重要文化財。旧社格は県社。
<参考>神社由緒書・神社辞典・角川地名辞典
表参道 |
東参道 |
楼門 |
拝殿 |
本殿 |
権殿 |
本殿横影 |
近江源氏発祥の地。沙沙貴神社。
近江源氏といえば佐々木道誉を連想する・・・
ちなみに乃木希典の
乃木家は佐々木四郎高綱の末裔 |
駐車場が賑やかであり、そして社頭前の道路が静まりかえっていた。なにやらちょうど社頭前の民家でお葬式がとりおこなわれているようだった。神社とは関係ない。しかし手頃な駐車場として神社が利用されていた。喪服正装な団体がどことなく複雑な様子で集まっているなかで、私は大鳥居に一礼して境内に足を踏み入れる。
まっすぐ歩いて、右に直角に折れる参道。その先には、佐々木源氏の名を表すかのような質朴豪壮な楼門。圧倒的な造りであれども、その中には質素な気配を漂わせる。楼門と回廊に囲まれた神域には、由緒由来をしらなければ、もったいないぐらいの規模を感じる本殿がある。全体的に小綺麗なまでに整っていた神社は、ただ静かに音もなく、それこそ清廉な気配を私一人のために重厚にぶつけていた。
この沙沙貴神社は、その由緒もある意味で独特。それこそ佐々木さんの氏神であり、面々と受け継がれた血脈の象徴でもあった。ここでは古代の神様と中世・近代の神様が同居している。そういう意味でも興味深い神社。ただ私は佐々木源氏とは無縁なのだが、それでも心惹かれるものはある。
本殿と権殿の間に「磐境」がある。神の坐す磐。その手前に「乃木さんのお言葉」という碑もある。不思議な同居であった。
乃木希典はいう。
「私は沙沙貴神社に、度々参詣するが、この神社には私のお祖父さん、その又お祖父さん、またずっと先のお祖父さんが祭ってある。この村の方々、皆さんのお父さんや、お兄さんは、お宮の祭りを盛んにしてくださるので、私は非常に喜んでいる。
我々人間は祖先が本である。その本を忘れてはならぬ。本乱れて末治まるものではない。祖先の大恩忘れるようではだめである。是非、祖先をうやまうようにしてほしいと、この爺が言ったと、よく覚えて貰いたい。」
乃木希典という将軍。この人は純な人である。この人を思想という色眼鏡でみてはいけないような、そんな風格を感じさせてくれる。同時代人にとって、この不屈不遇の将軍はどういう風格に感じられたのだろうか。
社務所は無人。ブザーを鳴らすと、喪服姿で神社の人が登場。なんとなく驚きを感じてしまったが、向かいで仏式の葬式を行っているのだから致し方がない。朱印は「はんこ」ですよ、といわれるがかまわない。せっかくだから朱印(¥300)と由緒書き(¥500)を頂戴することにする。
それにしても、普通にブザーをならせる私も成長したものだ。むかしの私なら無人の時点で遠慮していたのだが、最近はあつかましく呼びたてている。これは「神社慣れ」とはいわないだろうに。
次はどこにいこう。私としては安土城跡に行きたいから安土駅で降り、さらにはレンタサイクルをしているはずだった。そこは初心貫徹ということで、すなおに安土城に向かう。途中、安土山と観音寺山を並べて遠望する。安土山よりも観音寺山のほうが二回りぐらい大きい山並みを誇っており、逆に言うと観音寺山に威圧されているかのようであった。観音寺山にも城跡がある。近江佐々木源氏の末裔である六角氏の居城。ただ私は観音寺山を眺めるだけ。さすがにそちらに登るだけの余裕はなく、ただ六角氏の面影をしのぶのみ。
安土城に向かう途中で、あいかわらず神社が気になる。地図上には「活津彦根神社」とある。名前が独特で、なおかつ「彦根」の語源となった神様をまつっていた。気がついたのも何かの縁。せっかくだから立ち寄ろうかと思う。
「活津彦根神社」
<滋賀県蒲生郡安土町下豊浦鎮座>
祭神:
活津日子根神(天照大神の第四御子神)
由緒:
創立年代は明かではないが、古来以来豊浦庄の産土神。豊浦庄は天平感宝元年に桓武天皇が奈良薬師寺に寄進された土地であったが、中世期に延暦寺・日吉社の勢力下にはいる。
天正四年に安土城を築くにあたり織田信長が参詣、寄進。天正十年に安土城が焼失した際に宝庫が延焼し、この際に古書宝物散逸。
大阪夏の陣に井伊直孝が彦根神の御加護により大功をたて、35万石をもって封じられた際に当社に参詣。我城を彦根と名付け、彦根神を崇敬した。
当社の本殿は三間社流造。建立年代は寛永三年(1626)という。
明治九年、村社列格。
<参考>神社由緒書
活津彦根神社 |
活津彦根神社 |
活津彦根神社社殿 |
活津彦根神社本殿 |
境内、そして参道が意外と立派。参道に至っては、道路化されているが一の鳥居までかなりの距離を要している。少なくとも「村社」クラスとしては、かなりの規模であった。境内では子供らが遊んでいる。神社らしい光景。地域に愛されている神社はやさしさにあふれていた。
神社由緒では「彦根」の由来となった神社と記載されている。実際に彦根城のあった地(金亀山)には「活津彦根神」をまつる神社があったといい、さらには「彦根寺」という寺院もあった。その金亀山の神社が当社から分祀したかどうかは定かではないが、ただ安土の地で彦根がつながるのも面白いなと純粋に考えるのも悪くない。
改めて安土城を目指す。もう私の目の前にその姿を美しく称えている山並み。自転車を山にむけてこぎ出す。
登り口は発掘作業の真っ最中。この炎天下の中での発掘には、ただただご苦労様です、と感じる。発掘作業の労苦は私も史学出身だから多少はわかる。この登山口から天守台跡・三重塔と経由すると、山中での所要時間は40分から50分らしい。少なくともレンタサイクル場のおばちゃんは「足に自信があれば」という前提上で、上の所用時間を教えてくれた。
「安土城趾」
<滋賀県蒲生郡安土町下豊浦・国特別史跡>
東海道・東山道・北陸道の要所、さらには琵琶湖畔に面し、畿内に直行できる水陸要衝を占める土地。織田信長は自身の上洛を遮った六角氏の観音寺城と対座する安土山に着目し、天正四年に丹羽長秀を奉行として築城に着手。四年近い歳月を費やして天正七年に空前の天守閣をそなえた巨城を完成させる。
しかし城の主たる織田信長が天正十年(1582)に明智光秀にうたれると、信長の波乱な人生の幕引きをするかのように、安土城も奇怪極まりない息子の愚行に巻込まれて炎上。数奇な城は幻のように巨石を残すのみとなってしまった。
本能寺の変の翌年、秀吉が山上に信長の霊を祀り、二の丸付近に自然石をそえた信長の廟を建立。信長が築城に際して創建したハ見寺は菩提寺として篤く保護され継承。しかし本堂は嘉永年間に火災炎上。現在は元亀二年(1571)建立の仁王門(国重文)と享徳3年(1454)建立の三重塔(国重文)を残す。
安土城大手道 |
静かに横たわる石段 |
天守台跡 |
信長公廟 |
黙々と延びる石段 |
琵琶湖内湖のひとつである西湖をのぞむ |
三重塔(国重文) |
仁王門(国重文)
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東登山口入口 |
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私は、さてどのぐらいの時間がかかるだろうか。ある意味、楽しみでもあった。大手道の石段を望む。独特の景観。石に圧巻される。これほどの石がいわば無雑作さにつまれている。大手道がまっすぐにのびており、両脇にも整然と石が積まれている。伝羽柴秀吉、伝前田利家等の屋敷跡が安土の大手道を取り囲む。中央を誇らしげにのびる大手道には爽快感すらも感じてしまう。軽快に登っていくが、さすがにバテる。ペースが速すぎ呼吸が荒くなる。下手な登山道よりも登る楽しさにあふれており、それと同時に人間の創造力の偉大さに圧倒され、信長という英雄的気質を、身体をもって体感する。
意外と人がいたが、全体的印象としてはかなり人は少ない。この言い回しは矛盾しているが、私の印象では安土に登る酔狂な趣味をもっている人は、まずはいないだろう、と思っていた。しかし人がいたことに驚く。もっともちらほらな程度で、全体としてはまったくいないに等しい。この規模なら入山料をとってもいいのではないか、そんなことを考えても違和感がないぐらいに、この「石垣の山」は魅力的であった。
なんども曲がり、登り、石垣に囲まれ、石垣に威圧され、そして天を仰ぐことしばし。ようやくにして天守台跡に到達する。天守台跡は、土台の窪地。礎石があるのみ。私としては頂まで登って、景観が得られるかと思っていたのだが、若干の意気消沈。
ただ景観という実情もよくわかっている。本来の安土城は岬のように琵琶湖の内湖である「大中の湖」につきだしていた。しかし今は「大中の湖」はない。一面、水田と化し琵琶湖は埋められている。わずかにハ見寺跡地から「西湖」が琵琶湖畔らしい景観をかろうじてみせてくれる。
下り道は「三重塔」「仁王門」を経由する。唐突に姿を現す重要文化財の異様な姿に、本心から驚く。この「巨石群」のなかに、ひさしぶりに木造の造形物をみる。安土らしくないが、安土を物語る遺物たち。ひっそりとした佇まいに、私も疲れを忘れて存分に見聞する。
さらに下ると、唐突に鳥居がある。さらには「式内」という文字も飛び込む。予想しなかった展開。安土の山に式内社をみるとは考えていなかったので、本気であわてる。
「石部神社」
(式内論社・滋賀県蒲生郡安土町下豊浦鎮座)
祭神:
少彦名命・天照大神・高皇産霊神・大己貴命
由緒:
景行天皇二十一年に吾地山(アヅチ)に社殿造営されたのが創祀。延喜式内論社。
当社は橘諸兄や藤原豊成、平時忠の崇敬をあつめてきたという。
天正四年に織田信長が安土山に築城するに際し、守護神として奉じたが、落城とともに社宝文献等を焼失したという。
<参考>神社由緒書
石部神社 |
石部神社 |
式内論社。ちいさなやしろ。興味関心がなければ立ち止まることはないだろう。現に、私とすれ違った入山者も神社をちょっと横見しただけで、上に登っていった。
さらに石段を下ると安土城東登山口の入口に到達。しかし自転車は中央大手道に置いているので、しばし安土のふちを歩く。
さて、安土城にも登った。安土での目的は終了。観光施設には食指が動かないし、「文芸の郷・信長の館」にある復元天守や「安土城考古博物館」「城郭資料館」にいくのも悪くない。しかし地図上で気になる場所があった。
「重要文化財」という文字が掲載されている「奥石神社」。万葉の頃から名高い「老蘇の森」とともに式内社がそこにあった。自転車でいけなくもない距離。
安土城趾から約5キロ南。沙沙貴神社からは約3キロ。距離を割り出し時間をみる。今の時間は12時30分。問題なく即決して自転車を「老蘇の森」にむけてこぎ出す。
参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
日本地名大辞典 25 滋賀県 角川書店
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