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奥州路の神社記録 その1・盛岡  
平成17年9月参拝/平成21年2月記載

<その1・盛岡>
櫻山神社 / 盛岡八幡宮 / 岩手護国神社 / 三ッ石神社 

<その2・紫波>
志和稲荷神社 / 志和古稲荷神社 /  志賀理和気神社


<その3 水沢>
高麗八幡神社 / 日高神社 / 駒形神社 / 八雲神社



実は盛岡に来たのはこのときで2度目であった。
1回目は、まだ大学生の頃(平成十二年夏)。卒論を書くにあたって、テーマとして「米内光政」を取り上げようと考え、盛岡詣でをしていた。このときはまだ神社に興味を持つ前で、(具体的に神社に興味を持ち始めたのが大学卒業後)盛岡八幡宮の米内像しかみてなくて神社を素通りしていたりとか、そんなあんばい。

そうして五年後の平成17年夏に、私は再び盛岡の地にたどり着いていた。
前日までは「奥州伊達郡をゆく」の旅をおこなっており、福島の伊達発祥の地から南部盛岡の地に到着したのが二十時頃。
その日はそのまま駅前からバスにゆられて県庁近くのビジネスホテルにチェックインした。
盛岡市内の神社詣では翌日から開始なのだ。



『櫻山神社』(旧県社・岩手県盛岡市内丸(盛岡城址公園内)鎮座・朱印

祭神:南部光行公(初代)・南部利直公(26代)・南部信直公(27代)・南部利敬公(36代)

もとは盛岡藩の藩主を祀っている祖廟。
創建は盛岡藩第33代利視公の寛延2年(1749)に第26代南部信直公(戦国時代〜江戸期初期の南部当主)の御神霊を城内の「淡路丸」に「淡路丸大明神」として祀った事に始まる。
文化9年(1812)に藩主南部利敬公が社殿を再建。社号を「櫻山神社」とした。
文化15年に藩祖を合祀し、大正元年(1912)に27代利直公と36代利敬公を合祀。

明治維新後に幾度か移転し、県社列格。明治33年に現在地に遷座。
(参考:神社発行由緒書)

正面

烏帽子岩(兜岩)
盛岡城築城寺に出土した大岩。三の丸の地に八幡様が鎮座しており
三の丸を整備していた際に出土された三角岩。
神域から烏帽子のような岩が出てきた事を瑞兆とし「宝大石」として
南部盛岡藩「守り岩」となって崇敬されてきた

境内の南部稲荷神社




県庁近くのビジネスホテルから朝の散歩に赴くとすぐ近くに盛岡城址公園があり「櫻山神社」は盛岡駅から東に1キロの公園内に場所に北面鎮座している。
盛岡駅から「中央通」をバスに揺られて、官公庁街の中心といったところ。
いま地図を見直してみれば、盛岡駅から北上川を渡ったところに中心地が広がっており市内観光もバスをメインに動かないと難儀な様子。
官公庁街のすぐ近くだけれども城址公園内という事もあり非常に落ち着いたたたずまい。



『盛岡八幡宮』(旧県社・岩手県盛岡市八幡町鎮座・朱印

祭神:品陀和気命(ほんだわけのみこと)応神天皇

康平5年(1062)前九年の役に際して陸奥鎮守府将軍源頼義・義家父子が奥州阿倍一族平定のために山城石清水の男山八幡を不来方(こずかた)の丘(現在の盛岡城址の地)に勧請したことにはじまる。往時は「鳩森八幡社」と呼称。
その後、源義経追討のために山梨県南部の地より散陣した南部初代光行公が軍功をあげて三戸に居城して八幡社を祀った(現在の八戸鎮座の櫛引八幡宮)
戦国期に至り、26代南部信直公は不来方の地に築城。鳩森神社を城内にそのまま祀り、領国鎮護の八幡様とした。しかし城内鎮座の為に一般庶民は参詣出来なかった。
寛文11年(1671)2月、第29代南部重信公は、志家の地(現在地)に新八幡宮の造営を決め、延宝8年(1680)に完成。
以来、南部盛岡藩総鎮護の八幡社として隆盛。

明治維新後、盛岡城は陸軍の所管となり、城内の鳩森八幡は祭祀執行が途絶え明治5年に新八幡に御霊代を鎮座。
明治6年に県内最初の県社に列格した。
平成9年に新社殿が竣工している。

公式サイト

 

盛岡八幡宮拝殿

境内 十二支神社(生まれ年一代守護神社)

境内 笠森稲荷神社
当地に八幡宮が祀られるよりも前に鎮座していた神社
昭和昭和32年に八幡山上から現在地に遷座

神明社
延暦期に坂上田村麻呂が建立したという。
昭和43年に現在地に遷座

すでにどうやっていったかも記憶がないが、県庁前よりバスにのって東に揺られていくと、八幡様がどんっと鎮座している。
盛岡城址から東に約1キロの地。社殿は西面してる。
境内は県下一というだけあり広大。広がる参道は流鏑馬も行われる。境内の北側には「岩手護国神社」「岩手県神社庁」がある。



「米内光政」

盛岡八幡宮の境内には「米内光政公」の銅像がある。
私が大学の時に書いた卒論のテーマが「海軍の対支政戦略」ということで「米内光政」を中心に論文を書いたりしていた。そんわけで盛岡は米内光政ゆかりの地。せっかくなのでサイト内で掲載してみる。

米内光政〜ウィキペディア

「米内光政像碑文」
撰文は小泉信三先生
米内光政像碑文
米内光政氏は盛岡の人
若くして海軍に入り進んで大将大臣に至り又内閣総理大臣となる
昭和二十年八月太平洋戦争の終局に際し米内海軍大臣が一貫不動平和の 聖断を奉じて克くわが国土と生民をその壊滅寸前に護ったことは永く日本国民の忘れてはならぬところである 
逝去十三年至誠沈勇のこの人今も世にあらばの感を新たにしつつこの文を撰ぶ
昭和三十五年十月
後進 小泉信三

左: 小泉信三先生撰文 

平成十二年夏に詣でた「米内光政墓」〜円光寺
左:
「救国の偉人 米内光政墓」
盛岡市円光寺内
緒方竹虎の字で「米内光政墓」と記されている
葬儀委員長は山梨勝之進
戒名は「天徳院殿仁海光政大居士」




『岩手護国神社』 (旧内務省指定神社・岩手県盛岡市八幡町鎮座)

明治2年に岩手県令の南部利恭によって岩手郡東茶野畑(現在の盛岡市内)に社殿が建立。
明治維新に際して、国事に殉じた勤王の志士であった目時政明命と中嶋常明命の2柱をまつったことにはじまり、その後は県内出身の戦没者約35800柱の英霊を祀っている。
明治39年に現在地にだる盛岡八幡宮境内に遷座し、昭和14年に「招魂社」から「岩手護国神社」に改称。

盛岡八幡宮公式サイト(境内護国神社)

 

盛岡八幡宮の北側に鎮座しており、境内は同一の様相。八幡宮と同じく西面をして並んでいる。こちらも八幡宮とおなじようにすっきりと直線配列で、やはり広大な境内をもっていた。




『三ッ石神社』(岩手県盛岡市名須川町鎮座)

祭神 少名彦尊・稲荷大明神

東顕寺境内に鎮座。「岩手」発祥の地という。現存する市内最古の神社。

以下、境内由緒を引用にする。
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岩手の呼び名について大和物語りによれば、「平城天皇の御代に、みちのくの国から鷹が献上され、帝はこれを岩手と名付けた」とある。俗説では、「三ッ石と鬼の手形」の物語が岩手の地名や不来方の起源や地名であるといわれている。

伝説によると、むかしこの地方に羅刹という鬼が住んでいて、付近の人々をなやまし、旅人をおどしていた。そこで人々は、三ッ石の神にお祈りをして鬼を捕らえてもらい境内にある巨大な三ッ石に縛りつけた。鬼は二度と悪事をしないし、また二度とこの地方にはやってこないことを誓ったので、約束のしるしとして三ッ石に手形を押させて逃がしてやり、それからこの手形のあとには苔が生えないといわれたいる。
しかし、長い年月がたっているので今ははっきりしません。この岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源だといわれる。また鬼が再び来ないことを誓ったことから、この地方を不来方と呼ぶようになったと伝えられている。
鬼の退散を喜んだ住民達は、幾日も幾日も踊り神様に感謝のまごころを捧げた。この踊りが名物「さんさ踊り」の起源だといわれている。「さんさ踊り」の名まえは、「さしあげ踊り」、つまりお供え物をして踊るというのが短くなったとか、三十三も踊りの種類があるので「さんさ」というのだとか、いろいろの説がある。
三ッ石はもと一個の大きな岩であったが、長い年月の間に三ッに割れて現在の三ッ石になったのである。
むかしこの地方「愛宕町名須川町三ツ割」を三ッ石野とよんでいた。
神社には少名彦尊・稲荷大明神を祀っており増産医療縁結びの神さまとして崇敬されている。
慶長四年十月二十四日(1599年)南部二十七代利直公が盛岡に城を移したとき初代光行公のみたまを三ッ石神社に迎え東顕寺に五十二石を寄進されたのである。その文書は今も東顕寺に保存されている。
(以下略)

昭和47年八月二十七日 社殿落成日 三ッ石神社奉賛会
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ちなみにこの由緒が彫られた岩は三ッ石から割れた石の一部であり、社殿新築時に地中から発掘されたものであるという。


岩手県庁より400メートルほど北側に鎮座している。東顕寺の北側に窮屈そうに鎮座しており入り口もわかりにくい。
この神社にある巨石に鬼が手形をつけた事から「岩手」の名称となったとも伝説されており興味深い。
このあたりには巨石産出が多いようで、当社や櫻山神社の烏帽子岩、そして次に掲載する「石割桜」等興味深いものがある。


石割桜


県庁となりの盛岡地方裁判所前。南部藩家老であった北家の屋敷跡にある。
約350年前に岩が落雷で割れてその割れ目に桜の種が落ちて生育したとも、岩のひびに桜の種が落ちて生育につれて岩を割ったともされている。
桜はシロヒガン桜で樹齢約350年と推定。国天然記念物指定。石は花崗岩で周囲が21メートル。桜の幹は4.6メートル、樹高10.8メートル。岩の割れ目は南北ともに少しずつ広がっているという。


この日は、朝7時30分にホテルをチェックアウトして2時間30分で盛岡市内を駆け足散歩。
10時には盛岡駅に戻って次の目的地を目指していた。
そんな次の場所は、盛岡駅より5駅南の「紫波中央駅」。ここから次の神社を目指すのだ。



その2・紫波へ 


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