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奥州路の神社記録 その2 紫波  
平成17年9月参拝/平成21年2月記載


<その1・盛岡>
櫻山神社 / 盛岡八幡宮 / 岩手護国神社 / 三ッ石神社
 

<その2・紫波>
志和稲荷神社 / 志和古稲荷神社 /  志賀理和気神社

<その3 水沢>
高麗八幡神社 / 日高神社 / 駒形神社 / 八雲神社




『志和稲荷神社』 (旧社格:県社 奥州総鎮護・岩手県紫波郡紫波町升沢鎮座・朱印

御祭神:宇迦之御魂大神(うかのみたまの大神)
    猿田彦大神
    大宮能売大神(=アメノウズメ命)

天喜5年(1057)に源頼義・義家父子が阿倍一族征討のために奥州に下り、志和陣ヶ丘に滞陣中に祈願のために建立。
次いで康平5年(1063)に源父子が戦勝祈願し、大勝をえたことから奥州稲荷社総司と崇められた。
その後、藤原秀衡の一族であった樋爪俊衡によって再建。室町期は足利一族の斯波家長が志和城主の時に社殿を新築し、近世期は南部盛岡藩の崇敬が代々厚く、盛岡から五里の道を「志和稲荷街道」として参道も開かれた。
大正7年(1918)に県社列格。
昭和32年(1957)に神社本庁別表神社列格。
境内には樹齢1000年を経た老杉がそびえておりご神木とされている。

公式サイト


拝殿

拝殿

本殿

本殿と小祠

境内風景 神々の森

稲荷山成就院護摩焚所

御神木

鼻かけ石造狐
寛永三年(1626)に神社前で農民同士の我田引水の争いがあり
その際に、当社の狐の鼻や耳が欠ける被害にあったという。

紫波中央駅より西に約8キロの地に鎮座。いまとなってみてはどうしてここまで行こうと思っていたか不明だが、駅前からタクシーで赴いていた。バスがあるかどうかもわからず、なんとなくで行動するには突拍子がなさすぎた。

黒森山を背後に控えた地に鎮座。ちょうど奥州山地と平野部の境目の山裾に位置している。山が近いだけあって、社叢がゆたか。杉の古木に覆われる震域は神々しさにあふれていた。境内は起伏に富んでいて、のんびりと歩いているのも楽しい空間。



『志和古稲荷神社』 (岩手県紫波郡紫波町升沢鎮座・朱印
  しわふるいなり

御祭神:宇迦御魂命

創建年代は不詳。守護の斯波氏・南部氏の崇敬篤かった。由緒として伝わっている伝承は「志和稲荷」と同等。
古くは「本宮」と称し、修験道を以て世襲した祀職が本宮寺と称され、明治維新まで続いていた。
領内稲荷の第二位に列せらている。

昭和29年(1954)9月26日の第15号台風(青函連絡船洞爺号沈没の台風)によって境内御神木の大杉が倒壊。その残木整理をしていた9月29日に大杉根本の空洞より御眷属の狐のミイラが出現したといわている。


杉の社叢につつまれる志和古稲荷

正面

参道

鬱蒼とした老杉に覆われる

御神木と拝殿

拝殿

手前の小祠に御眷属のミイラが祀られているという

本殿

御眷属ミイラ堂 御神木のあった場所?

志和稲荷から歩いて参拝。道を東に300メートルほどすすんだところに鎮座。両社の関係はよくわからないが、元宮・本宮のようなものだろうか?
志和稲荷は山のなかに鎮座している気配が感じられたが、300メートル下っただけで当社は平野部に鎮座している。境内の雰囲気というか、杉の古木が醸し出す雰囲気は両社ともに濃厚であり、社叢も心地よかった。

電話をかけて、タクシーをよぶと、さきほど私を志和稲荷神社まで送ってくれた人が再びのせてくれる事になった。
紫波中央駅から志和稲荷、そして志和古稲荷から志賀理和気神社へとタクシーでの移動。トータルで18キロほどの移動になるかもしれない。交通アクセスが不便なところでの参拝はいたしかたがないことではあれど、いまでもどうして私が交通アクセスのない神社に赴いたのかはわからない。



『志賀理和気神社(赤石神社)』(旧県社・最北端の式内社・岩手県紫波郡紫波町桜町本町川原鎮座)
  しがりわけ・しかりわけ・しがりわき

御祭神:経津主神(香取神)・武甕槌神(鹿島神)・大己貴神(大国主)・少彦名神・保食神(稲荷)・猿田彦神・船霊神

桓武天皇、延暦期(782〜806)に坂上田村麻呂が東北開拓拠点として志和城を築いた際に香取鹿島の神を勧請し陸奥開拓の守護神としたことに始まるというが、一説に「志賀理和気神」という地域鎮守の神様を祀っていたともされる。
延喜式神明帳に記載される斯波郡の式内社。日本最北の延喜式内の官社とされている。(式内論社をのぞく最北)
中世期には「赤石大明神」「赤石七社明神」「浮島明神」とも呼称された。
領主斯波氏や南部氏の崇敬篤く南部信直は当社に「南部一之宮」の号を献じている。

明治4年に郷社列格。大正期に県社昇格。


境内には「赤石」とよばれる霊石がある。
天正年間(1573−1591)に斯波郡の領主であった斯波孫三郎詮直(高水寺城城主・斯波氏最後の当主)が神社後方を流れる北上川で船遊びをしていた際に川底に赤石の大石を見て紫色の水波に漂う姿に感あって一首を詠んだという。

今日(けふ)よりは  紫波と名付けん  この川の石にうつ波  紫ににて

当地は、これまで「子波」「斯波」「斯和」「志和」と地名の遍遷をみせていたが以後は「紫波」と改まり、当社も「赤石大明神」「赤石神社」と呼称されるようになったという。


また当社参道入り口にある樹齢700年ともいわれる「南面の桜」には縁結びの物語がある。
元弘二年(1332)に後醍醐天皇の命によって奥州鎮守府を任せられた尊良親王に同行した藤原頼之が神社前に住居を構えていた。頼之は寂しさを紛らすために桜を植え花を愛でていたところに、花見に訪れた河東の領主川村少将の娘の桃香姫と出会い、相思相愛の仲となった。そこで二人は一本の桜を植え次の春に花見をすることを楽しみにするも、翌年に藤原頼之は上京する事となってしまった。
二人は再開を誓って別れ、そうして歳月が過ぎた頃、かつて植えた桜が不思議にも藤原頼之のいる南面に向かって咲いていた。
桃香は、そこで募る思いを歌にして送ったという。

南面(みなおも)の  桜の花は  咲きにけり  都の麻呂(ひと)に  かくとつげばや

その後、藤原頼之は桃香を都に呼び寄せたともいわれている。



南面の桜

赤石

紫波中央駅から南東に2キロほどの地に鎮座。社地後方は北上川。社殿は川を背にして西面している。すぐ北側には紫波運動公園がある。
桜並木の参道を歩いていくと、空間が開けそうして社殿が垣間見れる。
「紫波」の名前の由緒ともなっている赤石が境内の脇奥に鎮座していた。赤い石が水面で紫の波を立てたというエピソードに思いをはせながら、のんびりと境内散歩。
ここからは歩いて駅まで戻ろうかと思う。

盛岡の三ッ石神社を出発したのが10時。志和稲荷神社についたのが11時。そうして12時に志和古稲荷をあとにして、志賀理和気神社へ。13時に紫波中央駅から出発して14時30分に私は水沢駅に到着。次の神社も足早に参拝になるらしい。


その3 水沢へ

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