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奥州路の神社記録 その3 水沢  
平成17年9月参拝/平成21年2月記載


<その1・盛岡>
櫻山神社 / 盛岡八幡宮 / 岩手護国神社 / 三ッ石神社
 

<その2・紫波>
志和稲荷神社 / 志和古稲荷神社 /  志賀理和気神社


<その3 水沢>
高麗八幡神社 / 日高神社 / 駒形神社 / 八雲神社 / 付記:志波姫神社 / 付記:北辰神社




福島県伊達郡の神社を巡って、翌日は盛岡や紫波の神社巡り。紫波中央駅から在来線を南下して14時30分に水沢駅に到着。
大きな神社として日高神社と駒形神社があるので、そこを目指して市内を散歩してみる。

『高麗八幡神社』(奥州市水沢区新小路<水沢市新小路>鎮座)
   こうらいはちまん神社

祭神:八幡大菩薩(誉田別命)
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文禄2年(1593)伊達政宗が豊臣秀吉の命を受けて朝鮮に出兵したとき、留守政景(伊達政宗の叔父・伊達晴宗(伊達政宗の祖父)の三男・水沢伊達氏初代)もこれに従った。その際に守護神として近江八幡の分霊を奉祀。朝鮮から帰国後に崇拝し「高麗八幡宮」と称したとされる。

末社:三吉社(みよし社)

秋田にある三吉社の分霊を祀る。昔は、水沢から秋田に超える際に当社を拝んで旅の無事を祈ったとされる。


左:高麗八幡 右:三吉社

日高神社に赴く道すがらに鎮座。城下町という事もあって、町中はよく整備されている。こんなちいさな神社であれど、案内の看板が書いてあって、そうして水沢の領主であった留守氏につながるエピソードが感じられるのが興味深い。



『日高神社』(国重要文化財社殿・旧郷社・奥州市水沢区日高小路<水沢市日高小路>鎮座)

祭神:天御中主大神 他7柱

創建年代は、弘仁元年(810)に嵯峨天皇勅命によって建立されたという。(征夷大将軍坂上田村麻呂の胆沢城造営が802年)
この地方は古代、日高見国と呼称され当社名もここから来ているとされる。
天喜年間(1053〜58)前九年の役の際に源頼義が阿倍氏征討を日高神社に祈願したところ、雨が晴れて日が高くのぼった未の刻(午後2時ごろ)に遂に目的を達した事から「日高妙見神社」ともよばれている。

嘉応年間に藤原秀衡が社殿再建。寛永9年(1632)に水沢城主留守宗利ともどもに社殿改築した社殿が国重要文化財に指定されている。。
明治4年に水沢総社として郷社列格。

当社の有名な日高囃は、水沢城主留守宗景が江戸明暦の大火を身をもって体感した事から水沢に帰国後、消防隊を組織。日高神社の日を火に、境内社瑞山神社の瑞を水に通じるとし両社に火防の祈願をしたのが日高火防祭のはじまりという。火防祭のときに打囃子をして練り歩き、日高囃として昭和38年に岩手県無形文化財に指定されている。

境内社『瑞山神社』
留守氏代々の祖霊社。留守氏が高森城(宮城県岩切)にいたころに岩切の志波彦神社境内に一社を建立して初代伊沢家景以来の霊を祀って保榮堂と称した。
留守氏が寛永6年(1629)伊達家重臣として水沢を所有し、このときに保榮堂を移したのが瑞山神社である。
このときの領主が留守宗利であり、近世城下町水沢の基礎を築いた名君として評価されている。


日高神社 正面

神門

拝殿

国重文 本殿

御神木

境内社 瑞山神社 (留守氏祖霊社)

留守宗利(伊達宗利)像 水沢伊達氏の祖

父は留守政景(伊達晴宗(伊達政宗の祖父)の3男)

留守宗直の墓
(留守宗利の子。水沢伊達氏2代目)

水沢駅より約1キロ西に鎮座。水沢領主の留守氏にまつわる神社。ちょうど赴いたとき(2004/9/18)、境内社の瑞山神社ではなにやら祭礼のようなものが執り行われていた。境内は広く、開放的。東側から境内に入り、直角におれたところで社殿は南面していた。
伊達氏の親類でもあった留守氏といういわばマイナーな存在であれど、水沢の地に根付いた大名の気配が感じられるのが興味深い神社。



『駒形神社』(国幣小社・延喜式内社・陸中国一の宮・奥州市水沢区中上野町鎮座・朱印

神社御由緒記載の祭神
御祭神:駒形大神
        天照大御神(あまてらすおおみかみ)
        天常立尊(あめのとこたちのみこと)
        国狭尊(くにのさたちのみこと)
        吾勝尊(あかつのみこと)
        置瀬尊(おきせのみこと)
        彦火尊(ひこほのみこと)

祭神については古来より諸説あり。
木股神(こまたのかみ)、神馬、馬頭観音、天忍穂耳尊、毛野氏の氏神

戦前の内務省は「駒形にます山の神」との見地から駒形神とした。
戦後も祭神の移動がみられ
大ヒルメ尊・天常立尊・国狭土尊・吾勝尊・置瀬尊・彦火尊、ともいわれていた
最近では
宇迦能御魂大神・大宜津比売神・大市比売神・事代主神 ともいわれている。


上古のころ、関東地方で台頭してきた毛野氏族が赤城山を崇敬し、赤城の神を祀って上野平野を支配し、のちに「上毛野国」「下毛野国」を成立させた。上毛野氏・下毛野氏は関東に留まらず勢力を北に伸ばし、行く先々で赤城山にならって形の良い山々を探していたところ奥州連山で高峰をみつけ「駒ヶ岳」「駒形山」と名付けた。胆沢平野から駒形山の雄姿をほこり、山頂に駒形大神を勧請。上毛野胆沢公という毛野氏一族によるもので、雄略天皇のころといわれている。(456年)

また、日本武尊の東征時の創建とも、坂上田村麻呂の征討時の創建ともされている。

古代東北経営の拠点としての陸奥鎮守府は養老6年(722)の陸奥鎮所に始まり、延暦21年(802)の坂上田村麻呂の蝦夷征伐によって胆沢城が築かれ鎮守府も多賀城から胆沢に移転している。地主神としての駒形大神は篤く崇敬されており仁寿元年(851)に正五位下、貞観4年(862)に従四位下の神階にすすんだのは、鎮守府の要請によるものだったという。
延喜式では小社列格の式内社。
坂上田村麻呂・源頼義頼家父子・奥州藤原氏の崇敬にあつく、江戸期には伊達氏と南部氏の両藩が公費をもって二十年ごとに社殿改築を行ってきた。東北地方での崇敬もあつく東北・関東を中心に百余社の分社がある。

奥社は駒ヶ岳の山頂(1130メートル)に鎮座しており、里宮が山麓の雛子沢にある。
もともとは奥社の地に鎮座しており、かつてはそこが本宮であった。この駒形の霊山神域は容易に登拝することがかなわず、いつしか山麓の雛子沢に里宮を建立。明治4年(1871)に当社が国幣小社に列格するにあたって、現在地に鎮座していた「塩竃神社」を仮遙拝所として明治36年5月に塩竃神社の地を正式に駒形神社本社となし、山上より神霊を奉遷した。このときに山上を奥宮とし現在の形式が整えられた。
なお当社がもともと山上にあったとされるのは、山岳信仰の隆盛にともなう説ともいわれ、胆沢城のあった平野部こそもともとの鎮座地ではなかったかとの説もある。


「駒形神社別宮 塩竃神社」

塩竃大神 
     塩土老翁神(しおづちのおしのかみ)・武甕槌神(たけみかづちのかみ)・経津主神(ふつぬしのかみ)

相殿 春日神社

後冷泉天皇の1052年に宮城県塩竃の塩竃神社に戦勝祈願をし成就した源頼義・義家父子は凱旋後に水沢(現存の石田・大明神の地)の地に塩竃神社を勧請。
寛永6年(1629)に初代水沢城主留守宗利が大修繕を行い、明和2年(1763)に第7代城主留守村義が石田・大明神の地から現在地に遷座。安政6年(1859)の大火で焼失するも文久3年(1863)に再興。現在の駒形神社本殿はこの当時に再興したもの。
明治36年に塩竃大神は別宮の春日神社に合祀し、これを塩竃神社とし春日神社は相殿となった。
そうして塩竃神社社殿は駒形大神を奉祭し、新たに駒形神社として整えられた。

水沢駅から西南西に約600メートル。水沢公園・市民体育館等がある一角に神社が鎮座している。
駒形神社の社殿は西面しており、塩竃神社の社殿が南面している。駒形神社の後方24キロ先には奥宮のある「駒形山(駒ヶ岳)」がある。
もともと駒形神社は駒ヶ岳山頂と山麓の雛子沢に里宮があるという。明治のころに市内の塩竃神社に駒形神社の本宮が遷座してきて、そうして塩竃神社は境内社の春日神社に移動。春日神社は塩竃神社の相殿となったと由緒にある。上から下にというのもへんだけど、そうして駒形神社は山の上から流れるようにして今の場所に鎮座したようだ。



『八雲神社』(奥州市水沢区袋町鎮座)

かつての奥州街道入り口に位置する町が袋町であった。その袋町の奥に鎮座しているのが八雲神社(牛頭天王)。


駒形神社から水沢駅に向かって歩いていく途中に鎮座。町の鎮守様としてのたたずまいが好感触だった。

14時30分に水沢について1時30分後の16時に戻ってきた。あわただしい水沢散歩を終わらせて、そうして水沢駅から一ノ関駅まで移動して、そこから新幹線で「くりこま高原駅」に。この駅に赴くためには新幹線にのるしか選択肢がないから。
この日の宿はくりこま高原駅ちかくのホテルに宿泊。東北を縦断して3日目は「くりこま高原駅」から「くりはら田園鉄道」(2007年4月廃止)に乗りに行く予定。



付記
『志波姫神社』(式内明神大社論社・旧村社・宮城県栗原市志波姫八樟新田<旧・志波姫町八樟新田>鎮座)
   しわひめ神社

御祭神 木花開耶姫命

延喜式神明帳栗原郡7座のうちの明神大社論社。創建年代は聖武天皇の神亀天平年間の創建といsわれ、延暦年間(796−801)に坂上田村麻呂東征に際して武運長久と五穀豊穣を祈願。
社はもと伊豆野権現社と称し、築館の町に鎮座していたが正保年間に火災により焼失。その後再建されることなく伊豆大権現の石宮を祀るのみであった。
寛永16年(1639)、伊達第二代藩主忠宗は古内秀善重廣に伊豆野原の開拓を命じ、難工事の末に伊豆野堰の開削によって開拓に成功。明暦3年(1558)に至って社殿を造営し、現在地に遷座。
明治22年に市町村制市町村合併によって神社名の「志波姫」を町名とした。明治社格では村社。

くりこま高原駅から約1.5キロ南西の地に鎮座。周辺は田んぼに囲まれているのどかな田園地帯。社殿は東面している。
朝の6時30分にホテルをチェックアウトして、駅前でタクシーを拾っての参拝。お願いしたルートは「志波姫神社を経由して、くりはら田園鉄道の沢辺駅までお願いします」と。
神社自体はさほどに大きくはないけれど、木々に覆われた参道の先にぽっかりと空いた空間があってそこに神社があるという雰囲気がよいたたずまいをかもしだしていた。
タクシーを待たしていたので、若干駆け足気味で参拝して、そうして沢辺駅に。
3連休の東北縦断は1日目は福島伊達郡、2日目は盛岡〜水沢の神社、3日目は「くりはら田園鉄道」撮鉄となって、そうして私はようやくに帰宅。



おまけで「くりはら田園鉄道」の写真でも掲載しておこう。

くりはら田園鉄道 〜wikiペディア〜 2007年4月廃止
今回(2004/9)の東北詣での半年後の
2005/2にも「くりでん」に行ってました。
暇つぶしに写真でも掲載。



くりはら田園鉄道の沿線でたまたまデータがあったので神社掲載。

付記:
『北辰神社』(栗原市若柳町川北鎮座)

祭神:天之御中主神

天正年間(1573年〜1592年)に千葉越前守が石越村西館に居城し岩城国相馬中村の妙見神社を勧請して社殿を構えたことに由来。

若柳駅と石越駅の間に鎮座。4号本吉街道に面しており、交通往来の要所でもある道筋。
2005年2月に沿線の撮影をしていたときに、たまたま見つけて参拝したときのデータが運良く写真としてのこっていたので、おまけではあれど当ページに掲載。

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