「秩父の古社巡り・その3」
<平成16年10月>
その1「三峯神社」
その2「今宮神社」「秩父神社」
その3「吉田ノ椋神社」「野巻ノ椋神社」「皆野ノ椋神社」
秩父鉄道皆野駅に到着したのが、14時15分。バス停に赴くも、予想通りに途方に暮れる。わかってはいたが、バスなんかは走っていない。3時間に1本ほどしかなく、今のこの時間帯は皆無に等しい状態。
しょうがないから、駅前まで戻れば、もっともらしくタクシーが呼んでいる。乗り込んで「吉田の椋神社までお願いします」と、いえば、簡単にタクシーは走り出す。タクシーで神社詣ではしたくはないが、交通手段がないのであれば致し方がない。
運転手さん曰く「バス停まで行って駅前まで戻って人は多いですよ」と。私もその一人なのだが。椋神社に行く人も意外といるらしく、「秋の例大祭・椋神社の龍勢」や「秩父事件」関連で訪れる人も多いらしい。運転手さんにいわれて思いだした。そういえば「秩父事件」の発祥地が椋神社であったことを。式内社として脳裏をしめていたために秩父事件をすっかりと忘れていた。
結局、皆野駅から約10キロの道のりをタクシーは走って2100円也。高いかどうかはわからないが武蔵国内の式内社を巡ると言うことを心に決めてからはいたしかたがないとも思っている。
椋神社には14時35分に到着。人の気配はやっぱりなかった。
「椋神社(吉田)」<むく神社・県社・式内社>
(埼玉県秩父郡吉田町下吉田鎮座鎮座)
祭神:猿田彦大神・武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神
景行天皇の時、日本武尊東征の際、矛を杖にして山路を越え、この吉田町の赤柴まで来ると、矛が光を放って飛んでいった。尊は不思議に思って光が止まったところまで行ってみると、井の辺のムクの木陰から猿田彦命が現れ道案内をしたという伝説から、尊は持っていた矛を神体として猿田彦命を祀ったことに始まる。ゆえに現在、井椋様と呼ばれ親しまれているという。
神社としては和銅3年(710)に社殿が造営されたのを始まりとしている。
平安期の延喜式では式内社列格。
戦国期。秩父神社と同様に永禄12年(1569)に武田信玄によって焼失させられている。そののち天正3年に鉢形城主北条氏邦によって再建。現本殿は寛永4年に修理されたもの。
明治6年村社、明治15年に県社列格。明治17年に秩父事件勃発。
また、当神社に奉納される「竜勢」と呼ばれるロケット式花火は戦国期の「のろし」の名残だともいわれ、また明治17年に秩父事件を起こした秩父困民党の集結地となったことで有名である。
現在、式内社とされるものは5社ある。当社を含めていずれも川を見おろす位置にあり、神体として石棒として猿田彦命を祀っている。なお、明治期の熊谷県によって5社をあわせて式内社と認定された。当社以外の4社は以下の通り
椋神社(村社・秩父市蒔田字宮平鎮座)・・・別ページ掲載
椋神社(村社・秩父市蒔田字宮原鎮座)・・・別ページ掲載
椋神社(村社・秩父郡皆野町野巻鎮座)
椋神社(村社・秩父郡皆野町皆野鎮座)
正面 |
境内 |
拝殿 |
本殿 |
八幡宮 |
隣接する龍勢まつり会場 |
吉田の椋神社は有名な事柄が二つ。
秋の例大祭で打ち上げられる「龍勢」は戦国期の「のろし」の名残とも言われ、そしてロケット発祥の地ともされている。ちなみに毎年10月第2日曜日にとりおこなわれるらしく、気が付けば私はそんなことも忘れて龍勢終了後の椋神社に訪れていたらしい。こんなことなら祭礼中に訪れたかった。
そして明治期の秩父事件を起こした困民党の拠点であり決起集結地ともなったのが当社。
そんなことを思い出しつつ、式内社としての椋神社に接する。
境内は極めて落ち着いた色合いを醸し出す。ぼーっと佇み、そして考える。この先をどうしよう。手元の地図を開けば駅までの道のりは約10キロ。帰りのバスは分らない。5キロほど皆野町方面に進めば「皆野町野巻」に鎮座している式内社椋神社がある。どうせならそこまで歩こう。そう心をきめて歩みをはじめる。
近くに龍勢会館という「道の駅」がある。ちょっとだけ休息をして、改めてバス停をながめて、バスはないことを確認して、しょうがないから歩き始める。
15時50分。かなり途方に暮れながら1時間ほどひたすらに歩いて「野巻」に到着。「椋宮橋」というバス停近くに椋神社が鎮座している。
「椋神社(野巻)」<村社・式内社>
(埼玉県秩父郡皆野町野巻鎮座)
祭神:猿田彦命・大己貴命・八意思兼命
由来は椋神社としてほぼ同じ。明治4年に村社列格明治40年に近隣の神社を合祀。この際に当社当方の蓑山(587メートル)に鎮座する蓑山神社を椋神社奥社とした。
野巻の椋神社は「椋宮橋」というバス停の近くに鎮座している。そして運が良いことにバス停で待てばバスが来るという事実が判明する。今の時間は15時50分。そしてバスは16時18分にやってくる。ありがたいことにこの先は歩かなくても良いようだ。
ちなみにこの椋宮橋。バスは皆野駅行き4本。07:08・09:55・12:30・16:18で終了。こんなバスに乗れるタイミングに感謝する。これが休日だと08:03・10:33・11:52・14:53で終了なのだから、今日が休日でないことも感謝しないといけなかった。
なにやらバス停の印象しかのこってないような感じではあれど、そんなバス停からちょっとした高台に登ると椋神社が鎮座。村の鎮守様は静かに夕暮れの中で佇んでおり、バスが來るまでの時間をしばし境内で待つ。
もっとも乗り損ねるのが怖いので早めに戻る私ではあるが。
バス停からぼーっとさらに遠くの武甲山をながめる。皆野からでもみえる武甲山は、三峯からでもみえた。今日はひたすらに武甲山に見守られているような感じでもある。
「椋神社(皆野)」<村社・式内社>
(埼玉県秩父郡皆野町皆野鎮座)
祭神:猿田彦命
創建は景行天皇41年に日本武尊が東国巡見にさいして、猿田彦命に導かれて創建したとされる。
明治5年に村社列格。
平将平・重能の墓がある円福寺が鎮守として崇敬し、付近に古墳が多い当社を本社とする説もある。
バスは5分ほど遅れて「椋宮橋バス停」にやってきて、私はようやくに皆野駅に戻ってくる。
16時30分。
もう完全なる夕暮れであれど、最後にもう一箇所の「椋神社」を目指す。すぐそこに式内社があるのであれば、当然に見逃すことは出来なかった。
皆野駅の南へ500メートル。敷地の脇を荒川が流れる台地に鎮座。
16時45分。社頭前。みるみる暗くなっている境内に、とりあえず慌てて写真を撮る。
椋神社5社。明治期に5社を合わせて式内社とされた。そのうち本日は3社を駆け足参拝。秩父市内の2社は訪れていないが、式内社椋神社参拝としては上出来。三峯、秩父を経由して椋も回ったのだから、かなりのムリをした。
残す式内社は「賀美郡4社」を残すのみ。今年中に「武蔵国式内社44社参拝」をすることができるかどうか。いずれにせよ、変な使命感に燃え、変な滿足感に包まれながら、闇夜に沈む秩父鉄道皆野駅ホームから家路に着く。
参考
三峯神社由緒書き及び境内案内看板
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名大辞典・11埼玉県
郷土資料事典・11埼玉県・人文社
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