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「いつきまつる島・安芸詣で」
<平成16年3月参拝・平成16年3月記>


1.「いつきまつる島へ」/「厳島神社」

2.「宮島散策(清盛神社・大元神社・多宝塔・五重塔・千畳閣)」

3.「速谷神社」/「多家神社

4.「広島護國神社」/「広島城」



私の広島行きの予定では厳島と呉を軸としていた。ただ事前計画の段階で無茶であることは判明しており、素直に確実に「神社巡り」へと予定は移り変わっていた。

地図を見る限り、そこに鎮座していることがわかっている社がある。「安芸国二の宮・速谷神社」。
次いでは、その神社を目指そうと思う。

12時。広島電鉄「宮島駅」から乗り込み、無人駅たる平良駅で下車する。
下車して途方に暮れるのもいつものこと。大体の方角はわかっているのでとりあえず歩き出す。北東の方向に2キロほど歩くのは承知している。逆に言うと往復で4キロほど歩くことにあるのだが、それもしょうがない。
青空だった天候も、私が山の方向に向けて歩みを進めていくと白いモノが混じり始めてきた。普通に雪だった。そういえば、飛行場も雪が降っていた。「いつきまつる島」の海の青さと空の青さに魅了されてきた私はそんなことも忘れていた。
いい加減歩くという行為に飽きを感じ始めると目の先にいかにも「らしい」空間が漂い始める。神々の森、鎮守の杜。そんな空間を目前に「速谷神社」の気配を感じる。12時45分だった。


速谷神社(国幣中社・安芸国二の宮・式内名神大社)
朱印

主祭神:飽速玉男命(速谷神ともいう)

由緒:
鎮座年月は不詳。安芸国造の子孫及び国人が御祭神の薨去後に敬慕して奉祭しのが1700年余前とされている。
嵯峨天皇期に名神に列し、醍醐天皇期の延喜式では名神大社。月次・祈年・新嘗の三祭に神祇官奉幣の神社として安芸三国式内社(厳島・速谷・多家)では最高の崇敬にあった。
朱雀天皇の承平五年(925)に藤原純友の乱が起きると朝廷より当社と厳島社を含めた関西13社に平定祈願が行われた。

大正13年に国幣中社列格。現在は神社本庁別表神社。

以上は「神社由緒」による。
以下は「神社辞典」記載に基づく。速谷神社として由緒には記載されていない事柄。

中世期には式内社としての当社は所在が不明となり、江戸期に入って広島藩主浅野長晟が正保3年(1646)に尾張藩主徳川義直に「延喜式内社・速谷神社」を問われ、家臣に調査させたところ、安芸国内に速谷神社を称する神社が確認できず、速田神社なら鎮座しているということが判明した。祭神の速玉と速谷・速田の音訓が似ていることから、延喜式の速谷神社は飽速玉男命を祭神とし、のちに速田社とも称されるようになったとされるようになった。
明治に至ると速田社としての縁起は削除され、速谷神社として現在の形式が成立したという。

速谷神社
速谷神社入り口
速谷神社
楼門
速谷神社
神門
速谷神社
本殿
速谷神社
速谷神社
速谷神社
速谷神社

新しい木々が香るようなすがすがしい社殿。社殿を取り巻き、ちらりちらりと舞い始める白雪。それでも青空だった。参拝する者は私一人。私のためにささやかなイタズラを神々は試みているのだろうか。立ち去ろうと背を向けると雪が賑々しくなり、思わずコンビニに避難せざるを得なかった。

戻り道はさらに足を伸ばして「JR廿日市駅」を目指す。いつもどおりに先々は未定ながら広島市内に戻ろうかと思っていた。選択肢はひとつしかなかった。駅前からバスに乗って「多家神社」へと向かう予定。安芸国の延喜式内社は三社しかなく、すなわち厳島と速谷、そして多家。多家に行かないのはやはり神社趣味者としては寂しいので、後のことは気にせずに、駅前からバスに揺られることにする。

バスに揺られて「多家神社」に向かう。多家神社は安芸国総社の位置をも占めており「えの宮」とも呼ばれている。広島市に囲まれた府中町に鎮座。府中という極めてわかりやすい象徴を目指すのだからさすがに私も迷うことはなかった。そうであっても知らない土地の知らないバス路線には不安がついて回るのだが。

14時30分。「えの宮」バス停を降りると相変わらず白雪が舞っていた。それもさきほどの速谷神社の時よりも激しく、そして不思議にリズミカルに。そんな雪たちはなぜか微笑ましく、私は愉快でもあった。演出としてもなかなかお目にかかれない光景なのだから。


多家神社 (延喜式内名神大社・県社・安芸国総社・安芸郡府中町鎮座・たけ神社)

祭神:神武天皇

由緒:
神武天皇東征のときに阿岐(安芸)国埃宮(えの宮)を行宮として駐留された。その行宮跡に建てられたのが当社である。ゆえに当社は「えの宮」とも呼称されている。
延喜式内では名神大社列格。

中世期になると当社の記録が現れず、所在すらも不明となってしまった。現在地の北側に鎮座し境内に「たけい社」がある松崎神社と現在地の南側に鎮座している安芸国府総社がともに「式内・多家神社」を称するも結論が出ず。
明治6年(1873)に両社を合祀し現在地に多気神社をまつった。社殿は広島城三ノ丸内の稲荷社を移築。大正4年(1915)に火災により社殿を焼失し、再建。当地付近には神武天皇遺跡とされる「誰曽酒森」もある。

境内北側の「宝蔵」は大正期の火災を免れたものであり、浅野氏広島入封ごろ(江戸初期)の建築とされている。現存する校倉造りとして全国的にも例をみない校倉組木部分が四角形(多くは三角形か五角形)というものであり広島県指定文化財。
<神社辞典・郷土資料事典参照>

多家神社
多家神社境内入口
多家神社
高台上から
多家神社
境内
多家神社。
厳島での青空がウソのように「白雪」が舞っていた。
多家神社
拝殿
多家神社
拝殿
多家神社
拝殿本殿の間の中門
多家神社
本殿
多家神社
宝蔵
多家神社
宝蔵

多家神社自体は、実は新しい部類である。明治期に南北の神社を合祀して創建された神社。合祀対象が式内社であり、そして安芸国総社とされていたために、この多家神社がそれらの格も引き継いだ、ということになる。

神社は高台に鎮座している。こんな奇怪極まりない天候であれど、若干の参詣者(それでも入れ替わりで2〜3人)がいるのは、この神社が住宅地域にあるからでもあろう。
だんだんと冗談でなくなってくる雪。そろそろ私も心配になってくる。帰りの飛行機が飛ぶのだろうか、と。そんな懸念すらも沸き起こり、それでいてますます楽しくなってくるが、さすがに突発的な雪は徐々に弱まり始める。

15時。帰りのバスに乗り込む。そして三度目の広島市内に戻る。この先は、本気で未定だった。ここまでは「神社」を下調べしていたので、ある意味では計画内。しかし、この先はどうしよう。広島宇品にいくのもよいかしらん、と思案するも気が向かない。ここにきて宇品ではどうしても呉に行きたくなるから。さすがに呉に行く余裕はもうないのだ。バスの中で、そのまま「広島城」へといこうかな、と思う。方向的には城趾の方に走っていたから。


参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
郷土資料事典 広島県・人文社


4.「広島護國神社」/「広島城」へ


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