「いつきまつる島・安芸詣で」
<平成16年3月参拝・平成16年4月記>
1.「いつきまつる島へ」/「厳島神社」
2.「宮島散策(清盛神社・大元神社・多宝塔・五重塔・千畳閣)」
3.「速谷神社」/「多家神社」
4.「広島護國神社」/「広島城趾他」
バスは市内に戻ってくる。広島市内は歴史趣味者にとってはあまり食指が動かない街。なぜならあの「原爆」で歴史的由緒などというものは吹き飛んでいるから。
15時30分。城趾前に到着。
当然広島城もしかり。それでも広島城という歴史を象徴する言霊にふれたくなった。ゆえに広島城趾に行こうかと思う。そして広島城趾以外にも思い出した目的がある。もっともそれはたいしたことではないが。
「広島護国神社」という一部の趣味者には極めて有名な神社がある。一部の趣味者とはすなわち「巫女さん萌え」な方々。この広島護国神社では毎年「みこ踊り」なるある意味合いで特殊神事(!)が催されている。まるで、その手の趣味者のためのおまつりが。別に私は巫女萌えではないし、まじめに神社に向き合っているつもりの人間である。ただある意味での「話題の神社」に接してみたかった。そして各地域を代表する「護国神社」に詣でるのも私の行動に含まれていた。余裕があれば内務省指定護国神社には足を伸ばすようにしていた。そういう意味でも、広島城内の敷地に鎮座している護国神社にはいくべき価値があった。巫女さん云々は関係なしに。
<・・・でも行っちゃいました。みこ踊りレポ・・・>
「広島護國神社」(内務大臣指定護國神社・広島市基町鎮座)
祭神:
明治維新以来の広島県出身国事受難者82000余柱
原爆による公務犠牲者10000余柱
由緒:
明治元年(1868)戊辰戦争の犠牲者78名の霊を祀り「水草霊社」と称し市内「二葉ノ里」に祀ったのがはじまり。明治8年に官祭の招魂社となり、昭和9年に基町の広島西練兵場西端に遷座。
昭和14年内務大臣指定の広島護國神社となる。昭和20年8月6日の原子爆弾によって社殿を焼失。昭和31年11月に広島城跡の現在地に再建した。
占領統治下にあっては広島神社と社名を改称したが、独立後に社名を復す。
<神社辞典参考>
広島城の郭にはいる。復元であって、そこに城が存在したという事実が現実として引き継がれており、石垣と堀を歩むだけでも、私は充分に広島城の歴史を感じることができる。そして護国神社と復元天守を垣間見る。
・・・
・・・巫女さんだ(笑)
ちょうど掃除の時間だったらしく、あっちこっちで箒を手にした巫女さんがいる。10人前後の巫女さんが、整然と掃き清めている光景は、神社の日常であってもなかなか目にすることが少なく、私もそれだけでなにかを満足していた。例の祭りでは、この敷地を100近い巫女さんに埋め尽くされ、踊り(=舞にはあらず)を奉納するわけで、やっぱり巫女さんなわけで・・・。巫女さん萌えではないのだが・・・。
真面目に護國の英霊たちに拝し、奉祀されている巫女さんたちの気持ちを推し量るわけでもなく、掃除が終わるまで見聞。
・・・気を取り直そう。
広島城趾の復元天守に向かう。途中、礎石があるので近寄ってみると「大本営跡地」。そういえば大本営が広島にあった。日清戦争時に東京から広島まで大本営が移され、すなわち明治天皇が広島に座し、そして宇品港(広島港)が本土の戦略拠点だった。そんなことを思い出しながら、大本営跡の礎石をながめる。大本営がなにも意味をなしていない空間で、呑気に犬たちが飼い主に連れられて駆けていた。
「広島城趾・他」
広島城:
吉田郡山城主、毛利輝元(元就の孫)の築城。堀、石垣を残し国史跡とされる。
天正17年(1589)に秀吉腹心の黒田如水孝高によって縄張りされ穂田元清(元就の子)らを奉行にして築城が開始。同19年に天守閣が完成し、毛利輝元が吉田郡山城から入城して広島城と称したが、別名として鯉城・当麻城・在間城とも呼称された。この当時の毛利氏は安芸・周防・長門・出雲・石見・備後・備中・隠岐・伯耆の9カ国112万石の堂々たる大名であり、広島城はその威風を誇っていた。
しかし慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて西軍盟主とされた輝元は長門周防に減封され、在城はわずかに9年でしかなかった。
毛利輝元のあとに清洲から転封された福島正則が入城する。しかし豊臣恩顧大名として警戒され、徳川氏によって元和5年(1619)に改易。
続いて紀州和歌山の浅野長晟が42万石で入城。以後、浅野氏が幕末まで続いた。
廃藩置県後、城内には陸軍施設が設けられ、明治7年には本丸御殿・三の丸が出火。天守閣と御門、二の丸を残すのみとなってしまった。昭和20年の原爆によってすべてを建築物の焼失したが、昭和33年に鉄筋コンクリートにて五層天守が再建。そののち平櫓、表御門、御門橋なども復元された。
<郷土資料事・広島県参考>
広島大本営跡
明治27年(1894)8月
戦端が開かれた日清戦争の指揮のため、
9月に大本営が広島の第五師団司令部に移動。
同28年4月まで7ヶ月間、明治帝の行在所となった |
広島城復元天守 |
表御門 |
二の丸 |
広島県産業奨励館跡 |
広島県産業奨励館跡 |
普段の私は、あまり城の中に入るという行為をしない。ましてや復元天守の中ではなおさら。城という威風を誇る建築物は外観をみせつけるものであり、そんな城のある風景をながめるだけで私は満足しているので。城の中には様々な展示物があるが、歴史趣味者な私もさして面白いとは感じずに知識の浪費だけをしている感があるのが、いつもいつも面白くない。もちろん、歴史を受け継いだ城なら話は別である。内部構造、内部建築にも見応えがあるのだから。
広島城。時間はあるし、このあとに格別な用事があるわけでもないので、天守に中も見聞しようかと思う。
広島ゆえに観光客が多い。さして歴史に興味がなさそうな人間にあふれ、そして多国籍な言語が飛び交っていた。さすがに国際的な都市である。外国の方々が賑々しく、私はぱっぱと上まで登って、ざっと眺めて見聞を終了する。
安芸広島。吉田郡山の毛利元就はさして縁がなく、孫の毛利輝元。そして福島正則、浅野氏と続く城趾。そんなことを若干考えながら、広島城趾と護国神社をあとにする。
16時45分。
広電の停留所まできて「さて夕方だ。どうしよう」。正直、もうするべきことは時間的に残されていなかった。しょうがないなぁ、という気分で広島市民球場の前を歩いていくと、極めて著名な「象徴物」がある。しかし私はこれがみたかったわけではなく、さして熱意があるわけではない。
世界遺産に登録されている広島県産業奨励館跡をなんとなくの足が赴くままに見聞する。
歴史的な意味合いをこの建物に見いだすわけでもなく、この建物を自らの目で見て「あの時代」のひとつの形を脳裏に浮かべてみるだけ。「象徴物」として残酷な姿をさらし、そして表現し続ける建物。この象徴的な建物は、存在がむやみと大きかった。ゆっくりと建物を一巡し、ゆっくりとみつめる。いろいろなかたち。雑多な思い。こめられる気配に彩られながら、私は歴史と化した事実を思う。
広島らしい時間の流れのなかで、手を合わせる。広島という象徴を格別に贔屓するわけではないが。
近代史趣味者として、「あの時代」の悠然たる象徴「呉」に強烈な想いをはせるもその地に向かうことはかなわず、「広島原爆ドーム」を惰性的に眺める。ある意味で皮肉だった。私自身に対する痛烈な批判だった。
広島駅に戻り、お好み焼き屋をハシゴする私。日が落ちる頃、やっと観光客らしいことをする私は、ただむさぼりくらうだけだった。
20時過ぎの飛行機に乗るために、あとは連絡バスの時間を待つのみ。こんな事をしている私は帰りの飛行機を待っている間、「究極の暇人」だった。
帰りの空港連絡バスに身をゆだね、夜の広島をあとにする。郊外たる広島空港から関東に帰る日帰り旅。朝一番で広島に来たという行為すらもはかない事実。行ったことがなかったというだけで、そして深く考えることもなくそれこそ「ぶらり」と訪れた広島。「いつきまつる島」にあこがれ、そして魅了された私は、そのあとの行動は全くの余事だったのかもしれない。「安芸宮島」がすべての印象に覆い被さっていた。
20時20分。
離陸した飛行機から夜景をながめる。窓の外の夜は賑やかだった。密集する光に都市を感じ、闇に瀬戸内を感じる。夜景を眺めながら、徹夜の私はいつしか心地よく揺られていた。
「いつきまつる島」を悠然とした想い出に抱え、日常へと帰る旅路のなかで・・・。。
参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
郷土資料事典 広島県・人文社
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