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「東総御朱印紀行〜銚子大神幸祭関連神社ほか〜

<平成21年12月30日参拝/平成22年1月記載>

渡海神社」「玉崎神社」 「銚港神社」「海上八幡宮」「東大社」「豊玉姫神社」「雷神社

関連神社の御朱印はこちら



12月30日。去年に引き続いて東総地域の神社参拝オフを敢行。
参加メンバーは赤城おろしさんと、御津垣さん、そして私の3名。
よく訪問させて頂いている「関東の神社めぐり・プチ神楽殿」サイト内の「神楽殿掲示板」にて募集していたオフ会です。

まずは銚子電鉄犬吠駅に10時集合の段取り。

私は地元の駅を5時過ぎの始発で出発し、浜松町駅6時20分の高速バスを目指す。ちょうど冬コミの季節という事もあって途中のJR大崎駅では大量の乗客がホームにあふれたり。
高速バスに乗れば銚子には8時45分に到着できる。この銚子犬吠行きの高速バス(京成・千葉交通共同運行)はかなり重宝している。都内から銚子に赴く場合に特急よりも運転本数が多いので乗りやすいということもあってお勧めの手段。今回の高速バスの運転手は女性運転手。もう足かけで4年間ほどこのバスを利用しているが女性運転手は初めてだったりする。結構、新鮮な気持ち。

聞くところによると、オフ参加メンバーの二人は、それぞれ君ヶ浜や愛宕山(地球が丸く見える丘)で車中泊していたりしたらしい。

犬吠でメンバーが揃ったら、参加各自のおみやげ用に「銚電のぬれ煎餅」や「犬吠駅の佃煮」などを買ったり。
(ちなみに「銚電のぬれ煎餅」は嫁が手配してくれました。)
犬吠犬吠手焼きの「ぬれ煎餅」を戴いたり。久しぶりに焼きたてを食べるとさすがに旨いものである。


写真は銚電本社のある「仲の町駅」
写真に写る旧型車は今年がラストラン

写真は2009/12/13撮影(車庫内につき許可を得て撮影)
現在整備中の車両。今年からはこの車両が運行されます
元京王井の頭線1000系を伊予鉄道が使っていたものを買い取り

さて神社オフ。
まずは犬吠から近い、渡海神社に訪れてみる。




「渡海神社」 (とかい神社・旧郷社・朱印・銚子市高神西町鎮座)

前回掲載ページ

祭神:綿津見大神(わだつみのおおかみ)
祭神:猿田彦大神

犬吠埼の南端に鎮座。
創祀は和銅二年(709)とも大同年間とも言う古社。東海鎮護と銚子半島の鎮めとして創建。当初は銚子漁業発祥の地である外川浦日和山に創始されたという。
貞元元年(979年・1674年(延宝2)に遷座)に現在地に遷座。
明治6年に郷社列格。当時は高神村の氏神。
当社の社叢は極相林として千葉県指定の天然記念物として保護されている。
東庄町の東大社と小見川町の豊玉姫神社、海上町の雷神社の三社が銚子外川浜に渡御したことから渡海神社と呼ばれ、現在では20年に一度行われる神幸祭の渡御前日の宿泊社となっている。


渡海神社一の鳥居 脇参道にあるが「一の鳥居」

渡海神社正面

渡海神社二の鳥居 極相林が鬱蒼と茂る

渡海神社拝殿

渡海神社拝殿 龍彫刻の水盤

渡海神社 本殿

渡海神社 本殿

渡海神社  御神木

渡海神社御朱印

渡海神社。境内は極相林として県指定天然記念物となっている杜。さすがに緑の層が分厚く、いつ来てもこんもりとした緑が薄暗い。社殿前まで来れば一段と明るくなり、このコントラストの明暗が神域を趣深くしている。
拝殿には門松が備え付けられており、正月準備は万全の様相。この日は午後から境内の一斉清掃があるとのこと。本殿は、覆殿ではなく覆板とでもいうのであろうか。中央部分のみに保護用の板で覆われていた。なかなか見かけないタイプ。目隠してある部分の部分がどうなっているかは気になるところ。

渡海神社には何度か参拝をしたことがあったが、そこで御朱印を頂戴できることは知らなかった。今回は赤城おろしさんがアポを取ってくれたので御朱印を戴ける良い機会。ただ運悪く、犬吠駅で予定よりも時間がかかってしまったので、宮司さんは外してしまったとのこと。宮司さんが戻ってくる間に他の神社に廻った方が良いのでは?と宮司さんの奥さんが提案。いったん飯岡まで南下してしまおうかと思う。


屏風ヶ浦の上から

屏風ヶ浦の下から

なぜか銚子観光。銚子外川の渡海神社から旭飯岡の玉崎神社に赴く途中に横たわるのが「屏風ヶ浦」。東洋のドーバーと称されるのはいささか極端ではあれど、せっかくなので崖の上と下から。
あいにくの曇り空であれど、なかなかの迫力。そんな寄り道をしつつ、玉崎神社へ。

(余談ながら、ここからみた夕日はこんな感じ




「玉崎神社」 (下総国二の宮・旧郷社・朱印・千葉県旭市飯岡鎮座)

祭神
玉依姫命・日本武尊

景行天皇40年(111)、日本武尊が東征の際、玉之浦の東端、玉が崎に創建した事に始まる。
中世には下総国二ノ宮とされ「三崎庄横根郷玉ヶ崎大明神」「玉の浦総社玉ヶ崎大明神」と呼称されてきた。
かつては「龍王岬(玉ヶ崎)」の地にあったが、天文年間に兵火に遭い、積年の海蝕を避け現在地に移したと伝えられている。
上総一ノ宮「玉前神社」とともに九十九里浜を鎮護する神社として崇敬をあつめる。九十九里浜の北端に下総国二ノ宮「玉崎神社」、南端に上総国一ノ宮「玉前神社」が鎮座していることとなる。
佐倉藩主堀田氏、久留里藩主黒田氏や国学者平田篤胤、大國隆正らが参拝しており近年には竹久夢二のほか、多くの漁業関係者などから崇敬をあつめている。

社殿は権現造り。本殿は元禄10年(1697)、拝殿は嘉永5年(1852)に再建。千葉県指定有形文化財。

明治期になり社号を「玉崎神社」と改称し、明治19年に郷社列格。

公式サイト


玉崎神社 一の鳥居

玉崎神社 二の鳥居

玉崎神社 拝殿

玉崎神社 本殿

玉崎神社 御神木(左手)






玉崎神社 昭和天皇御製碑

あめつちの 神にぞいのる 朝なぎの
              海のごとくに 波たたぬ世を

                   昭和8年御歌会始 昭和天皇御製

昭和15年(皇紀二六〇〇年奉祝会)制定「浦安の舞」神楽歌詞

旭市指定文化財 玉崎神社の石塁
十七世紀中期の築造と推定。飯岡石(凝灰質砂岩)で造成。
この石は海中より産出されたもので「飯岡の寄石」と呼称され
明神様のご利益によるものと考えられていた。






平田篤胤歌碑
磐楠(いわくす)に 常盤(ときわ)の松の より副(そ)ひて
千世(ちよ)を契りし ことの畏(かしこ)さ

御神木の「夫婦木」(楠の大樹に松の木がくっついた御神木)を
文化13年(1816)に平田篤胤が当神社に参詣した際に
詠んだものという

御神木は安政3年(1856)の大風で倒木してしまったが
歌碑は御神木の跡に子息平田鐵胤が書き門人が建立したものである

玉崎神社 御朱印
 
開運波乗り神社めぐり御朱印帳(両開き)

下総国二の宮「玉崎神社」。銚子には数え切れないほど訪れていたし、飯岡の燈台にも何度も訪れていたが、実は飯岡の「玉崎神社」に訪れた事はなかった。銚子から近いと言えば近いが、いつも電車かバスでしか銚子に来た事がない私としてはなかなか飯岡に来る自由はなかったのだ。
そんなわけでようやく念願?的に訪れた神社。

11時に渡海神社を離れ、屏風ヶ浦を経由して12時10分に玉崎神社に到着。一の鳥居には大きく「玉崎神社御創建千九百年祭 平成22年10月10日斎行」との横断幕がかかっていた。御創建1900年といえばだいぶ古い。式内社ではないが、それに準じる規模の神社であろうことがうかがえる。
境内は広く開放的。境内社も多数鎮座しており、周辺集落の総社であることもうかがえる。
本殿の後方には平田篤胤の歌碑。かつて「楠の大樹に松の木がくっついた御神木」があったという。

ちょうど居合わせた氏子さんたちと話を交えつつ、宮司さんより御朱印を頂戴する。なにやら新しい企画として「開運波乗り神社御朱印めぐり」という企画が外房地区の神社ではじまったようだ。
01.岩井神社
02.安房神社
03.高家神社
04.天津神明宮
05.遠見岬神社
06.六所神社
07.玉前神社
08.白子神社
09.五所神社
10.金刀比羅神社
11.熊野神社
12.玉ア神社
13.猿田神社
14.海上八幡宮
の14社が参加神社。専用の御朱印帳は\100-にて頒布。そんなに大層な御朱印帳でもないが(外装は紙ベース)、こういう企画はかなり好感触。外房を縦に結んで御朱印をあつめるというのも楽しそうだ。車がないとちょっと大変そうではあるが。
難点は紙質ゆえか「御朱印が乾きにくい」ということらしい。




13時。
さて、御朱印を貰い損ねていた渡海神社に一度戻る。
戻ってみれば、境内大掃除中。社殿の後ろにある宮司さん宅にお伺いして改めて御朱印を頂戴する。宮司さん宅には子犬がいたり、猫がいたり。この界隈では捨て猫や捨て犬が多いらしく、樹木が鬱蒼としている渡海神社にはよく猫や犬が捨てられてしまっているという。銚電の駅界隈でも捨て猫や捨て犬もあるし、なかなか難しい問題ではある。

お昼を食べようという事になった。
赤城おろしさんのリクエストで「犬若食堂」へ。実は銚子でいろいろなお店で食べてきた私も行った事がなかったので大賛成。
(余事ながら、銚子界隈の食べ物を特集したコンテンツはこちら


犬若食堂

あづま丼(マグロ漬け丼)

イワシフライ定食

犬若食堂。私は「あずま丼」(マグロ漬け丼)、赤城おろしさんと御津垣さんは「イワシフライ定食」。銚子界隈ではマグロ漬け丼のことを「あずま丼」と呼称している。醤油に良く浸かっている肉厚なマグロが美味。
銚子といえば「イワシ」といわれるぐらいなのでもちろんイワシフライもおいしそうな逸品。
(6月には入梅イワシといわれる脂ののったイワシがお勧め。イワシの刺身が食べられるのは銚子ならではです by管理人の一言)


お昼を戴いていたら、ゆっくりしすぎたようですでに時間がおし始めてきた。時間は14時すぎ。これから5社を廻るのは結構きつそうだ。




「銚港神社」 (旧郷社・朱印・千葉県銚子市馬場町鎮座)

前回掲載ページ

祭神
闇淤加美神(くらおかみのかみ)

相殿神
級津彦神(しなつひこのかみ)
級津姫神(しなつひめのかみ)

明治2年までは龍蔵権現と呼称。利根川を眼下に見おろす高台に鎮座。
創建年代は応永2年(1395)とも、奈良時代ともいわれている。
銚子発祥の祖神。歴代の領主の祈願社として崇敬。銚子の産土様。
龍蔵権現と称していた頃の御神体は板東三十三箇所第二十七番霊場の円福寺本堂にあるという。
明治2年に現在の社名に変更。明治16年8月に郷社列格。昭和20年には県社昇格の内意をうけていたが、昭和20年7月の銚子空襲によって戦災消失。
現在の社殿は昭和33年に復興。社殿正面の書は当時の総理大臣吉田茂が揮毫。


銚港神社正面

銚港神社参道

銚港神社 拝殿

拝殿脇の「銚子の誉」奉納酒 ・・・まだ飲んだことない銘柄

銚港神社 本殿

銚港神社 手水の龍

銚港神社 御朱印

14時40分。銚港神社に到着。飯沼観音円福寺の隣に鎮座している。飯沼観音は坂東三十三観音巡礼の二十七番札所。年の瀬ともあっていつも以上に賑わっている様相。このあたりは私も銚子に来たときは駅から近いのでちょくちょく来ている。
銚港神社では御朱印を頂戴した事はあったが、同じ市内の「川口神社」や「白幡神社」等の兼務神社の御朱印も戴けるという情報を得ていたので来訪。ただ残念ながら、宮司さんが急がしすぎるということで書いてある御朱印を頂戴出来るに留まる。兼務社の御朱印も頂戴したいときは事前連絡をしておいた方が良さそうだ。

あまり時間がないので次に進もう。




「海上八幡神社」 (旧郷社・海上郡総鎮守・朱印・千葉県指定有形文化財・千葉県銚子市柴崎町鎮座)

前回掲載ページ

祭神:
八幡大神・比売大神・神功皇后

由緒:
総社八幡宮・柴崎八幡宮とも称する。
海上郡60余郷の総鎮守・総社八幡として崇敬される。

大同2年(807年)8月1日に白鷺がしきりと鳴き、空中から八幡大菩薩の尊像を落としたことから、芝野の上に青竹5本を宮の形に結んで、尊像を祀ったことに始まるとも、宇佐八幡を勧請したとも伝わる古社。
治承4年(1180)に現在地に遷座。
もともとは堀内と称していた当地であったが、尊像を芝の上に祀ったことから芝崎と称するようになったという。

現在の本殿は天和3年(1683)の建立。江戸時代前期を象徴する三間社流造として、千葉県の有形文化財に指定されている。
文化財指定後に茅葺きを銅板葺きにふきかえ、解体調査が4年にわたっておこなわれ、本殿を建築当初の姿に戻すために拝殿と本殿を結ぶ幣殿を改築し、拝殿も前に移築するなど大がかりな修復が行われ平成15年に現在の姿となる。

海上八幡宮では、旧暦の8月15日(現在の9月24日前後)に祭礼があり、「お的式」と呼ばれる流鏑馬が奉納されている。
また、一の鳥居から続く桜並木は、例年人々の目を楽しませている。

明治6年10月に明治社格制度の郷社に列格。

海上八幡宮公式サイト


海上八幡宮 二の鳥居

「海上宮」鳥居扁額

海上八幡宮 拝殿

海上八幡宮 拝殿(綺麗にした幕を取り付けていました)

海上八幡宮 本殿

海上八幡宮 桜並木の参道 祭礼時は流鏑馬を行う

海上八幡宮 御朱印

海上八幡宮に15時20分過ぎに到着。ここを訪れるのは2回目。御朱印を貰えるのはつい最近知った次第だった。
境内ではこちらも年末大掃除の真っ最中。神職さんがいらっしゃったので早速御朱印を頂戴する。「開運波乗り神社御朱印めぐり」にも参加している神社なので都合二つ分を各々が戴く。海上八幡宮の神職さんいわく「開運波乗り神社御朱印帳」の紙質は御朱印が乾きにくい、とのこと。さらに間が悪い事に海上八幡宮のページは一番最後なので、紙がツルツルしていて御朱印を押した場合、どうやっても乾かないそうだ。神職さんが実際に試してみたけど御朱印が汚くなってしまったと見せてくれた。そこで苦肉の策で半紙を貼ってくださいというわけで半紙の御朱印を戴く。これはあとで糊付けをしよう。
境内を見聞していたら、お掃除をしていた氏子さんが、「こっちこっち」「こっちに御神輿があるよ」と言ってくれるので、神輿殿も見学。もっともガラス越しなので写真にとってもわかりにくいが、氏子さんがわざわざ呼んでくれた自慢の御神輿だということが伝わってきた。

あまり時間がない。今回は一の鳥居まで行く余裕もなかったので、そのあたりの写真は前回掲載ページを参照で。




「東大社」 (旧県社・海上郡総社・朱印・香取郡東庄町宮本鎮座)
  トウタイシャ

前回掲載ページはこちら

祭神:玉依毘売命(タマヨリビメノミコト=海神の娘君・神武天皇御母君)
相殿:鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト=神武天皇御父君)

伝承では東大社・豊玉姫神社・雷神社3社ともに同じ創建伝説を持っている。
今から1900余年前の西暦123年に景行天皇が皇子日本武尊の東国征討の跡を巡幸し、椿の海(香取の海)の東端に立ち東国鎮護の一社を創建した事に始まるという。三社は姉妹親子神社である。

現在は東大社または東大神と称されているが、かつては東宮・八尾社と呼称。堀河天皇の康和四年(1102)に総社玉子大明神の称号を賜り、玉子大明神(タマゴ大明神・オオジ大明神・オオジン様)とも呼称されてきた。

20年に一度、式年三社銚子大神幸祭が執り行われ、それとは別に銚子桜井の利根川浜にて小規模な御神幸が二年に一度執り行われている。
10月19−20日には秋祭があり、20日には流鏑馬神事も執り行われている。

現在の本殿は文政9年(1826)、拝殿は翌10年に造営。昭和31年に草葺きから銅板葺きに吹き換えをしている。
明治6年に郷社列格。大正8年には県社に列格。


東大社 正面

東大社 参道

東大社 拝殿

東大社 本殿

東大社 御朱印

東大社 御手洗と大楠

東大社 御手洗

東大社 御手洗

東大社 御手洗

15時45分に海上八幡宮をあとにして、16時10分に東大社に到着。去年に引き続き2回目の参拝。宮司さんはお忙しいとの事であらかじめ書いておいて戴いた御朱印の書き置き半紙を頂戴する。境内は広い。さすが東総地区一の神社。式年銚子大神幸祭でもなんだかんだいって中心となるのはこの東大社のようだ。参道脇にある神輿殿はからっぽで御神輿の解体修理中。4月の銚子大神幸祭に向けて平成22年1月31日に御神輿が修理完成との事なので出来上がりが楽しみではある。
参道の両脇には「銚子大神幸祭」の幟も並んでおり、かなり気分は盛り上がっている様子が感じられた。

実は一ヶ所、気になっている場所があった。「東大社の御手洗(みたらい)」。これが近くにあるらしい。銚子観光協会の特設サイトのなかに「20年前の祭礼映像」があり、それを見ていたら東大社をでた神輿が「御手洗」に立ち寄っていたので、それはどこにあるのだろう?という疑問符が出来てしまったのだ。同行の赤城おろしさんの調査によると「東大社の鳥居をでて、左に行ったところにある」らしいとの情報があった。
で、探してみるがそれらしいものがない。
車でぐるりと周辺をまわりつつ、畑仕事をしていたおじいさんに「東大社の御手洗がどこにあるかわかりますか?」と訪ねてみると、「突き当たりを左に行って、道を登って下って十字路を右に云々、大きな道路を越えて云々、下って云々で大きな楠のところだ」と懇切丁寧な詳細な道を教えて貰う。あまりに詳細なので半信半疑で言われたとおりにすすむと確かに道が登ったり下ったりしつつで、結果として大きな楠を発見し「東大社の御手洗」があった。さすが地元の人。道の形状まで正確に案内してくれました。

結果として、東大社の御手洗は鳥居をまっすぐにすすんで、左側に折れる道(民家に入る道ではなく車が普通に走れる左側に曲がる道)を下ったところにありました。大きな楠が枝を広げており、。その根元近くに幅約2メートル四方の「御手洗」。祭礼の祭はここに神輿が立ち寄って浄めるとの事で、なるほどなあーと気持ちもすっきり。

そうこうしていたら東大社の御手洗を離れたのが16時30分過ぎ。もうそろそろ日没が近い冬の日であれど、困った事に「御朱印のアポ」をとっている神社が残り2社ある。赤城おろしさんが各宮司さんに遅れそうな旨を連絡し、宮司さんからは「お越し頂くまでお待ちしています」旨のご厚意ある回答をいただく。ご訪問時間が予定よりも遅くなってしまいましたが、ご配慮いただきありがとうございます。




「豊玉姫神社」 (旧郷社・海上郡総社・朱印・香取市貝塚(香取郡小見川町)鎮座)
  トヨタマヒメジンジャ

前回掲載ページ


祭神:豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト=海神の娘君・玉依毘売命の姉君・鵜葺草葺不合命の母君)

伝承では東大社・豊玉姫神社・雷神社3社ともに同じ創建伝説を持っている。
今から1900余年前の西暦123年に景行天皇が皇子日本武尊の東国征討の跡を巡幸し、椿の海(香取の海)の東端に立ち東国鎮護の一社を創建した事に始まるという。三社は姉妹親子神社である。


豊玉姫神社 正面 16時50分前後の様子

豊玉姫神社 境内 17時20分前後の様子

豊玉姫神社 御朱印

到着は16時50分。すっかり遅くなってしまい、参拝や写真もままならない状態。
あわてて駆けつけると、社務所に明かりが灯されており、まさに御朱印を頂戴しにきた我々の到着を待って頂いていた状態。恐縮しつつも早速に御朱印の準備。昨年は御朱印の朱肉が薄かったという事で、赤城おろしさんが用意周到に「朱肉補充液」を充当。(昨年と同じ朱肉台だったので、そのままではやっぱり薄いままになっていたことでした。)それでもって宮司さんが御朱印を書いてくれました。
年末恒例の境内の掃除を終えて、御朱印を貰いに来るという我々を待ってくれていた宮司さんや氏子総代さん、氏子さんの皆様に感謝。ありがとうございました。お茶を頂きつつ、しばしの談笑。

こちらの神社も昨年に引き続いて二回目の参拝。もっとも今回は参拝といえるものではないほどあわただしかったので、神社の雰囲気は前回掲載ページを参考にしていただければ。

17時20分。まだ一社御朱印のアポをとっていた「雷神社」が残っているので、名残惜しいけど退散する。次回訪れるときはゆっくりと参拝したいものだ。氏子さん方や宮司さんも我々と一緒に神社をあとにする。まさに私たちの御朱印の為に待っていてくれたことになり、本当に恐縮。ありがとうございました。




「雷神社」 (旧郷社・海上郡十三郷総鎮守・朱印・旭市(海上郡海上町)見広鎮座)
  ライジンジャ 

前回掲載ページ

祭神:天穂日命(アメノホヒノミコト)
   別雷命(ワケイカヅチノミコト=玉依姫命が母君)


伝承では東大社・豊玉姫神社・雷神社3社ともに同じ創建伝説を持っている。
、今から1900余年前の西暦123年に景行天皇が皇子日本武尊の東国征討の跡を巡幸し、椿の海(香取の海)の東端に立ち東国鎮護の一社を創建した事に始まるという。三社は姉妹親子神社である。

祭神のうち、天穂日命は出雲の素戔嗚尊の御子神であり、その御子の建日良鳥命(タケヒラトリノミコト)の曽孫にあたる久都伎直(クズキノアタエ)が古代下海上地域を統治する国造になった際に祖先神であった天穂日命を東国鎮護として祭ったものという。
別雷命は793年に京都賀茂別雷神社(上賀茂神社)より勧請したもの。時の桓武天皇より「雷大神」の称号を賜っている。

神社周辺は要害山といわれ、見広城址に隣接し、戦国期には嶋田氏が居城していた。
氏子地域は古代には海上郡千潟四十六郷の時代を経て、江戸期以降は海上郡十三郷の総鎮守。
現在の社殿は明治43年造。旧社格は郷社。


雷神社境内 18時頃の様子

雷神社拝殿

ちなみにこちらは雷神社の宮司さんが保存していた20年前の第53回の告知ポスター
観光協会も保存していなかったという貴重なもの
 
雷神社御朱印

すっかり真っ暗な時間に到着。到着したのが17時50分。さすがに神社を参拝するにはつらい時間だ。
やっぱり参拝レポ自体は前回掲載ページを参考にして頂ければ。

拝殿内には明かりが残っており、人の気配がする。
赤城おろしさんが宮司さんに連絡をとるとしばらくして宮司さんが登場。待っていてくれていたようでやっぱり恐縮。拝殿内にあがらせて頂き、御朱印を頂戴する。そのまま拝殿内で宮司さんを交えて昨年に引き続きいろいろなお話をお伺いする。地元神社の文化財の話や、銚子大神幸祭に関連する雷神社・東大社や豊玉姫神社の話。東大社と関係する外川高神の宮三郎家の話、お祭りに対する銚子市の取り組みや地元の伝承話など、話は尽きない。
雷神社の宮司さんいわく「インターネットでは・・・銚子大神幸祭を調べているホームページがあって、やしろを想うっていうところだっけな」えーとサイト運営者が私なのですが、見ていただけてかなり恐縮です。ありがとうございます。
伺うと昨年末に御朱印を貰いに来た二人(赤城おろしさんと私)のうち、どっちかだろうなあと推測してくれていたようで、覚えて頂けていたことがありがたいばかりのことです。
お祭りで使う御神輿の話から御神輿の担ぎ棒の話になり、今回は今まで以上に大きく長いものを用意していると参集殿に準備してあった担ぎ棒もみせていただけた。

あっという間に時間は過ぎてしまい19時15分。もう1時間以上もお話をお伺いしていた事になる。
師走の夜はあわただしい。そろそろ切り上げないと遅くなってしまうので、またの来訪を期して今回は散会。
貴重なお時間を頂きましてありがとうございます。



そのあとは余事。

一緒に行動してきた御津垣さんとはここでお別れ。次回は富士山遙拝御朱印オフをするとかしないとか期待しつつ解散。御津垣さんは茨城のご実家に帰る、、、とこのときは確かに聞いていた。

私は赤城おろしさんの車に便乗したまま成田方面の駅まで送ってもらう。そんな帰路途中で御津垣さんから「実家に帰るのを中止して神社参拝・写真撮影をやり直ししてから帰る方向に変更したから銚子に戻った」というメールが来たり。途中で暗くなって写真が撮れなくなった故にその気持ちは大いにわかる。が、あまりに急すぎる判断に脱帽。おそれいりました、といった感じ。

私はというと、赤城おろしさんに「JR酒々井駅」まで送ってもらって、ここから終電コースで帰路へと。家に着いたのは31日の1時頃。始発の5時6分に地元の調布駅を出発して、調布駅に戻ってきたのは終電間際の0時35分。見事なまでにフル活動な一日でした。


改めて。
今回の東総御朱印紀行参加の赤城おろしさん、御津垣さん、お疲れ様でした。次回も何かありましたらよろしくお願いいたします。
各神社の宮司さん氏子さんにおかれましては、私たちの参拝に対して快く応対して頂きまして、本当にありがとうございました。




参考文献等
各神社境内の案内板等

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