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「北陸縦断駆け抜け詣で・1 加賀編」
<平成17年3月参拝・7月記載>

目次
加賀編 白山比盗_社菅生石部神社大原神社

福井編 福井神社・佐佳枝廻社・柴田神社・藤島神社・足羽神社
福鉄編 剱神社・神明社・総社大神宮


季節は一気に冬になってしまう。書くタイミングを逃がすと、もはや紀行としての成立は記憶もあやふやで不安定。
この日この時。
私は「臨時・夜行急行能登91号」で北陸路に赴いた。
上野発23時33分。ほくほく線経由で金沢着が06時35分。
金沢から西金沢に赴き、「北陸鉄道」に乗り換える。
7時12分に新西金沢駅から電車に揺られて7時38分に終点の鶴来駅に到着。白山比盗_社に赴きたいところだが、目的駅たる加賀一の宮駅に行く電車は1時間後。北陸鉄道の電車は30分毎に乗れるが、鶴来行きと加賀一の宮行きになり、終着駅に行くには1時間に一本なのだ。

鶴来駅で車庫などを眺めたら(鉄道の趣味サイトへ)、しょうがないから駅前のタクシーに乗り込んで「白山比盗_社」に赴く。


白山比盗_社(加賀一の宮・延喜式内小社・国幣中社・しらやまひめ神社)
<石川県白山市三宮町(石川郡鶴来町三宮)鎮座・朱印

祭神
菊理媛神(ククリヒメ神・白山比淘蜷_)
伊弉諾神・伊弉冉神

霊峰「白山(はくさん)」を御神体山として崇敬したことにはじまる古社。創祀は崇神天皇七年の頃という。
延喜式内の古社。
古来は「下白山」(しもしらやま)と呼称され、霊峰白山の「まつりのにわ」として設けられた「白山本宮」(白山権現)。
いわゆる白山七社(白山・金剣・岩本・三宮・中宮・佐羅・別宮)の一つにして本宮。白山・金剣・岩本・三宮を「本宮四社」、中宮・佐羅・別宮を「中宮三社」とわける。
白山山頂宮と大汝峰・別山の仏座の三座を総称して「白山三所権現」とも呼称。

養老元年(717)に僧泰澄(たいちょう)がはじめて白山に登拝して以降、修験道場として隆盛を極めてきた。平安期に加賀馬場白山寺が建立されると白山本宮は加賀馬場の中心として繁栄。北陸全域に「白山七社」を中心とする衆徒・神人集団を擁して勢力を拡張。
白山を中心とする信仰は加賀馬場白山本宮と、越前馬場平泉寺、美濃馬場長瀧寺の三方があり、総じて三方馬場とも呼称。三方馬場は平安末期に比叡山延暦寺の末寺化。延暦寺の「白山別当」などが「白山本宮・別当白山寺」などを統括していった。

白山本宮は、はじめは手取川右岸の「安久濤の森(通称、古宮跡)」に鎮座していたが文明12年(1480)の大火によって社殿焼失。当時白山七社の「三宮」が鎮座していた現在地に遷座。
戦国期には本願寺衆徒・一向一揆などによって衰退。織田信長の北陸侵攻後に加賀領主となった前田利家・利長の支援のもとで復興。前田氏祈願所として崇敬された。

明治期の神仏分離によって白山加賀馬場は大変革を求められ、廃仏毀釈を断行し白山寺を解体。明治四年に「白山比盗_社」と名称を改めて国幣小社に列格。明治10年には白山山頂の本社を「白山比盗_社奥宮」とした。
大正3年、国幣中社昇格。
全国の「白山神社」約3000社の総本社でもある。

白山比盗_社
白山比盗_社・脇参道
白山比盗_社
白山比盗_社神門
白山比盗_社
拝殿
白山比盗_社
拝殿
白山比盗_社
奥宮遙拝所。白山山頂奧宮(中央)と大汝峰・別山。
白山比盗_社
表参道
白山比盗_社
白山比盗_社参道
白山比盗_社
参道脇の琵琶滝
白山比盗_社 白山比盗_社
白山比盗_社
水戸明神(古殿地付近に鎮座)
白山比盗_社
手取川。左の森が古殿地付近

白山比盗_社は鶴来駅から約2キロ南に鎮座。そんなに遠い訳でもないが、なにやらうっすらと雪も残っているし、寒いので横着。昔の私なら歩いた距離だが、そろそろ体力的な気合も減りつつある。

朝は早いと言っても時間は8時。ちょうど社務所も準備を始めたところで、慌ただしいだろうけれども準備の邪魔をしつつ恐縮しつつで朱印を頂く。清清しい空気と張りつめた空気。うっすらと屋根に積もる雪を反射させる太陽光が神々しい。
女神の神社、白山の神社。その気配は貴賓に溢れており、佇むもののの時間を忘れさせる。
タクシーで脇参道に来てしまったために、まだ参道を歩いていない。ゆっくりと春の日差しとなりつつある木漏れ日の下、参道を300メートルほど歩く。そこから駅まではすぐだ。

神社から北陸鉄道加賀一ノ宮駅までは約500メートルほど離れているが、この距離は参道の約300メートルも含む。
駅の周辺をしばし散策しながら電車の到着を待つ。
1時間に一本だから、次に乗る電車は8時59発。新西金沢には9時28分に到着する。
そこからJRに乗り換えて、10時7分に西金沢から乗車。10時50分に大聖寺駅に到着。すこぶる接続の良い行動。ローカルな鉄道移動には「ダイヤ計算」は欠かせないのだ。

大聖寺駅からは菅生石部神社まで歩く。



菅生石部神社(加賀二之宮・延喜式内小社・国幣小社・すごういそべ神社)
<石川県加賀市大聖寺敷地鎮座・朱印

祭神;菅生石部神

創建は用明天皇元年(585)とされる。延喜式内の古社。加賀国二の宮。
敏達天皇が宮中で祀っていたものを用明天皇即位元年に遷祀されたという。当地は以前は越前国であり、当社は「越前三の宮」であった、加賀国に編入し、「加賀二の宮」となったとされる。
中世期には鎮座地が北野天満宮領とされ、当社は「菅生天神」と呼称。北野天満宮の荘園鎮守として天神が勧請されたためという。

明治5年、郷社。明治6年、県社。そして明治29年に国幣小社昇格。

菅生石部神社
菅生石部神社楼門
菅生石部神社
拝殿
菅生石部神社
本殿
菅生石部神社
本殿
菅生石部神社
拝殿
菅生石部神社
境内

大聖寺駅10時50分到着。歩き始めて11時15分に神社到着。約20分の道のり。駅からは1.5キロ北東。大聖寺川を渡った所に鎮座している。
大聖寺川にかかる天神橋を渡れば、目の前に鎮守の森が広がる。古風な楼門の先に、堂々たる拝殿が横たわる。奧には勧進された天神様も祀られている。静かな佇まいの中で、それでも道急ぐ私はせわしなく参拝。社務所で朱印を頂く間の待ち時間が、貴重な休息時間でもあった。
土着の神だろう。郷土あふれるその存在感は、堅苦しくない。名前の連想では堅そうであるが意外に柔らかな気風に安心する。


大原神社(村社)
<石川県加賀市大聖寺永町鎮座>

建御賀豆智命(武甕槌命・タケミカヅチ命)
伊波比主命(イワイヌシ命=経津主命)
天之子八根命(天児屋根命・アメノコヤネ命)
比淘蜷_(比売大神)

創建年代は不詳であれど近世期にはすでに崇敬されてきた。京都大原野神社を勧請したとされる。

大原神社 大原神社
大原神社 大原神社

大聖寺駅と菅生石部神社の間に鎮座していたから立ち寄ってみた。菅生石部神社の南300メートルの地に鎮座。
11時35分。
由緒を記載した案内板があるも、すでにかすれていて肝心な所が読めない。なかなか郷土鎮守の由緒由来は馴染みがないので、こういう板があるだけでも嬉しいものではあるが、それが読めないとなるとどことなく口惜しかったりもする。
道急ぐ身ではあるが、それでも神社があれば立ち寄りたくなる性分。

実は電車の時間がシビア。大聖寺駅に12時につかなくてはいけないのだ。日中は1時間に一本だから。それゆえに急ぐ。他にも大聖寺周辺で立ち寄りたい神社は多々あったが、もう限界。電車に駆け乗る。

12時01分の電車に乗り込めば、12時28分に福井駅に到着。越前国入りなのだ。
そんなに急いでどこに行くかというと、実はこの日の間に「美濃大垣」に行かなくては行けないのだ。それゆえにあわてて北陸路を南下している状態だったりする。


参考文献
案内看板、由緒書き等。
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名大辞典・17 石川県



その2 福井へ


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