「北陸縦断駆け抜け詣で・2 福井編」
<平成17年3月参拝・8月記載>
目次
加賀編 白山比盗_社・菅生石部神社・大原神社
福井編 福井神社・佐佳枝廻社・柴田神社・藤島神社・足羽神社
福鉄編 剱神社・神明社・総社大神宮
北陸路を南下して、福井駅に到着したのが12時28分。
福井は懐かしい土地。むかし、京福電鉄(現在のえちぜん鉄道)や福井鉄道に乗るためだけに来たことがある地。そのころは神社には一切関心がなかったのだが。
今回は鉄道趣味よりも神社優先にする。まずは駅から500メートルほど北西の場所。福井城趾のお堀に沿って歩けば、神社があるはず。
「福井神社」(別格官幣社)
<福井県福井市大手鎮座>
祭神:松平春嶽慶永(越前福井藩16代藩主・文政11年(1828)〜明治23年(1890))
幕末藩政を改革し、幕府の政事総裁として将軍を助け、京都守護職としても活躍。
「幕末の四賢候」の一人として、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城、土佐の山内豊信とともに名高い。
祭神の松平春嶽公は当初は佐佳枝廻社に合祀。
昭和18年に最後の別格官幣社として福井城内の敷地に福井神社が建立され、春嶽公の御分霊を祀って建立。昭和20年7月19日に戦災によって社殿焼失。昭和32年以降に福井大学工学部の設計による独創的な建築様式によって再興。
福井城趾(現在は県庁) |
福井神社 |
福井神社 |
正面 |
拝殿 |
松平春嶽公 |
12時45分。福井神社到着。南から鳥居をぬけて、社殿は東面している。境内に足を踏み込んでかなりとまどう。私もいろいろな神社を詣でてきたが、なにやらこの神社は気配が違う。正直、度肝を抜かれた。この独特の景観は、神社としてはいささか無機質で、なにやらさみしげであった。
それでも神社ではある。松平春嶽公に拝するわけだが、あまり長居する場所でもなさそうだ。
その福井神社から南に100メートル。公園の向こう側に鳥居がみえる。
「佐佳枝廻社」(県社・佐佳枝神社・越前東照宮・さかえのやしろ)
<福井県福井市大手鎮座>
祭神
徳川家康公・松平秀康公・松平春嶽慶永公
寛永5年(1628)に福井城内の城内社として東照大権現徳川家康公を祀った東照宮にはじまる。
明治6年に福井藩祖松平秀康公を祀り松平春嶽公より「佐佳枝廻社」と命名、翌7年に東照宮を合祀した。
明治14年に県社列格。明治24年に松平春嶽公を合祀。明治29年に現在地に遷座。
昭和20年に戦災焼失。昭和23年の福井地震によって社地周辺は潰滅。昭和24に京都下加茂の三井家祖霊社を譲り受けて拝殿として移築。昭和30年に北陸地方初の鉄筋コンクリート入母屋造の本殿が再興。
昭和63年以降、神社を中心とする地区開発が行われ平成4年に再開発事業完了。
12時55分。佐佳枝廻社。近代的によく整備された神社。開放的で都市部の神社として、非常にまとまった景観に関心する。ちょうど拝殿内部では結婚式(のようなこと)をおこなっているらしい。なにやら私が邪魔しているみたいだ。すがすがしい境内で青空を眺めて、改めて拝したら、ちょっと休憩。
もっとも私の休憩は・・・福井鉄道を撮ること。
撮りながら、歩きながら、次の目的地を目指す。
「柴田神社」
<福井県福井市中央鎮座>
祭神:柴田勝家公(大永2年(1522年)-天正11年(1583年))
福井城の前身である「北の庄城跡」に鎮座。柴田勝家公を祀る。
現在の社殿は1998年に再建。現在は柴田公園として資料館が併設整備されている。
拝殿 |
柴田神社本殿 |
三姉妹神社<お市の娘、浅井三姉妹を祀る> |
柴田勝家公 |
13時20分。
福井駅の南西300メートル。「北の庄城」の跡地に鎮座。柴田勝家最後の地。公園として整然と整備されており、市民の憩いの場ともなっているようだ。
狭いながらに社殿はほどよくまとまっていて好感触。私は柴田勝家は嫌いではないのだ。
柴田神社からそのまま福井鉄道の沿線を歩いて、西側の足羽山を目指す。
足羽山には都合良く大きな神社が二社集中しているのだ。
「藤島神社」(別格官幣社)
<福井県福井市毛矢鎮座>
祭神:新田義貞公(正安3年(1301年) - 延元3年/建武5年(1338年))
合祀:新田義宗・脇屋義助・新田義顕・新田義興・受難将士
延元元年(1336)5月に九州で再挙兵した足利尊氏が湊川で楠正成を打ち破って京都に攻め寄ると、後醍醐天皇は比叡山に難を逃れられた。同年10月に後醍醐帝は尊氏と和睦し京都に還幸された。その際に天皇は密かに新田義貞に命じて尊良親王・恒良親王を奉じて北陸鎮撫のために下向された。
越前に赴く新田勢を待ち受ける足利勢に、さらに難所の木ノ芽峠。北国の吹雪の中で、ようやくに敦賀に到着した尊良親王や新田義貞らは気比神宮の大宮司気比弥三郎大夫氏治に手厚く迎えられて金ヶ崎城に入城。
しかし足利方の高師泰は6万余の大軍でもって陸海から総攻撃。金ヶ崎城に籠城しつつ奮戦する新田勢、そして瓜生保勢らのも援軍も空しく、ついには糧食も尽きてあえなく落城。
尊良親王、越後守新田義顕(義貞長男)、気比神宮宮司の気比氏治は自刃。
恒良親王は気比氏治の子息である気比斎晴が奉じて脱出。斎晴は脱出後に城に戻って自刃。恒良親王はその後に捕らわれて京都で幽閉。恒良親王は延元3年(1338年)4月13日に毒殺されてしまう。
<この金ヶ崎城趾がのちの金崎宮>
金ヶ崎城落城時に脱出した新田義貞・脇屋義助(義貞の弟)は越前に潜伏し機会を窺うも延元3年7月に新田義貞が藤島灯明寺畷で戦死。ここにおいて越前の南朝勢は潰滅となってしまう。
新田義興は建武中興の立役者であった新田義貞の次男。元服の際に後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として義興という名を給わる。
越前にて延元3年(1338)に新田義貞が戦死すると、義興は東国の新田一族を率いて南朝に尽力。しかし正平13年(1358)に鎌倉公方足利基氏の執事であった畠山国清は新田義興の勢力を恐れ、竹沢由衡・江戸高重を潛入させ、謀略によって多摩川「矢口渡」で義興は壮絶なる最後を遂げられた。<武蔵国・新田神社>
新田義貞戦没地の藤島灯明寺畷から明暦年間(1655−58)に兜が発掘され、鑑定の結果「新田義貞」の兜(社宝として国重文)であることが判明。万治元3年(1660)に福井4代藩主松平光通によって「新田義貞戦死此所」の石碑が建てられた。
明治3年(1870)に福井藩知事松平茂昭が同地に祠を建立。明治9年に藤島神社として別格官幣社に列格。
明治14年に牧之島(福井市牧の町)に社殿が建立されたが、同地は低湿地帯であっために明治34年に現在地に遷座。
正面 |
藤島神社 |
拝殿 |
拝殿 |
本殿 |
境内付近から福井市内をみる |
13時45分。福井鉄道「公園口」からは西に500メートル。福井駅からは約1.5キロ。
足羽山の中腹に鎮座。峰の反対側は足羽神社。
おもえば、南朝の神社にはよく詣でている。特に目的意識があるわけではないが「南朝の神社」はかなり好きだ。そんな私は「太平記愛読者」でもある。
東国の新田義貞は、なれない北陸路で奮戦し、この藤島で最後を遂げた。京都上洛以後、再び東国の土を踏むことなく。そんな不遇の源氏名流である新田義貞を偲び、福井の市街地を高台からながめて、ここまで登ってきた疲れを癒す。
格式張っていなく、自然体な景色を漂わせてくれる気配が好感触。
藤島神社の山を降りて、そして改めて山を登る。足羽神社への山とは別だから、一度降りて又登ってとやらなくてはいけない。実のところ、この行為でだいぶ疲れてしまった。
「足羽神社」(県社・延喜式内社・あすわ神社)
<福井県福井市足羽鎮座>
祭神:
継体天皇
大宮地之霊(おおみやじのみたま)
=生井神(いくの神)・福井神(ふくいの神)・綱長井神(つながいの神)・阿須波神(あすはの神)・波比岐神(はひきの神)
=座摩五神
ほか
継体天皇が即位前に越前国に水害が多いことを憂い、足羽山に宮中の大宮地之霊を奉斎したことにはじまるという。
延喜式内社。継体天皇と座摩五神を祀る。
社家・馬来田氏は継体天皇皇女馬来田皇女の後裔とも言う。
継体天皇が越前国を離れる際に馬来田皇女を斎主とされ、皇女は天皇の御霊と大宮地之霊を守護し、阿須波の神名によって、当社を足羽宮と称えることになったとされる。
明治社格では県社列格。
14時10分。足羽神社に到着。山をのぼる車が私のことをドンドンと追い抜いていくのに腹を立てながらも、そこは徒歩なので致し方がない。
まだ春には遠い北陸路。自慢のしだれ桜の枝振りを楽しみ、残雪残る境内を散策。朱印を頂く。いつもいつもの挨拶を繰り返す「どこから来たの?」「埼玉です」「それは遠いところ御苦労様です。」
いつものやりとりではあれど心は和む。
足羽神社の山をおりれば、しばらく「福井鉄道を」楽しむことになる。
この先は武生まで一気に南下して敦賀に行こうと思っていた。しかし敦賀に行って、さらに宿泊地の大垣に行くとなると時間配分があやしい。
そもそも北陸路にいるのは寄り道で私の目的地は大垣なのだから、その時点の判断がおかしいかもしれない。
迷ったあげくの選択肢。福井鉄道沿線にどうしても気になる神社が一社。
織田の剱神社。
最寄り駅は「福井鉄道・神明駅」。
交通手段はバス。しかしバスの時間は不明。
こうなったら、一か八かの賭をする。とりあえず神明駅に行くことを決断。
14時30分過ぎに「公園口」停留所から福井鉄道に乗り込む。
参考文献
案内看板、由緒書き等。
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名大辞典・18 福井県
「その3 福鉄沿線へ」
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