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「富士宮の浅間神社散歩」

<平成22年8月参拝記載>

<富士山本宮>  「富士山本宮浅間大社」(旧官幣大社・延喜式内名神大社・駿河一の宮)
           「浅間神社境内社・水屋神社
           「福石神社」(旧村社)
           「若之宮浅間神社」(旧無格社・元浅間大社摂社)
           「二之宮浅間神社」(旧無格社・元浅間大社摂社)
<山宮>     「山宮浅間神社」(旧村社・浅間大社元末社)
<富士山根本宮> 「村山浅間神社」(旧県社・浅間大社元摂社)

そのほか別途で。
「富士山登拝御朱印紀行」掲載神社
<富士山東口本宮>「冨士浅間神社
<富士山山頂奥宮>「富士山頂上浅間大社奥宮

富士山つながりで。
駿府訪拝記
<冨士新宮>   「静岡浅間神社





今回のポイント
1「富士山本宮浅間大社
2「若之宮浅間神社
3「二之宮浅間神社
4「山宮浅間神社
5「村山浅間神社



8月8日、日曜日。

この翌週には富士山登山をすることが決まっていた。
初めての富士山登山にあたり、私にはやっておきたいことがあった。

「富士山本宮の御朱印帳が欲しい」

富士山の山頂8合目より上は「富士山本宮浅間大社の境内地」。
どうせなら本宮の御朱印帳を持ってあがりたい。
富士山山頂限定で頒布されている御朱印帳もあるのは知っているし、もちろん頂戴する予定ではあるが、それとは別途に欲しかった。
もちろん、富士山を参拝するということで「富士山本宮」に事前に参拝をしておきたかった。

そんなわけで私にとっては8年ぶりの本宮浅間大社再訪となった。<前回はこちら。レポいまひとつ

今回は楽をしたかったので高速バスで移動。まずは東京駅を目指す。


中央線201系

そろそろ引退?

JR高速バスで富士宮へ

中央線は引退が囁かれている201系。引退するといわれ続けて、時々見かける201系。見かけるたびに懐かしくなる車両でもある。

東京駅からのバスは午前8時過ぎ出発。
バスに乗るまですっかり忘れていたが、そういえば既に夏休み期間。道路が馬鹿に込んでいるらしく、到着予定は約1時間ほど遅れる模様。

午前11時過ぎに「富士宮駅」に到着。
10分ほど歩くと大きな鳥居が見えてきて、いよいよ富士山本宮到着なり。



「富士山本宮浅間大社」<延喜式内名神大社・駿河一の宮・旧官幣大社・静岡県富士宮市宮町鎮座>
(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)

朱印

御祭神:木花之佐久夜毘売命  (このはなさくやひめのみこと・ニニギ尊皇后)
配祀神:天津日高日番能邇邇藝命(あまつひこひこほのににぎのみこと・天孫降臨の神・サクヤヒメ命の夫神)
    大山津見神      (おおやまづみのかみ・サクヤヒメ命の父神)

当社は霊峰富士山信仰の中心で、古来は富士山そのものを神体として仰いでいたとされる。垂仁天皇3年のころに富士の神霊を山麓にまつったことにはじまり、のちに日本武尊が東征の際に山宮の地(現・山宮浅間神社)に大神をまつったという。さらに後平城天皇の大同元年(806)に坂上田村麻呂が現在地に社殿を造営し浅間大神をまつったとされる。

当社の大宮司家は安芸厳島、尾張熱田とともに日本三大宮司のひとつとされ、富士氏は近隣にかなりの勢力を保持していた。

延喜の制では名神大社列格。駿河国一の宮。全国約1300社(うち駿河国内140社)の浅間神社の総本宮。
明治29年に官幣大社列格。富士山山頂には奥宮が鎮座している。

現在の本殿・拝殿・楼門は慶長9年(1604)の造営。楼門は朱塗りの楼閣で、楼門に直結して四方の壁をなしている。朱塗りの拝殿の左右には出拝殿、後方には幣殿が続き、後方にも朱塗りの本殿がみえる。本殿は上下二層から成立している「浅間造」という独特の神社建築で国重要文化財(旧・国宝) 

<参考:神社由緒書・角川地名大辞典静岡県・神まうで他>


鉾立石
その昔、祭礼時に山宮御神幸祭に際して鉾を立てた石

三之宮

七之宮

武田信玄公手植えの枝垂桜(二世)

徳川家康公寄進の「浅間造社殿」(国重要文化財)

本殿・拝殿・楼門は慶長9年(1604)の造営

湧玉池

湧玉池

湧玉池から流れ出る神田川

ちょうど前日に「富士山御神火まつり」が行われていました




ちなみに富士山はまったくというほど見えませんでした。
前回8年前に来たときも富士山の姿は見えずで、今回も見えず。ちょっと悔しいですね。

私の好きな神社の一つ。この浅間造社殿は何度見ても美しいものがあります
。堂々とした浅間造の中でも、この富士山本宮の社殿は富士を後方にひかえた流暢な美しさがあると思うのです。二層となっている本殿の流麗さはさすが女神の神社といった気配。

念願の御朱印帳も頂戴する。
富士の山をひかえた流麗な社殿が刺繍されたこの御朱印帳は、富士山に登る前にどうしても欲しかったものなのだ。



水屋神社(浅間大社境内)

湧玉池のほとりに鎮座。
湧玉池のの水は、富士雪解け水が溶岩の間から湧き出たもので水温は摂氏13度、湧水量は1秒間に3.6キロリットル。
昔から富士道者はこの池で身を清めて「六根清浄」を唱えながら登山するのが慣わしであった。


湧玉池となりの水屋神社

御神水が豊富に流れ出ています

水をいただく。清めの水。翌週の富士登山に向けて身を清めるという意味でもここで水をいただくことは大切なのだ。きっと。

それにしても涼やかな境内。もうほかの神社に赴くのも億劫な具合のんびりしたくなる景観。
とても癒されるのだ。

結局、、本宮浅間大社には1時間以上のんびりとしてしまった。

そこからちょっとぐるりと散歩。



「福石神社」<旧村社・静岡県富士宮市元城町鎮座>

御祭神:大己貴命(大国主命)・猿田彦名・磐長姫命

創建年代は不詳。境内の大きな岩が社名由来ではないかとされている。
福石という社名から「市神」ともされ商家の信仰を集める。
祭神の磐長姫(木花佐久夜姫命の姉)は長寿の神であり、福石神社では子育ての神ともされている。


本宮浅間大社のすぐ東脇に鎮座。祭神は磐長姫命をまつる。木花佐久夜姫命のお姉さんですね。そんなわけでちょっとひっかかったので参拝。
境内再整備が行われたようで拝殿が集会所兼用のようになっている。見た目はちょっと神社っぽくない雰囲気。さすがに脇にまわると神社らしく本殿が見えてくるが。



「若之宮浅間神社」(旧無格社・元浅間大社摂社・静岡県富士宮市元城町鎮座)

御祭神:浅間第一御子神(火照命・ほでりのみこと)

別名を「若之御前」とも「一王子社」とも呼称。
浅間大社の祭神である木花咲耶姫命の第一王子火照命を祭る。

創建年代は古く、浅間大社摂社として信仰をあつめる。
昭和21年に「若之宮浅間神社」として宗教法人登記完了。

古くから神田川の東地区は若之宮浅間神社の氏子、西地区は二之宮浅間神社の氏子として信仰されてきた。


浅間大社から北東に600メートルほど行ったところに鎮座。社殿は南面している。境内地の隣は城山運動公園。ちょっとした斜面に鎮座しているのはすでに富士山の裾野に鎮座していると行っても良いのだろう。
真新しい朱色が眩しい。どうやら最近整備をしたようだ。



「二之宮浅間神社」(旧無格社・元浅間大社摂社・静岡県富士宮市光町鎮座)

御祭神:火遠理命(ほおりのみこと火照命の弟)

創建由緒は不明。
浅間大社の祭神である木花咲耶姫命の王子である火遠理命を祭る。

古くから神田川の東地区は若之宮浅間神社の氏子、西地区は二之宮浅間神社の氏子として信仰されてきた。


若之宮浅間神社かた西へ500メートル。浅間大社の北側400メートルの地に鎮座している。社殿は南面。
訪れたときはちょうど境内の整備真っ最中。
整備前は比較的樹木も豊富な雰囲気であったが、なにやら切り株が一杯。どうやら伐採もされているらしい。落ち着かない境内なので、足はやに退散。そのまま南へと向かっていったん浅間大社に戻る。



「山宮浅間神社」(浅間大社元宮)<浅間大社元末社・旧村社・静岡県富士宮市山宮字宮内>

御祭神:木花之佐久夜毘売命
    (富士大神・浅間大神)

富士山本宮浅間大社の元宮とされる。

垂仁天皇3年(紀元前27)のころに富士の神霊を山麓にまつったことにはじまる。

景行天皇の皇子であった日本武尊が東征の最中、賊の攻撃に遇われた際、富士の神を祈念し無事災難を逃れたことから富士の神の恩恵に感謝し神霊を山宮に祀り、平城天皇の大同元年(806)に坂上田村麻呂が現在の富士山本宮浅間大社の地(大宮)に社殿を造営し浅間大神を遷座。

その後、当社と浅間大社との間柄は「山宮」(元宮)と「里宮」(本宮・大宮)という密接な関係にあった。

当地は富士山の遥拝所であり、本殿はない。
いつのころか神社に本殿を建てようと村人たちが造営に取りかかったとき上棟式までこぎ着けると大風によって吹き倒されるということが何度も起こり「山宮浅間神社に本殿を造ろうとすると風神の祟りがあるので本殿を造ってはいけない」と伝承されるようになったという。

富士山本宮浅間大社の元摂社(明治以降は末社)。のちに明治社格では旧村社列格している。


富士山遥拝所 御神木と磐座

浅間大社でまたゆっくりして、さてそろそろ北上を開始するかと歩き始めると、ちょうど目の前をバスが走る。
事前に調査していた「もしかしたら山宮浅間神社の近くまでいくかもしれないバス」だった。
山宮浅間神社まで行くバスはなく、どうしても歩かないといけない場所。

楽して近くまでいければいいかもとはうっすらと検討していたけど、バスの時間までは調べていなかった。
もともと高速バスが遅れていたというのもあり、マイペースで参拝していたので。
で、この近くまで行くバス。どうやら2時間ぐらいに一本しかない気配で、それがさっき目の前を走っていったので早々にバスは終了のお知らせだった。


浅間大社から山宮浅間神社までは約6キロ。県道180号線を延々と北上する。何箇所かのコンビニに立ち寄って歩くこと70分。
ようやくに到着。
時間は14時10分。

境内に足を踏み入れたとたん、70分歩いた疲れが一気にとれ清々しい気持ちとなる。
ここは何度となく話には聞いていた場所で、どうしてもきたかった神社の一つなのだ。
富士山本宮浅間神社の元宮。
富士山の遥拝所。
ヒグラシが賑やかな山宮浅間神社遙拝所。本殿はなくもっとも神聖な場所が遙拝所なのだ。原始祭祀さながらの様相を残す場所でもある。

今日はあいにく富士山の姿は見ることがかなわなかった。いつか、またここに来て富士山を仰ぐことがあるだろう。
そのときまで富士山を遥拝して仰ぎ見るのはおあずけだ。

14時50分。
山宮浅間神社をあとにして、ここから村山浅間神社まで歩いてみよう。



「村山浅間神社」(富士根本宮)<旧県社・浅間大社元摂社・静岡県富士宮市村山字水神鎮座>

御祭神:木花之佐久夜毘賣命

平安時代末期に僧末代(富士上人)が富士山を山岳修行の場所として選び富士修験の元を開いた。
神倉時代には僧頼尊が村山で富士行を創始し村山の地に富士修験が定着。

当地は富士修験の道場・大日堂(富士山興法寺)を中心に発展。室町時代以降、周辺にはいくつもの坊が作られ村山口富士登山の基地として多くの富士登山者を集めてきた。
駿河守護今川家の信仰が篤く、駿河遠江の山伏統括を富士山興法寺が担っていた。

*富士山興法寺(京都聖護院直系寺)
 「村山浅間神社」・・・浅間大菩薩
 「大日堂」   ・・・大日如来
 「大棟梁権現社」・・・末代(富士上人)

富士修験の聖地として栄えていたが江戸期には衰退。
これまで富士山興法寺が保持していた富士山八合目以上の支配権を慶長11年(1606)に徳川家康は本宮浅間神社に寄進され、富士山での優位性を失う。(かろうじて山頂の大日堂の帰属は確保)

宝永4年(1707)の富士山大噴火によって村山登山道が荒廃し社殿大破。

明治の廃仏毀釈にて富士山から仏教色が排除されることとになり、村山の富士山興法寺が管理していた山頂大日堂は売却され「本宮浅間神社奥宮」とされ、山頂薬師堂は「久須志神社」と帰属改称させられた。

また境内の浅間神社と大日堂は神仏を分離させられ浅間神社は本宮摂社「村山浅間神社」となり、末代富士上人を祀っていた大棟梁権現社は氏神社として高根総鎮守社となった。

明治39年(1906)には、これまでの村山を経由していた登山口とは別途に、村山を経由しない「新大宮口登山道」が開設され村山は廃れ、いつしか廃道となってしまった。(近年、村山古道が復興しつつあるらしいです)

浅間大社は明治8年に村社、大正13年に県社列格。

現在は、浅間神社と大日堂が同一境内でそれぞれに宗教法人登録されている。

当地から始まっていた村山口登山道は最古の富士登山道であり村山古道とも称される。


村山浅間神社社殿

「富士根本宮」の扁額

氏神社

村山修験開祖「富士上人末代」を祀る。
富士頂上に「大日寺」をたて山岳仏教の基礎を固め
自ら「大棟梁権現」と号し村山の地にて
即身仏となって当山の守護神となった。
村山の氏神社として「高嶺総鎮守」と称される

社殿は平成14年新築

村山浅間神社のイチョウ
樹高16m 目通り9.2m

村山浅間神社の大杉
樹高47m 目通り9.9m 樹齢推定1000年

護摩壇
村山の法印が護摩を焚く聖壇

水垢離場
村山の法印の指導により入山する道者が身を清める場

富士山興法寺 大日堂

富士山村山口登山道入口

再整備された村山口登山道

正直、歩くのはきつかった。浅間大社から山宮浅間神社を6キロ70分で歩いたが、その間はコンビニもあって休憩しながらだったので比較的に気楽であった。しかし山宮浅間神社と村山浅間神社は距離にして3キロほどしかないのに結構つかれた。地味なアスファルトの上り坂と日差しを避けることがない切り開かれた直線的な道路が気持ちの良いものではなかった。

15時30分。山宮浅間神社から3キロ40分ほど歩いて到着。

江戸期までは冨士山岳信仰で栄えて来た神社というよりは寺院。明治維新の廃仏毀釈とその後の登山道の村山廃止によって一気に廃れてしまった地。近年は、富士登山口で最古といわれている村山口を復活させようと活動が盛んであり、上級登山者であれば一応の登山が可能なレベルまで整備はされているという。

やはり社殿は富士山を背に南面している。山村の静かな鎮守様。神仏習合のなごりがそこかしこに見受けられ境内には神社と寺院が同居している。毎年7月1日の山開きには京都聖護院より山伏が祭礼をとりこなっているという。

歩いてくるのはなかなかに酷ではあるが、そんな疲れもすっ飛ぶような涼やかな境内。

境内を散歩していたら地元のお人が「昔の登山道の入口があっちにあるんだよ」と村山口の入口を教えてくれた。
教えていただかなかったらきっと見逃していたであろう場所にそれはあった。神社の道路を挟んだ西側の空き地の奥。
ちょっとここを歩いてみようかなという気にもなったが、深みにはまりそうなので今回はやめておこう。

さて村山浅間から街に戻らないといけない。正直、戻るのがだるいがしょうがないので歩くを開始する。


4キロ50分ほど歩いて、粟倉団地〜大岩地区まで南下。くだりなので歩きやすかったのが救いか。
バス停を見るとあと30分後にバスがやってくる。ちょうどコンビニもあるので休憩をしよう。
ちなみにここから駅までも4キロほどのようなので村山浅間神社は8キロ概算。

17時5分頃にバスがやってきて富士宮駅に戻ってくる。
また浅間大社に赴いて閉門18時までのんびりと神社で過ごし、18時50分発の高速バスで一路東京へ。
帰りも渋滞していて東京駅に着いたのは2時間20分遅れで22時30分でした。


・・・富士宮焼きそば食べる余裕なんてなかかったです。。。




ちなみのこの日の富士山はほとんど見えませんでした。
一瞬だけ見えたとしても、こんな感じで、なかなか姿を現すことなく終了。


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