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「浅間の神社風景・駿河甲斐一の宮編」
<平成14年9月参拝・平成15年1月記>

目次
富士山本宮・浅間大社」(式内名神大社・官幣大社・静岡県富士宮市宮町鎮座)
浅間神社」(式内名神大社・国幣中社・梨県東八代郡一宮町一宮鎮座)
酒折宮」(村社・記紀神話にまつわる社・日本連歌発祥の地・山梨県甲府市酒折鎮座)


 夏の思い出第三弾。ようは平成14年9月の紀行を翌年の1月に書いているだけなのだが。この日は東京駅から東海道を下って、身延線で甲府を経由して中央線で家に帰るという、あまり意味もない巡回日帰り18切符の旅、であった。そんなに遠い場所でもないけど、途中に身延線を介在してしまうと事はおおごとで、なぜだかまるまる一日かかつてしまつた。もっとも「青春18きっぷ」だから可能な電車旅であるが。
 東海道線・富士駅から身延線に乗り換える。時間は9時35分。富士宮駅には9時52分に到着。

123系
身延線・123系(おまけ)

 富士宮駅で觀光ガイドの地図を戴いて歩く。なんとなくこの街は第一印象が嫌いなのも「富士宮の寺」のせいだろう。宗教的、つまり日蓮宗的内部抗争の片鱗としてこの街に来るのが嫌だった。べつに私は日蓮の門徒ではないが、そこは多少のえんがある。

 途中で銀行によって両替をする。この両替がしたくてたまらなかった。唐突のようだが神社参拝をするにあたって小錢が欲しい。で、たまたま小銭が財布になかった。なにもお賽銭の小錢ではない。朱印の小銭が欲しかった。基本的に御朱印を頂いたら「こころざし」として差し出すもので、それには料金が特に決まっているわけではないところが多い。つまり小銭がなく朱印のお礼に千円札を差し出してもお釣りをくれというわけにはいかない、・・・おこころざしだから。
 
 だいたい駅から1.5キロ。15分程度歩くと赤い鳥居と「富士山本宮浅間大社」とかかれている社号標がみえてくる。ちなみに一般的に「浅間」は「せんげん」と読み、山梨県では「あさま」と読んでいる。


「富士山本宮浅間大社」(延喜式内名神大社・駿河一の宮・官幣大社・静岡県富士宮市宮町鎮座)
<ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ・御朱印

平成22年再訪記事

御祭神:木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと・ニニギ尊皇后・解説
配祀神:天津日高日番能邇邇藝命(あまつひこひこほのににぎのみこと・天孫降臨の神・サクヤヒメ命の夫神・解説
     大山津見神(おおやまづみのかみ・サクヤヒメ命の父神・解説

 当社は霊峰富士山信仰の中心で、古来は富士山そのものを神体として仰いでいたとされる。垂仁天皇3年のころに富士の神霊を山麓にまつったことにはじまり、のちに日本武尊が東征の際に山宮の地(現・山宮浅間神社)に大神をまつったという。さらに後平城天皇の大同元年(806)に坂上田村麻呂が現在地に社殿を造営し浅間大神をまつったとされる。
 当社の大宮司家は安芸厳島、尾張熱田とともに日本三大宮司のひとつとされ、富士氏は近隣にかなりの勢力を保持していた。
 延喜の制では名神大社列格。駿河国一の宮。全国約1300社(うち駿河国内140社)の浅間神社の総本宮。明治29年に官幣大社列格。富士山山頂には奥宮が鎮座している。

 現在の本殿・拝殿・楼門は慶長9年(1604)の造営。楼門は朱塗りの楼閣で、楼門に直結して四方の壁をなしている。朱塗りの拝殿の左右には出拝殿、後方には幣殿が続き、後方にも朱塗りの本殿がみえる。本殿は上下二層から成立している「浅間造り」という独特の神社建築で国重要文化財(旧・国宝) 
<参考:神社由緒書・角川地名大辞典静岡県・神まうで他>

浅間大社
富士山本宮浅間大社・正面鳥居
浅間大社
浅間大社境内
浅間大社
浅間大社・楼門
浅間大社
浅間大社・拝殿
浅間大社
浅間大社・社殿(後方の二層が本殿)
浅間大社
浅間大社・本殿(国重要文化財)
浅間大社
湧玉池ほとりの水屋神社(ここで富士湧霊水を採取できる)
浅間大社
湧玉池(特別天然記念物)境内神池

 なにか凄くドキドキするのはこの神社が女神の神社だからかもしれない。普段なら威圧的気配を感じる楼門もこの淡い朱色のおかげでやさしく感じる。そしてこの社殿に魅了される。正面から眺めると、後方の本殿屋根が微妙なバランスで窺え、横にまわると本殿は飛び出てきたようにみえる。正直なところ、これほどにおもしろい神社にであえたのはひさしぶり。
 あっちをながめて、こっちをながめてとうろうろしてしまう。それも境内にいるのが私一人だからいささか恥しい。参道脇の札所では巫女さんが2人、そして向かいの社務所では巫女さんが5人ぐらいと神職が2二人ぐらい。なんとなく神社の人が多いのが気まずいんですけど。とりあえずわざわざ札所で「朱印をどこでもらえますか」と巫女さんに聞いて当然のように「あちらの社務所で御願いします」と返答され、社務所にむかう私もかなり暇らしい。社務所で朱印を貰うのは当然なのだから。

 境内をぐるっとひとまわりして、水屋神社で水を頂く。なかなか冷たくて嬉しくなる水は富士山の湧き水だとか。さきほどから神社には人がいないのに、この湧玉池のほとりには人が多く、そして休むことなく誰かしらが大きなポリタンクと車で水を汲みに来る。
 湧玉池は富士の雪解け水が熔岩の間から湧き出たもので、水温13度、湧水量は一秒間に3.6キロリットルとされ一年を通じて変動がないという。

 もう一度、本殿を眺めてから帰路につく。帰り道は湧玉池から流れ出た清らかな水が流れる神田川にそって歩く。そういえば富士山をみていないなあと思って富士を拝むも、ちょうど富士山の方向に大入道雲が発生して不思議なことに富士宮で富士がみえなかった。
 10時すぎに神社に到着して、慌ただしく11時5分の身延線で北上。ところがこの電車もわずらわしく、身延駅で24分も停車したりする電車。おかげでおりたくもない身延駅から身延山に悪態をつく時間ができてしまう。まったく意味もないけれども。
 とにかく富士宮を11時5分に出発して甲府についたのが13時35分。とんでもないことに2時間30分もかかっている。そして私の目的地である甲斐一の宮「浅間神社」もよりである「山梨市駅」に辿り着いたのが13時55分。

 山梨市駅にたどりついたも、神社まではここから6キロぐらいはある。そしてバスがない。かなり困ってしまった。バスがあるはずとめくらで来たのだから。(どうやら甲府駅からバスがでているらしいが・・・)
 普段の私ならヘタに歩き出していたかもしれないが、手元の地図は心細く歩く自信もないし時間も心配。そこで珍しくタクシーなんぞに乗り込んでしまう。時間にして約10分、料金は1780円。まあ、大したものであるが、神社に14時10分ごろに到着。ついた場所はちょうど裏参道のような位置だった。


「浅間神社」(式内名神大社・国幣中社・甲斐一の宮・国幣中社・山梨県東八代郡一宮町一宮鎮座)
<あさまじんじゃ・朱印

御祭神:木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと・ニニギ尊皇后・解説

 第11代垂仁天皇8月に神山の麓に鎮座。この場所が現摂社の山宮神社(本社から東南2キロ)。第56代清和天皇の貞観7年(865)に富士山の山火のために現在地に遷座。以後、鎌倉幕府や甲斐武田氏の崇敬をうける。宝暦4年(1754)に社殿再建。摂社・山宮神社本殿は永禄元年(1558)の再興で国の重要文化財に指定されている。
 延喜式内の名神大社。甲斐一の宮。明治4年に官幣中社列格。

浅間神社
浅間神社大鳥居
後方の森が社叢。左後方が甲府市街
浅間神社
浅間神社正面
社号標は東郷平八郎毫
浅間神社
浅間神社・神門
左側が社務所。左奧に拝殿。正面奥が神楽殿。
浅間神社
社頭前の巨石
縁起のよい巨石。・・・祭神は女神様ですから
浅間神社
浅間神社拝殿正面
浅間神社
拝殿横姿・右隅が神楽殿

 わたしが一番最初にしたことは「バス停探し」。これをやらないと怖くて参拝も出来ない。ちょうど正門鳥居の向かいにバス停があった。時間は甲府行きが一日4本。7時1分・7時56分・10時36分・そして14時48分。たったこれだけであった。(勝沼行きは900・955・1408・1850)
 かなり怖いバスなんですけど。それも私の行いがよいせいからかあと30分ほどでバスがくるんですけど。おまけに今いる場所は「フリー区間」(乗り降り場所自由)なんですけど。

 とにかく神社にもどる。予想以上に窮屈な神社。社頭前もあまり広くない。国幣中社規模としても狭い方に分類されるだろう。ただ社頭は狭い感じがしたが、後方は若干の広がりがある。本殿もかなり大きい方だが、木々が邪魔して目視が限界。県指定の夫婦梅(学術的に珍しい珍種な梅、だとか)や干支・十二支の動物を彫った石などがならんでいて、なかなか愉快な環境。また、武田信玄が奉納した歌を三條実美が記した石碑などもある。

 社務所でけっこうまたされて朱印を頂き、大鳥居を拝見。時間があれば二キロ南東の摂社山宮神社にあるいて行くのだが、バスに恐怖を感じているので10分前だけれどもバス停でまつことにする。
 14時48分。本来ならバスがくる時間なのだが、そんな気配もしない。もう単純な私は頭が混乱してくる。フリー区間だから突っ走っていったんじゃないか、と妄想する間も時間が過ぎ、15時までにバスがこなかったら歩こうと決意するまで追いつめられた。
 14時55分。バスというよりもワゴン車の大きなヤツ、といった方がいいようなマイクロバスがやってきて、やっと私は安心する。誰も客が乗っていないし、どうして遅れているかもわからないが。こういうことがあると神社参拝の電車での限界をどうしても感じてしまう。

 バスは甲府駅に行くらしいが、手元の地図と走行場所をながめてもやけに迂回が多いことを感じてしまう。こんなバスに乗って甲府まで戻らされても時間が勿体ないし料金も心配だ、ということで甲府手前の駅で降りることにする。それが「石和温泉駅前バス停」。420円だった。
 駅前なのに500メートルぐらい駅が離れている。15時10分に駅に到着してこの先を考える。甲府周辺にはいくつか行きたい場所がある。だがいずれも片手間ではすみそうのない場所であり、ちょっと寄り道ではすまない。そうなるとどこかいい場所はないだろうか。わたしのちっぽけな知識で検索されたのが「酒折宮」だった。さいわいなことに駅から近いし、とにかく「酒折駅」まで向かう。


「酒折宮」(村社・記紀神話にまつわる社・連歌発祥の地・山梨県甲府市酒折鎮座)
<さかおりのみや>

祭神:日本武尊(景行天皇皇子・解説

 古社地は現在地よりも北方の山中。
 古事記によれば景行天皇皇子の小碓命(日本武尊)が東征帰途に甲斐に立ち寄り
  「甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時、歌ひたまひしく、
   新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
  とうたひたまひき。ここにその御火焼きの老人、御歌に継ぎて歌ひしく、
   日々並(かがな)べて 夜には九夜 日には十日を
  とうたひき。ここをもちてその老人を誉めて、すなはち東の国造を給ひき。」
 意訳(抜粋
 そのまま甲斐に越えて酒折宮(現甲府、酒折神社)に滞在しているときに、倭建命が歌って言うには
   新治や筑波の地を過ぎて幾夜寝たか
 と歌うと、警護をしていた老人が歌に続けて
   日夜を重ねて、夜で九夜、昼で十日でございます
 と歌い、そこでその老人をほめて、すぐさま東国造をお与えになった。
 
 とある。日本書紀でも大筋では同様であり、東征の帰途に日本武尊が酒折宮にたちより歌を交した点では共通している。ゆえに当地を「連歌発祥の地」としている。
 なお酒折宮社務所由緒では、日本武尊が信濃国に向かう際に塩海足尼(しおのみのすくね・前述の老人)に「火打嚢」(伊勢神宮の倭姫命から託され、のちに日本武尊が駿河国で難を逃れた嚢・詳細)を託して、塩海足尼(甲斐国造の祖という)が火打嚢を御神体として社にまつったのが起源であるという。

 当社周辺には6−7世紀に造営された古墳群が散在しており、主に高句麗系氏族と関係ある墓と推測されているため、当社もこれらの氏族と関係があったかもしれない。
 中世期までの沿革は不明。近世は酒折村の八幡宮と社地を同じくしていた。境内には本居宣長撰文・平田篤胤書の「酒折の宮寿詞」の碑や大縣大弐謹撰の「酒折祠碑」がある。
<参考・角川地名大辞典山梨県・神社由緒書>

酒折宮
酒折宮鳥居。外参道は中央線に分断されている。
電車が走っている瞬間で写真を撮るのが偉いです(笑)
酒折宮
酒折宮正面
とてもしずかな境内。ただ山梨学院が隣なために・・・
酒折宮
酒折宮拝殿
酒折宮
酒折宮本殿
ひ
本居宣長撰文・平田篤胤書の「酒折の宮寿詞」
(本居奉納寛政3年・1792/平田刻文天保10年・1839)
ひ
大縣大弐謹撰の「酒折祠碑」
(宝暦12年・1762年)

 酒折駅から酒折宮までは徒歩3分。手頃な近さがありがたかった。鳥居の先の中央線を横断するとこんもりとした山を抱いて、社叢がみえてくる。後方の山が昔の鎮座地かもしれない。
 社地は手頃なひろさ。普通に村の鎮守様であり、社格も村社。日本武尊に関係して、そして記紀神話に記載される当地が村社というのも意外であり、そこに社格と由緒と實状をかんがみた明治政府の良識(?)を感じさせる。
 社地の脇はスポーツで有名な某私立学校の通学路とかしており、私が訪れた夕方(15時30分ごろ)はいささかさわぎしいが、まあ気にしないことにする。
 もっともちいさな神社なので、参拝をすませるとすることがなくなる。ありがたいことに石碑の石碑文の書き下しと要約をコピーした紙と由緒書きが無人の社務所に置いてあったので、コピー代を支払って(払ってね、と書いてあったので)、石碑と対面しながら読んでみる。
 本居宣長が当社に奉納した祝詞碑文や平田篤胤が刻んだ碑文、大縣大弐の碑文などを読んでいると自分が賢くなったような気がする。

 さてもうすぐ16時になる。もういいかげんに帰らなくてはなるまい。16時10分の電車に乗ると高尾駅には17時44分。なにやらもったいない時間だけれども甲斐国にはいずれまたくるだろう。中央各駅線で爆睡して知らない駅(武蔵野線乗り換えのために西国分寺駅予定のはずがが武蔵境駅とかまで寝てしまった)にまどわされながら家路についた。


<あとがき>
 平成14年夏の宿題が完結です。これでやっと一息つけます。富士の浅間は本当によかったです。あの淡いピンク色した女神の社に魅了されました。本殿も愉快な建築物だし。
 甲斐の浅間はもう電車では行かないと思います。間違いなく車でなくてはいけません。バスはかなり怖いので事前に時間の確認はした方がよいです。バス会社に電話して。
 酒折宮は、まあおまけ。記紀を読んだことがあれば一度はいっても良いでしょう。記紀をよんでいなければ何も愛着が湧かないと思いますが。
 あと身延線に全線のる場合も覚悟が必要です。正直、眠くなります。

<参考文献>
角川地名大辞典22・静岡県・昭和57年
角川地名大辞典19・山梨県・昭和59年
神まうで・昭和14年・鐵道省
各神社発行の御由緒書き及び解説看板等

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