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神のやしろを想う・特別編「お伊勢参りの風景」
5.伊雑・二見編



1.外宮編 目次 / 2.内宮編 目次 / 3.月讀・倭姫編 目次 / 4.瀧原編 目次

5.伊雑・二見編 目次
2日目」/「御神田」/内宮別宮・伊雑宮(志摩国一の宮)/「二見・神宮の野菜と塩」/「御塩殿神社
北勢地区へ


2日目
 当初の計画では伊勢を日帰りするつもりだったけど、計画の一週間前に「伊勢」に宿をとることが決定。そして二日前にもう一泊したくなって「桑名」にも宿を取得。今日は同じ三重県の桑名市まで北上するだけなので非常に気楽。でもまずは南下をしなくてはいけない。
 昨日は内宮・外宮・別宮13社を参拝。一日でまわりすぎてさすがに厭きたけれども、別宮としてもう一社だけ残っている。一社だけ参拝していない別宮・伊雑宮は伊勢国ではなく志摩国に鎮座。志摩一宮ともされている上に、ほかの別宮よりも強烈な歴史を背負っているので、是非とも行かねばならなかった。

 宇治山田駅を7時28分に出発して8時10分に近鉄上之郷駅に到着。鳥羽付近まで南下してはじめて「海」を眺める。やっぱり伊勢志摩は海国でもある、ということを実感。山もあれば海もある。非常にバランスがとれており、神宮関係も各地に点在している。

 上之郷駅もみごとなばかりの無人駅。駅を拠点とする人間にとって、無人というなんともいやなものではあるが、伊雑宮は駅からほど近そうなので、なんら心配はない。


御神田(おみた)
 歩くこと3分程度で鳥居に神田が見えてくる。この神田は伊雑宮の祭事の為の御神田(おみた)。ただただ普通の田圃ではある。しかし前に「鳥居」などがあったりすると、急に神の雰囲気を感じてしまう。この地は「志摩国」でもあり、どことなく独自さを感じる。田植えは毎年6月24日の月次祭。奥の方の田圃は若干の黄金色を帯びているのに、この神田はまだ青々としている。(8月22日訪問)

神田
御神田。奧の森が伊雑宮
神田
御神田。奧の田圃は黄金色。御神田は青々。

伊雑宮(皇大神宮別宮・志摩国一の宮・式内大社・いざわのみや・イゾウグウ)
祭神:天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)
 明治以前の祭神は伊射波登美命(いざわとみ命)と玉柱屋姫命(たまはしらやひめ命)とされていた。延喜式には「粟島座伊射波神社二座・並大」とある。

 倭姫命が皇大神宮鎮座後に、朝夕の御贄(みにえ・お供え物)を奉るべき地を定めるため志摩国を巡幸していた際に、伊佐波登美命が倭姫命を奉迎して、磯部の地に神宮を営んだことが、伊雑宮の始まりという。

 この伊雑宮が他の別宮とは違い、志摩国一の宮でもありそこに伝わる歴史もきな臭いものがある。以下は由緒には書かれていない話。でもこういう過去の話を持ち出すのが歴史専攻の人間の悪い癖。神社側には嫌われそうだな。

 伊雑宮の災難のはなしでも。
 平安末期頃から全国的に盛んになった熊野信仰の勢力が伊勢志摩方面にも波及していた。志摩の伊雑宮は源平の狹間で暴徒と化した熊野衆徒らによって襲撃され、神殿が破壊され、神宝が奪われ、伊雑宮のご神体は一時内宮に非難さざるを得なくなった。源氏方に味方していた熊野衆の暴挙に恐懼した源頼朝は養和2年(1182)に伊勢神宮に文を奉り、修復その他を祈誓ということがあった。

 律令制度が乱れ、国司の力が衰えて以降の伊雑宮神領は的矢氏(物部支族。往古よりの神宮警護役)によって管理されていたが、戦国期に波切の九鬼浄隆によって滅亡。神領であった磯部地域は内宮の衰微もあって無法地帯と化してしまう。その後、伊雑宮神領磯部の地は九鬼浄隆の弟である九鬼嘉隆の領するところとなり、九鬼氏の武家領となってしまう。
 神領を失った伊雑宮の経営は荒廃し、磯部の神人(伊雑宮に奉仕していた神職)は神領再興を叫んで寛永2年(1625)に江戸へ上訴しようとするも、九鬼守隆(嘉隆の子・鳥羽藩主)によって阻まれ、さらには50余名の伊雑宮神人たちが神島に流刑となってしまう。
 寛永9年に九鬼守隆が死去して、九鬼氏が天封。この機を逃がさずに伊雑宮神人たちは関東に下り老中阿部氏に神領返還を強く訴えた。しかし伊雑宮神領の磯部は四千二百石余りもあり、それを返還しては鳥羽藩が成り立たないのが目に見えていたということや、新しく就任した鳥羽藩主内藤氏が幕府の要人に賄賂を贈っていたために、なんの沙汰はなかった。
 その後も、何度も幕府や朝廷に願い出るもことごとく失敗。ここにいたって伊雑宮は自らを尊貴なる神社と名乗ることで事態の打開をはかる。
明暦四年(1656)に朝廷に上申した神訴状には「伊雑皇大神宮は日本最初の宮で、のちに内宮が鎮座し、次いで外宮が鎮座した」とする「伊勢三宮説」を創案し、伊雑宮は天照大神、内宮は瓊瓊杵尊(ニニギ尊)、外宮は月読尊を祀っているとし、内外宮は伊雑宮の分家であると主張するようになる。
 こうなると内宮外宮も無視するわけにはいかず、深刻で醜い本家争いが展開され、最後は朝廷の裁決によって「伊雑宮は内宮の別宮。祭神は伊射波富美命。」と定められた。しかしこれに不満な伊雑宮磯部神人たちは四代将軍徳川家綱に直訴。結果としては最悪で神人たち47人が伊勢志摩両国から追放となった。これが寛文三年(1633)のことであった。

 騷ぎは終息したようにみえた。しかし延宝七年(1679)に伊雑宮を本宮とする伊勢二社三宮説を唱える「旧事大成経40巻」が版行される。これは伊雑宮磯部神人たちが三千両を著名な神道家や儒者や僧侶に贈って伊雑宮の優位性を偽作させた書物で、これが活字を通して世間の知識階級に広まり、学者の中にはこの書を信奉するものが多数いた(偽書とはいえ当時の著名な学者が執筆)ために幕府も事態を重くみて、天和三年(1683)に版行書と版木の破却を命じ、関係者は流刑、追放。この事件を「大成経事件」という。
 伊雑宮磯部神人の子孫たちは明治四年の廃藩置県まで片時も神領復興を忘れず、常に機会を窺っていた為に、管轄する鳥羽藩には安まるときがなかった、という。
(以上は「日本の神々・神社と聖地6」伊勢・志摩・伊賀・紀伊 を参照)

伊雑宮 伊雑宮
伊雑宮 左上:皇大神宮別宮・伊雑宮入口

上:伊雑宮
別宮を見るのもこれが最後です(苦笑)

左:境内にあった縁起の良さそうな木(笑)
すごい根元をしています。

 神社には珍しく物騷なエピソードを持っているのが伊雑宮。志摩一の宮とはいうけれども、そんな気は一向にせず、やっぱり皇大神宮の別宮の雰囲気。

 志摩一宮にはもう一社、「伊射波神社(いざわ)」という旧無格社の「一の宮」がある。どうして二社あるかは不明というが、伊雑宮は内宮別宮の官社であったから、民間で同じ祭神(伊射波登美命・玉柱屋姫命)を祀る神社が一の宮にされたとも、江戸期の伊雑宮の存在に嫌気がさした鳥羽藩が対抗上に一の宮をつくったのでは、ともされている。

 境内はそれほど広いわけではないが、志摩を騷がせた存在をここに感じ、その大きさを具現化させてしまう。もっとも今、この別宮を知っている人でも、その歴史を知っている人は少ないだろう。ただの参拝客がそういう事を知っていても意味はない。今は静かに「皇大神宮・別宮伊雑宮」を参拝するだけ。
 朝8時過ぎなのでちょっとばかりあわただしい。そんな中で御朱印を頂いて退散。帰りの電車は8時45分。近鉄鳥羽駅でJR線に乗り換えて「二見浦」に行こうと思う。

近鉄
上之郷駅を通過する賢島行の近鉄特急
近鉄
上之郷駅に入線する賢島行の普通電車。

 鳥羽駅に9時9分に到着して9時32分の「快速みえ6号」に乗車して9時40分に「二見浦駅」。この二見に何かが重要なものがあるわけでもなく、ここを無視しても一向に構わなかった。ただ昔から伊勢を参拝する人は二見の水で身を清めたとも言われており、なんとなく伊勢観光の基本として二見が取りあげられているから、来ては見た。でも、せっかく来たのだから普通は見向きもしないものを見てみたいと思う。
 二見浦駅ではレンタサイクルが行われている。もしレンタサイクルがなかったら、ここには来なかったと思う。そういうわけで、早速レンタサイクルをする。


「二見・神宮の野菜と塩」
 まずは二見駅前からあらぬ方向へと自転車で走り出す。普通の観光客は駅前から南の方向、つまり右手にある「夫婦岩」で有名な二見興玉神社にでもいくだろう。ところが私は北(左手)の方向にまっすぐ自転車で走り出す。大体1.5キロ位を国道42号線で北上する。多少わかりにくいが、そこには「神宮御園」という神宮に奉じられる野菜や果物を清浄に栽培している農場がある。見てどうにかなるわけでもないけど、見に行ってみる。

 「神宮御園」の門扉が開いている。つまり私でも入ろうと思えば入れそう。でも神宮御園なのだから入るわけにはいかないだろう。ただ空しく、ここで野菜が作られているのかぁ、と無意味な感慨に耽ってみる。

畑
神宮御園
五十鈴川
二見浦付近の五十鈴川。写真奧が上流。
御塩浜
御塩浜
御塩浜
御塩浜

 「神宮御園」から五十鈴川沿いに河口に下ると神宮の「御塩浜」がある。この場所は野菜の農場とは違い見物は自由。もっとも「浜」ではあるが。

 神なる流れの五十鈴川河口にほど近い場所にこの御塩浜がある。入浜式塩田の構造で約1メートルの干満朝の差を利用して海水を導いている。濃い塩水を採る作業はだいたい7月から8月の土用の約一週間行われている。朝の内に海水でしめった砂を撒くための「浜をひろげる」作業が行われる。昼に、その砂を乾きやすくする為の「浜をかえす」作業。そして夕方にこの砂を穴(沼井という)に集め、海水をそそぐ「潮をおそう」作業が行われる。こうして採取された「濃塩水」は一キロ離れた「御塩殿神社」の作業場に運ばれて「堅塩」がつくられる。あとの工程は「御塩殿神社」にて。

 何度見ても浜まではある。しかし不思議な物でやはり鳥居があると、「神の浜」「神の塩田」という感じがする。そう考えると、鳥居というものの存在感は無視するわけにはいかないな、と見直してしまう。「塩田」を見つめていても進展はしない。塩田で採取される「濃塩水」と同じように、私も「御塩殿神社」に行こうかと思う。


「御塩殿神社」(みしおどの神社・内宮所管社)
祭神:御塩殿鎮守神
塩筒翁神(しおつつのおきな神)ともいう。=塩椎神(しおつちのかみ・詳細)か?

 御料の御塩は御塩浜から運ばれた濃塩水を「御塩汲入所」におさめ、これを「御塩焼所」で荒塩に焼く。さらにこの荒塩を毎年3〜4回、御塩殿において三角形の土器でもって堅塩に焼き固めて、これを神宮御料に供え、神事等に用いている。

御塩殿
鳥居
奧に見えるのが御塩殿神社。
御塩殿
内宮所管社・御塩殿神社正殿
所管社なのにさすがに立派です。
御塩殿
御塩殿(御塩殿神社の右側)
製塩手順。

1.御塩浜で濃塩水を採取

2.左下の御塩汲入所で保管

3.下の御塩焼所で荒塩になるように焼く

4.左の御塩殿で焼き固めて堅塩の完成
御塩殿
御塩汲入所(神社の奧、左側)ちなみに後方が海。
御塩殿
御塩焼所(神社の奧、右側)

 所管社だから、大した事ないとおもっていたら、下手な摂社よりもかなり立派な境内であった。さすがに神宮直轄で「製塩」を行っているだけある。歴史趣味的にも古代の「製塩工程」を辿る、この神社らしからぬ様相を目にして、たまらなくうれしくなる。遺跡のようで遺跡でない、実働している製塩施設が、まるで考古学の復元遺跡のように目の前にある。歴史趣味者としても、これはかなり興味深い存在。ぜひ「製塩」光景を見てみたくなってしまう。


「北勢地区へ」
 これで、私の「お伊勢参り」も終了。あとは北上するだけ。
 せっかく二見にいるのだから「二見興玉神社」を見聞するも、これは「お伊勢参り」編にはいれたくないので、別立て。二見周辺には他にも神宮の摂末所管社が幾つか鎮座しているが、そこまでは参拝の時間がなくなった。もともとは「摂末所管社」はおまけなので、そこは気にしないことにする。

 11時40分に「二見浦駅」から電車に乗る。次に目指す地はの「結城神社」(別格官幣社)と「椿大神社」(伊勢一の宮)。この先も忙しく立ち回らなくてはいけなかった。
 これから先は、お伊勢参りとは関係ない話。この先は気長に書いていくつもり。出来上がるのはいつの日か、といったところ。

 伊勢。お伊勢参り。遮二無二、猛進したような「参拝」であった。果たして、私はこの「お伊勢参り」で何かを得ることができたのだろうか。
 答はわからない。一つの原点に到達できたような、日本の頂点に位置している「神社」の重厚な気配を感じることができたような、充実感は確かに手にしていた。
 ただ、不満足な点も多いし、見のがした事も多い。どのみち再訪必至であるので、気にしないことにする。伊勢に行く機会は絶対にあるはずだから。そこは鉄道と違い、廃止になるということがないので、安心な点でもある。

 電車を待つ。まだ来ない。二見浦駅のベンチで「あんパン」をかじりながら、呆然と2日間の「伊勢参り」を振り返ってみるだけだった。


<お伊勢参りの風景・参考文献>
「日本の神々・神社と聖地6」 谷川健一編
「角川日本地名大辞典・24三重県」 角川書店
「伊勢の神宮百二十五社めぐり一覧」 伊勢神宮崇敬会
神宮司廳作成各種「御由緒書き」等
各神社の案内看板等

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