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「郷土の鎮守様〜三鷹市周辺の神社散歩」

<平成21年11月参拝記載>

三鷹市
  「野崎八幡神社」「大沢八幡神社」 (「大沢古八幡神社」)「御嶽神社
  「井口八幡神社」「大鷲神社」「上連雀ノ神明社」「八幡大神社」「榛名神社
  「牟礼神明神社」「新川ノ天神社」「勝淵神社」「中嶋神社

小金井市
  「笠森稲荷神社」「関野天神社

武蔵野市
  「杵築大社

三鷹・武蔵野の神社地図  小金井の神社地図



今回は三鷹市とその周辺の神社を散策。
午後12時30分頃に調布をスタートして自転車で北上巡回。最後は16時30分近くになってしまい夕暮れとの戦いにもなってしまった。。



「野崎八幡神社」 (三鷹市野崎鎮座)

前回掲載ページ

祭神 応神天皇

野崎村が元禄8年に開拓され、その6年前の元禄2年(1689)に社地が深大寺末寺池上院に寄進され八幡社が勧請。
現在の社殿は大正15年(1925)に再建。
境内末社は稲荷社・金比羅社

境内には薬師堂も鎮座。野崎に薬師堂が勧請されたのは文久年間(1863頃)に愛知鳳来寺の尼僧「梅風尼」によって薬師如来(訳詞瑠璃光如来)がもたらされたといわれている。そのとき以来、毎年10月8日夜9時に「だんごさま」の行事が欠かさず執り行われている。(この日の夜に「薬師団子」が蒔かれ眼病を治すのに霊験あらたかと言われている。)

野崎八幡神社 正面

野崎八幡神社 境内はいろいろ工事中

境内の半分が区切られてしまった。道路拡張?なのだろうか

野崎八幡神社拝殿

野崎八幡神社拝殿

野崎八幡神社本殿は建築中

この神社は二回目の参拝。ちょうど一年前にも参拝していた。(前回掲載ページ
二回目なので簡単に参拝しておこうと思ったら、なにやら境内の様子がおかしい。境内の西側が更地になっていて、どうやら車の往来が激しい「武蔵境通り」の拡張を伴っている様子。「東八道路」との交差点に面しているという事もあり周辺は騒々しい。工事中という事もあってか木々は前よりも少なくなっている雰囲気。
新しい社務所が出来ているけれども、本殿は全力で建築中。拝殿のみが以前の姿を残していた。もう一年以上工事をしている。境内の整備はいつになることだろうか。



「大沢八幡神社」 (旧村社・三鷹市大沢鎮座)

祭神:応神天皇

慶長年間(1596−1615)の創始とされる。京都石清水八幡宮より分祠し「正八幡宮」として祀ったことにはじまる。(現在の大沢古八幡神社の地)
元和3年(1617)に大沢小字原の地に長久寺開山とともにあわせて遷座。村の鎮守として神仏あわせて信仰されてきた。
明治4年村社列格。
大正4年に東京天文台建築用地となったために大正6年に現在地に遷座。


大沢八幡神社 正面

大沢八幡神社 社殿

大沢八幡神社 境内

大沢八幡神社 御神木

鎮座地は三鷹市西部。野川公園の東側、国際基督大学の南側といったところに鎮座。人見街道に面している。鎮守としての境内は広い方だろうか。社殿周辺部に木々が集まっており、気持ちよい空間の開け方となっている。
社殿右前部には御神木。一本神酒から三つ又にわかれた枝が天に伸びていた。



「御嶽神社」 (三鷹市深大寺鎮座)

祭神:御嶽大神
配祀:稲荷神

古来は蔵王権現と称していた。明治初年の神仏分離によって御嶽神社と改称。
享保元年(1716)に開発人井上一族が移住元(現・調布市深大寺絵堂付近)してきたことにより深大寺新田が開発された。
そののちに延享元年(1744)、当時の深大寺新田は尾張徳川家の鷹狩場でもあり、鳥獣災害除けとして井上氏故郷の調布深大寺多門院の山伏より御嶽大権現を勧請という。

昭和3年に社殿建立。昭和18年に村社昇格を目指すために敷地を100坪から250坪に拡張。しかし終戦となり社格制度が廃止。
平成7年に社殿を新築。


御嶽神社 正面

御嶽神社 拝殿

御嶽神社 日の丸鳥居

御嶽神社 本殿

大沢八幡神社から都道123号を北上。鶏鳴幼稚園の脇あたりに鎮座。訪れてみて驚いた。鳥居に見事な「日の丸」が掲げてあった。そういえばこの日は「勤労感謝の日」、かつての「新嘗祭」。やはり日の丸が掲げてあると気分も違う。こうして日の丸が掲げてあるというだけでも、よく管理されているという雰囲気が伝わり好印象。ずーんっと伸びた銀杏の黄緑色がすがすがしい境内。社殿も平成7年造との事で小さい境内ではあれどよくまとまっていた。



「井口八幡神社」 (旧村社・三鷹市井口鎮座)

祭神:応神天皇

元文元年(1736)12月に創建。
明治33年に無格社から村社に昇格。
昭和50年9月に社殿再建された。


井口八幡神社 正面

井口八幡神社 参道

井口八幡神社 境内

井口八幡神社 本殿

御嶽神社を参拝した後に北上。連雀通りを西に向かえば小金井の笠森稲荷と天神社(後述)が道路を挟んで鎮座。先にそちらを経由してから改めて連雀道りを東に向かう。さらに赤十字病院の交差点を曲がって、武蔵野市の杵築大社を経由し、連雀通りの大鷲神社が鎮座している交差点を武蔵野通りに南下したサミット反対側の路地に鎮座しているのが「井口八幡神社」。社地は東面している。
背の高い樹木の枝によって境内で造られる木漏れ日が気持ちよい。道路とも離れており住宅地の中で静かな佇まいであった。



「大鷲神社」 (三鷹市井口鎮座)

創建年代は不詳。江戸中期に創始されたものと推測。付近には尾張徳川公の鷹狩場があった。

明治9年(1876)井口南横町蓮華寺跡にあった神社が現在地に移るとある。
近隣では最古のお酉さまとされ、11月の酉の日には市を行なっているという。また武者小路実篤揮毫の社名碑もある。


大鷲神社

大鷲神社

連雀通りと武蔵境通りの交差点北側に東面して鎮座。三鷹市と武蔵野市の境目でもある場所。細長い土地の先端にちいさな祠があり、おおきな銀杏が伸びている。ちょうど通り道だったから立ち寄ってみた。近隣では最古のお酉様とされ、この神社規模であっても「酉の市」が行われているらしい事が興味深い。



「上連雀ノ神明社」 (旧村社・三鷹市上連雀鎮座)

祭神:天照大御神

正徳6年に連雀新田開発に際して創立。
明治4年に村社列格。


上連雀ノ神明社 正面

上連雀ノ神明社 参道

上連雀ノ神明社 拝殿

 上連雀ノ神明社 境内

連雀通りに面して北面している。三鷹中央病院の道向かいに鎮座。隣には井口院という寺院もあり、典型的な鎮守様の様相。安心出来る雰囲気といったところか。色好き始めた木々が緑のコントラストを演出してくれていた。



「八幡大神社」 (旧村社・下連雀八幡大神社・三鷹市下連雀鎮座)

祭神:応神天皇

明暦3年の江戸大火災「明暦の大火・振袖火事」によって神田連雀町の罹災者松井治兵衛ほか24人衆が幕府奨励の新田開発農民となって三鷹市下連雀に移住してきた事により下連雀の集落がはじまる。移住と同時期の明暦年間に当社も創立。享保10月8月に改修され弘化元年8月に再建。

明治6年12月に村社列格。
現在の社殿は昭和40年9月に新築再建されたもの。

ちなみに当社の「二之宮神輿」は1994年版のギネスブックに掲載されている。掲載理由として神輿鳳凰の目に使用されているダイヤモンドが3カラットで、その大きさが当時は日本一とされたため。神輿の制作費は約1億円、重さ1.3トンで担ぎ手は120人必要という。普段は神輿庫に収納されガラス越しに見学する事が出来る。当社の神輿渡御もある祭礼は毎年9月の第2土日曜。
(ちなみにその後、富岡八幡宮の大神輿がより大きいダイヤモンドを使用している)


八幡大神社 正面

八幡大神社 参道

八幡大神社 御神木「すだじい」

八幡大神社 拝殿

八幡大神社 本殿裏

八幡大神社 瑞垣

八幡大神社 本殿

八幡大神社 境内

連雀通りと三鷹通りの交差点に鎮座。三鷹駅の南方約1キロの地に鎮座。
第一印象は「あっ、すごく大きい」。予想に反してかなりの境内面積。近隣の総鎮守といってもおかしくないぐらいの神社規模を誇っていた。神社の東隣には「禅林寺」という寺がありそこに太宰治の墓があるという。このあたりが三鷹の町の中心部だろうか。人通りも賑やか。参拝客も多い。境内で遊んでいる親子連れが微笑ましくもなる。神社関係者の人の気配がないのが残念なところか。これだけの規模を誇っていても兼務社(本務宮司は武蔵野市の杵築大社)ということらしい。授与所はしまっており御朱印が頂戴出来なかったのが残念。古今宗教研究所さんのページではなかなか面白い御朱印を頂戴していたので、機会があればぜひとも頂戴しにお伺いしたいところではある。



「榛名神社」 (三鷹市下連雀鎮座)

祭神:埴山比売命

三鷹市狐窪の井上氏屋敷神を当地の氏神とし昭和13年に現在地に遷座の上創建。


榛名神社

榛名神社

鎮座地は連雀通りと吉祥寺通りの交差点近く。ちょっと奥に入った住宅地の中に鎮座していた。一転してこちらはとても小さなお社。小さくてもキチンと整っており、大事にされている雰囲気は伝わってきた。もっとも樹木がないのでいささか寂しくもあったが。



「牟礼ノ神明神社」 (三鷹市牟礼鎮座)

祭神:天照皇大神
合祀:倉稲魂命

天文6年(1537)に小田原北条氏の二代目である北条氏綱家臣であった北条綱種が関東管領上杉氏の家臣であった難波田弾正の立てこもる深大寺城に相対して当地に築陣した旧跡。陣内鎮護として芝飯倉神明宮よりご神体を分祠したことに始まる。
北条綱種はもともとを高橋種政といい北条早雲に養育され、軍功あって北条姓を許された人物。北条氏康の代には江戸城主となっている。
牟礼村の開村は時代がくだり天正18年(1590)に北条康種(綱種の子)によってはじまるとされる。


牟礼ノ神明神社 正面

牟礼ノ神明神社 正面

牟礼ノ神明神社 参道

牟礼ノ神明神社 参道

牟礼ノ神明神社 拝殿

連雀通りを東にいくと、人見街道と合流する。人見街道は人見稲荷神社があることから私にとっても印象深い街道。近隣の神社詣でをしているとしょっちゅう人見街道に出会う事となる。牟礼二丁目の交差点から200メートルほど北東に向かった高台に神社が鎮座。由緒を見て納得の鎮座地。たしかに高台になっており、陣地を構築するにはちょうど良い土地でもあった。参道の石段脇に小さな花壇があったりして、良く手の届いている雰囲気が感じられる。訪れた時間が夕刻という事もあって、日差しが眩しいぐらいに視界に飛び込んでくるのも気持ちよいものであった。



「新川ノ天神社」 (旧村社・三鷹市新川鎮座)

祭神:菅原道真公

創建年代は不詳。かつては多摩郡新川村天神山に鎮座という。寛永年間に現在地に遷座。
明治33年に村社列格。


新川ノ天神社 正面

新川ノ天神社 拝殿

新川ノ天神社 拝殿

新川ノ天神社 天満の牛

人見街道から南に下ると東八道路。三鷹市の東部の新川・牟礼・北野地区の中心に近い地に鎮座している。そろそろ暮れかかった16時。あと1時間もすれば暗くなるだろうから、気持ち急ぎ目に参拝。参道は東八道路に面して北面。参道をすすむと社殿は向かって右手に鎮座。90度折れているので東面している事になる。境内は広く開放的。開放的すぎていささか寂しいぐらいだ。参道は樹木が立ち並んでいるが、社殿のまわりに樹木が少ないのが残念だった。



「勝淵神社」 (旧村社・三鷹市新田鎮座)

祭神:水波能売命
合祀:柴田勝家公

もともとは水神として水波能売命をまつっているが創建年代は不詳。

天正11年(1583)織田信長の重臣柴田勝家が羽柴秀吉に敗れ北ノ庄城(福井県)で自刃したが、そのおりに孫の権六郎(3歳)に愛用の兜を与え郎党とともに当時上野国にいた外祖父の日根野高吉のもとに孫を逃した。
その権六郎は16歳になっり元服し柴田勝重と名乗る。
慶長4年(1599)に徳川家康に召し抱えられ上野国にて2000石を与えられる。翌年の関ヶ原の合戦で初陣。そののちの大阪の陣での功績により武蔵国多摩郡上仙川村(現在の三鷹市新川)中仙川村(現在の三鷹市中原)そのほか500石を加増される。
上仙川村に入村した柴田勝重は村の中ほどの台地(現在の新川団地付近)に陣屋を築き北方の「水神の杜」に社殿を建立。その傍らに祖父柴田勝家より与えられた兜を鎮めて神霊として祖父柴田勝家を祀り社号を「勝淵大明神」と定めた。柴田家は勝重の孫代の元禄11年(1698)までこの地を領有していた。

明治6年12月に村社列格。


勝淵神社 正面

勝淵神社 拝殿

昭和63年再建された「兜塚」

勝淵神社 御神水 試しに触ってみましたが出ませんでした・・・

勝淵神社の杜は右手 流れるのは仙川

近隣の春清寺にある柴田勝重の墓

近隣の春清寺にある柴田勝重の墓

仙川にそった森林地区に鎮座。付近は丸池雑木林公園として整備されている。仙川の対岸には杏林大学医学部付属病院がある。
由緒を知るまで、この地を柴田勝重という柴田勝家の孫が領有していたことをしらなかった。この神社がその柴田勝重と関係する地でもあり、名残が残っている。こういう歴史を知る事が出来るのがちょっと嬉しい気分になり思わずワクワクしてしまう。



「中嶋神社」 (旧村社・三鷹市中原鎮座)

祭神:宇迦乃魂命 大己貴命

創建年代は不詳。元禄年間の棟札が残る。
明治6年12月村社列格。

境内には中氷川不動堂がある。


中嶋神社 正面

中嶋神社 参道

中嶋神社 拝殿

境内の不動堂

境内の厳島神社

境内の富士嶽神社

中央自動車道の高架の南側に鎮座。向かい側に三鷹市立中原小学校がある。境内の左側には富士嶽神社、厳島神社が鎮座。入口から見るとそれぞれの神社の鳥居が大小中で並んでいるのが面白い光景。富士嶽神社の冨士がモニュメントされているのはなかなか新しい発想。これも面白い。社殿のうしろには90度互いで不動堂も鎮座していた。そんな境内には猫もいてなんか和んでしまった。

向かいの三鷹市立中原小学校の反対側には「春清寺」という寺院がある。ここには前述の柴田勝重の墓があるというので、せっかくなので今日の最後に立ち寄り。


以下は、三鷹市以外の神社


「笠森稲荷神社」 (小金井市東町鎮座)

祭神:倉稲魂命

創建年代は不詳。一説によると元文元年創建とも言う。
「笠森いなり」として崇敬され、難病平癒の霊験あらたかとされる。


笠森稲荷神社 正面

笠森稲荷神社 参道

笠森稲荷神社 拝殿

笠森稲荷神社 境内

上記の井口八幡に参拝する前に立ち寄った神社。三鷹市内ではないので別途掲載。三鷹市内を東西に走る連雀通りを西に向かう。西武多摩川線新小金井駅のほど近くに連雀通りを南北にして南に笠森稲荷、北に小金井天神社が鎮座している。笠森稲荷神社は通りに面して南に参道が延びている。でも社殿は西向きに鎮座。その社殿だけが90度折れている理由はわからないが、ちょっと面白い。赤が眩しい境内。ひさしぶりに稲荷らしい稲荷を見た気分。



「関野天神社」 (小金井天神社・小金井市東町鎮座)

祭神:菅原道真公

享保7年正月中創建とされる。関野新田開発にあたり守護神として奉斎した事にはじまる。
現在の社殿は昭和46年造営。


関野天神社(小金井天神社) 正面

関野天神社(小金井天神社) 参道

関野天神社(小金井天神社) 拝殿

関野天神社(小金井天神社)社殿

さきほどの笠森稲荷神社の向かいに鎮座。実際は50メートルほど東にずれているが。参道も50メートルほどといった感じ。そんなに長くはないがほどよい長さ。境内も静寂。一本の大きな銀杏がよく目立つ。



「杵築大社」 (旧村社・武蔵野市境南鎮座)

祭神:大国主大神 事代主大神

慶安年間(1648−1651)に徳川三代将軍徳川家光の従兄弟に当たる家康次男の結城宰相松平秀康(越前北ノ庄)の三男であった松平直政公(出雲松江初代藩主)が将軍家より当所を賜り御用屋敷を設けて鷹狩りをしていた地という。
松平直政公が出雲杵築大社(出雲大社)と稲荷社を当地に勧請した事に始まる。
そののち四代将軍家綱によって玉川上水が敷設(承応3年1655)し武蔵野の新田開発が進み、貞享年間(1684−1688)に松平御用屋敷は幕府の直轄地となり松平家の屋敷はなくなったが神社はこの地に残り境本村の氏神として崇敬をあつめてきた。
明治6(1873)年、村社列格。
昭和21年(1946)11月に出雲美保神社より事代主大神を勧請し「大黒様・恵比須様」の二福神を祀る神社として整えられた。

三多摩に現存するものでは清瀬の富士山神社に次いで二番目に大きな富士塚が境内にある。
明治14年に境本村をはじめて近隣22町村の丸嘉講中によって造営。

境内には御神木「大銀杏」がある。別名は「千本銀杏」(武蔵野市天然記念物)
樹齢は300年以上。主幹の樹高は約25メートル、根本周囲は約4.2メートル、枝張り17メートル四方。
主幹は5本。支幹は40数本よりなっている。
落雷等によって一度枯れたもの(約150年以上前)の根から、再度いくつもの幹が生えた大木は非常に珍しい。この御神木はメスの木であり秋には多くのギンナンが実る。ちなみに拝殿左手にはオスの木がある。



杵築大社 正面

杵築大社 参道

杵築大社 拝殿

杵築大社 境内 中央に御神木

杵築大社 社殿

杵築大社 御神木

杵築大社 御神木と拝殿 複数の幹が集まっているのがわかる

杵築大社 松平稲荷社

杵築大社 多摩地区で二番目に大きな富士塚

こちらは武蔵野市に鎮座。武蔵境駅からまっすぐ南に200メートルほどいった地に鎮座。連雀通りは武蔵野赤十字病院の交差点を北上した地。
このあたり界隈では一番大きな神社だろう。神職さんも常駐しており御朱印も頂戴出来る。(私がお伺いしたときは七五三で祭事が賑やかだったときなので半紙に書いてある御朱印を頂戴したが)
なによりも目立つのが「御神木」。大銀杏は「千本銀杏」と呼称されている。一本幹ではなく複数の幹が寄り集まって生えているというのが珍しい。これはなかなか見られるものではないと思う。社殿の左手には富士塚もある。これも大きい。なんでも多摩地区では二番目に大きな富士塚という。境内では「由緒書」の他にも「境内の植物案内」や「見どころ案内マップ」を配布しており、そんなパンフを片手に境内を散歩するのも楽しい。




参考文献等
各神社境内の案内板等

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